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2023年12月04日
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背番号16(その3)

背番号16の第3回目です

背番号16がようやくメジャーになる時が来ました 櫟さんのあとこの番号を着けたのは名三塁手と言われた三宅秀史さんよ 吉田義男さんとの三遊間は鉄壁を誇りタイガースの歴史に残るコンビと言われてるよね 「16」を14年間背負い続けた選手です

​そのほか2名を紹介するけど そのうち上田次朗さんは「背番号15―3」で詳しく書いてるからそちらを見てね

​三宅秀史 内野手​

三宅は岡山県琴浦町(現倉敷市)の出身で、県立南海高校(現児島第一高校)当時はセカンドを守ることが多かった。チームのエースで大洋へ進んだ田代照勝を見に来ていたタイガースの青木一三スカウトが見つけ、入団契約を結ぶ。

1年目の1953(昭和28)年は背番号「38」で、9月には早くも一軍に上がりセカンドとして26試合で起用されている。成績は58打数13安打7打点1本塁打7三振で、打率.224だった。

2年目の1954(昭和29)年から背番号を「16」に替え、セカンドで58試合に出場しているが、84打数18安打6打点で打率.214と伸び悩んでいる。

飛躍的に成長を見せたのはサードに抜擢された1955(昭和30)年だった。この年は126試合に出場、385打数95安打3本塁打、打率.247を記録し、初めて二けたの18盗塁を決めた。盗塁はこの年から8年連続で二けたを記録し、ピークの1958(昭和33)年には35盗塁と俊足を武器にしている。

三宅は当時のプロ野球界のだれもが「名手」と認めるサードの守備が最大の魅力だった。フットワークが素晴らしく打球に追いつくのが速いので難しい打球も正面で取ってオーバースローで送球するという基本に忠実なプレーができる。そのうえ地肩も強いため守備範囲は極めて広い。

華麗さはないが、これほど信頼できる内野守備はほかに類がなく、当時読売の監督だった水原茂が「三宅の守備に比べたら長嶋のそれは素人」と発言しているほどである。同時期のショート吉田義男、セカンド鎌田実を合わせた鉄壁の内野陣は「試合前のシートノックだけで飯が食える」と言われるほど華麗な守備を誇り、この間をゴロで抜くのは容易ではなった。

もう一つ三宅が後世に影響を与えたのは連続出場記録だろう。1957(昭和32)年から1961(昭和36)年は5年連続全試合に出場している。

1962(昭和37)9月5日まで、882試合連続出場と700試合連続全イニング出場を継続していたが、9月6日の試合前の練習中に悲劇が起きる。

この日、外野でキャッチボールをしていた小山正明の投げたボールがそれて三宅の左眼に当たり、虹彩分離の重傷を負ってしまった。1.5だった視力は0.1まで落ちて回復することはなく、事実上選手生命を絶たれた。

三宅の連続試合出場は、のちに衣笠や金本、鳥谷などに抜かれていくが、こういう記録の価値が評価されるきっかけとなったことで、三宅は「元祖鉄人」などと呼ばれることが多いし、眼の負傷が無かったら追い越すのが困難な数字まで伸ばしていたかもしれない。次の写真は記録更新の金本に花束を渡す三宅さん。
 ​負傷後も復帰して1967(昭和42)年まで現役を続けたが5年間で29安打に終わり、現役を引退した。『哀愁のサード 三宅秀史』(平岡泰博著)によれば、平岡の「野球人生に悔いはあるか?」という問いに、三宅は「……あのね、大ありや」と答えている。​

1966(昭和41)年に現役コーチ兼任になっており、引退後も1970(昭和45)年まで引き続きコーチを務めた。

 通算成績は1219試合3894打数1553安打376打点100本塁打199盗塁、打率.252である。

打率はさほど高くなかったが、1958(昭和33)年に21本塁打を記録しているように長打もあり、同僚だった小山正明は「打球の鋭さは一級品」と評価している。背番号「16」を14年間着けた。

​​​平山英雄 投手​​​

平山は北海道釧路市出身の右投げ本格派の投手。釧路江南高校3年次に夏の甲子園に出場し、一回戦敗退ではあったが将来性を認められて1966(昭和41)年の一次ドラフト2位でタイガースに入団し、1年目は背番号「31」を着けた。ちなみにこの時のドラフト1位は江夏豊である。

入団時には江夏より評価が高く、1年目の1967(昭和42)年には江夏より先に一軍へ上がり、4月13日の大洋戦でデビューを果たした。4月25日には初先発もしているが、1年目は7試合登板で0勝1敗、防御率5.40に終わっている。

江夏のほうも平山と同じ4月13日の大洋戦でデビューしているが、こちらは1年目から12勝を挙げて平山を圧倒した。

1968(昭和43)年、前年に引退した三宅の「16」番を受け継いで飛躍を目指すが一軍出場なし。翌1969(昭和44)年も1年間二軍暮らしが続いている。

1970(昭和45)年、ようやく一軍登板の機会がありプロ初勝利を挙げたが登板はこの1試合のみ。翌1971(昭和46)年も一軍登板は3試合しか無く、この年は未勝利に終わっている。

1972(昭和47)年は背番号「16」を上田次朗に譲って「30」を着け、1年間中継ぎとして一軍に定着して7勝4敗、防御率3.07とプロ入り後初めてまともな数字を残した。この年、村山実の引退試合で、入場する村山を担ぐ中の一人に 背番号「30」の平山がいる。

しかし翌年からまた二軍生活に戻り、1974(昭和49)年のオフに交換トレードでロッテオリオンズへ移籍していく。ロッテでは出場機会がないまま、1975(昭和50)年限りで現役を退いた。

上田次朗 投手(再掲)

上田は1970(昭和45)年、ルーキーとして平山から「16」を受け継ぎ、1979(昭和54)年まで10年間背負った。トレードで南海に行き、タイガースに復帰した1982(昭和57)年に「15」を着け、その年を最後に引退している。

本来は背番号「16」で紹介したいところだが、登場番号順で進めてきているため、わずか数か月しか着けなかった「15」のほうで紹介してしまっている。

詳細については「背番号15-3」を参照していただきたい。(タイガース背番号史 15-3 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

まとめ

 三宅さんは怪我が無かったら連続記録ももっと伸びて歴史的な大選手になってたかもしれないね それでも超一流の守備では名を残してます 致命的な眼の負傷が無ければ 永久欠番になってたかもしれないわね

現在の岡田監督はまだ幼稚園児だったころに三宅さんとキャッチボールをしたことがあるのよ 三宅さんに憧れて三塁手を志したんだって! しかも現役時代には同じ「16」を着けてるよね 三宅さんの着けた番号だったから入団時に希望したんだよ その辺は次回で詳しく出てくるよ

平山さんは先代も「記憶に無いなあ」って言ってる 特に大きな故障や怪我があったという記録も見つからないから 実力が無かったというほかないかな

上田さんは「15-3」で詳しく記載してるから省略しました 次回は背番号16の4回目になるけど この上田さんのあと「16」を受け継いだのが岡田監督よ!

その4に続く



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Last updated  2023年12月04日 08時30分06秒
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