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タイガース非公式サイト2代目

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2024年08月19日
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背番号25(その1)

今回から「背番号25」を開始しますよ ます第1回目です

この番号は球団創設の年から着けらていますね 歴史をざっと見ると投手や野手のどちらかに偏っているわけでもないんだけど 一番最初は初代監督の森茂雄さんだよ タイガースOB会の生みの親でもある重要人物ね

ほかにも結構主力選手が着けていることが多いのよ 古いところでは別当薫さんや昭和の守護神だった山本和行さんも着けてたよね

投手野手に関係なく主力やドラフト上位が着ける番号と言えるかな。では順次見ていきましょう

森 茂雄 初代監督

愛媛県松山市の出身で旧制松山商業では内野手としてプレー。卒業後は早稲田大学に進んで東京六大学リーグで活躍。通算93試合で315打数78安打、打率.248、0本塁打、41打点という記録が残っている。

 卒業後は社会人クラブチーム「東京倶楽部」に入り1931(昭和6)年~1932(昭和7)年に都市対抗野球で連続優勝を飾る。

その後母校松山商業の監督として1935(昭和10)年の夏の選手権で優勝すると、同年創立された大阪タイガースの初代監督として招かれ、背番号「25」を着けるが、森はタイガースとはあくまで「監督」として契約しており試合に出ることはなかった。

 日本の野球の発祥地ともいわれる松山出身で、母校松山商関係の選手などを集めるなどチームづくりに尽力し、1936(昭和11)年、タイガースは初めて職業野球に参戦することになる。

 ところが同年7月29日、森は突然解任されてしまう。当時阪神は同じ鉄道会社である阪急に強烈なライバル心を持っており、阪神社長から絶対負けるなと厳命されて臨んだ阪急との練習試合で大敗したことで逆鱗に触れ、解任に至ったと言われている。

 退団した森は1937(昭和12)年、創設されたばかりのイーグルスに監督兼選手として招かれ、1939(昭和14)年まで指揮をとった。

この間、1937年秋季に1打席、1938(昭和13)年は春季に1打席と秋季に2打席、代打として自らバッターボックスに立ったことがある。結局は4打数0安打1三振でこれが生涯成績となっている。

 戦後の1946(昭和21)年に東京大学野球部のコーチとして球界に復帰すると、1947(昭和22)から1957(昭和32)年まで早稲田大学の監督として通算9季のリーグ優勝に導いている。広岡達朗も教え子の一人。

早稲田大監督時代の森


 1959(昭和24)年には大洋ホエールズに招かれ、球団社長兼監督に就任する。西鉄の三原修監督の招へいなどチームの大改革を断行し、1960(昭和35)年には新監督となった三原のもとリーグ優勝・日本一を達成させている。

 1972(昭和47)年にはタイガース出身者に声をかけ、松木謙治郎を会長に据え、藤村冨美男を副会長として「阪神タイガースOB会」設立に尽力した。

 1977(昭和52)年に逝去、享年71歳。死後、功績をたたえられて野球殿堂入りしている。

野球殿堂博物館の顕彰プレート


玉井 栄 外野手

 福岡県出身で旧制小倉工業高校ではエースとして活躍。1934(昭和9)年の春夏、1935(昭和10)年春、1936(昭和11)年は春夏と、通算5季の甲子園出場はすごい。
 ちなみに
2020(令和2)年3月には、玉井が1936年の選抜で受賞した個人賞のブロンズ像(5体のうち1つ)が遺族から甲子園歴史観へ寄贈されており、貴重な史料となっている。


 甲子園での実績から読売と阪神による争奪戦になったが、タイガースが好条件を提示して1937(昭和12)年に獲得にこぎつけた。背番号「25」。

 玉井は甲子園でホームランも記録するなどバッティングにもセンスがあったため、プロ入りと同時に外野手に転向している。

 ところがプロ入り後の成績はさっぱりで、1937年春が20試合20打数2安打0打点で打率.100。同年秋季は出場が15試合に減っている。

 1938(昭和13)年になると春・秋とも8試合づつしか出ていない。しかも年末には軍に召集されて延々と終戦まで戦地に赴いており、その間に負傷するなど不運も重なった。

 玉井は戦争が終わってもプロへ復帰はせず、九州電力へ就職している。ここでも社会人として野球をしたかどうか実績は伝わっていない。

 1953(昭和28)年、作業中の感電事故で亡くなっている。享年35歳だった。

 プロ在籍は実質2年間で、51試合51打数10安打2打点4盗塁8四球12三振、打率.196である。

高山 泰夫 外野手・内野手

 岐阜県出身で旧制岐阜商業(現県岐阜商)では1939(昭和14)年の選抜大会に補欠で出場し準優勝を経験する。

翌1940(昭和15)年にも選抜大会に出ている。この時も控え選手だったが3打数3安打を記録してチームの優勝に貢献しいる。なかでも決勝戦では同点の8回に代打で登場して決勝点をたたき出しており、一躍優勝の立役者となって当時の「美技賞」を獲得している。

さらに1941(昭和16)年の選抜にも出場。この年はファーストのレギュラーでベスト4まで進んだが連続優勝は逃した。

 1942(昭和17)年にタイガース入団、背番号25。この年は18試合に出ているが20打数2安打で打率.100で終わっている。

 1943(昭和18)年はわずか9試合という数字しか残っていないが、シーズン中に軍の招集にあい、終戦まで戻れなかった。

 1946(昭和21)年にタイガースへ復帰。41試合で77打数21安打9打点1本塁打、打率.273という成績を残す。

タイガースに戻ってくると背番号「25」はすでに松本太が着けていた。仕方なく空いていた「8」でプレーしていたが、同年山口政信が復帰してくると戦前から着けていた「8」を希望したため譲り、高山はまた空いていた「27」へ変更するという「背番号の玉突き」があった。

 事情は定かではないが、1947(昭和22)年は出場がなくそのまま退団している。引退後は社会人東洋産業。

 通算成績は68試合108打数25安打13打点2本塁打2盗塁14四球21三振、打率.231だった。

まとめ

 最初は初代監督の番号だったのね ただし事情があってすぐに解任されてるから着けてたのは1年にも満たない期間だけだったけど

 2人目の玉井さんは悲劇的で 戦争で人生がゆがめられた犠牲者の一人 亡くなったのも若いし不慮の事故でお気の毒だった

 3人目の高山さんも戦争行ってるからやっぱりついてないよ 背番号25を着けたのもわずか2年間だったからなあ しかも戦後に復帰したら背番号「25」はすでに別の人が着けてたってこれもついてないよね 画像資料も見つからなかった

25の2に続く



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Last updated  2024年08月19日 18時30分07秒
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