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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号25(その8) 背番号25の8回目 ようやく最終回にこぎつけました 残りは3名です もう名前出しちゃいましょう 最初に登場するのは皆さんよくご存じの人ですよね 2023(令和5)年から広島東洋カープの監督に就任している新井貴浩さんです そして2人目は江越大賀選手 すごい身体能力があって期待されながらレギュラーに定着できなかった人よね いまは日本ハムにいます 最後に今現在この背番号で戦ってくれているのが2023年に日ハムから来た渡邊諒選手です 主にサードの控えとして時にはスタメンにも起用され渋い働きをしてるよね 長打力があるから右の代打でも貴重な存在 新井貴浩 内野手 広島県広島市出身。県立広島工業では県大会ベスト16が最高で全国大会とは縁がなく、プロからも評価されていなかったが、駒澤大学に進み4年時に大きく躍進する。秋のリーグ戦で打点王となりベストナインにも選ばれ、大学日本代表にも入って日米大学野球では打率5割を記録。 大学でのリーグ選通算成績は60試合187打数45安打26打点で打率が.241。意外にもホームランは通算2本しか打っていない。 1998(平成10)年のドラフト会議前には大学の先輩野村謙二郎を通じて大下剛に頼み込んでもらい滑り込みで6位指名となる。カープのスカウトは指名リストに挙げていなかったという。 プロ1年目の1999(平成11)年、長打を打てる素質は見るべきものがあったが守備のレベルが低く、大下コーチから厳しい指導を受けながら53試合に出場して7本塁打をマークしている。 2年目の2000(平成12)年は出場が92試合になり16本塁打を記録しレギュラーへの期待が高まる。 3年目となった2001(平成13)年、出場が124試合に増え、それまで2割5分に届かなかった打率が.284と向上したうえに18本塁打と素質が開花してくる。 2002(平成14)年はついに全140試合に出場、147安打75打点28本塁打と結果を出し、自己最高の打率.287と飛躍、翌2003(平成15)年も規定打席をクリアして19本塁打を記録する。 ただし守備の欠点の克服には時間がかかっており、プロ入り最初の3年間のポジションはファーストとサードがほぼ半々、4年目がサード、5年目がファーストと落ち着いていない。 6年目の2004(平成16)年は打撃不振に陥り、103試合に出たものの規定打席は程遠く、69安打36打点10本塁打で打率は.263に終わる。 好い球を待つあまり見送っているうちに追い込まれ、最後はボール球を振らされるパターンになっていることから、内田コーチが「初球から打て」と積極的な打撃を薦め、併せてコンパクトに鋭く振るフォーム固めにも取り組んだ。 2005(平成17)年、守備位置がほぼサードに固定されたのも功を奏して打率は初の3割越え(.305)、43本塁打でキングに輝き、打点も94、6月には月間MVPにも選ばれ、6試合連続本塁打を記録するなど、ホームランバッターとして広島打線の中心選手にのぼりつめた。 2006(平成18)年、2007(平成19)年は25本、28本と本塁打は物足りないが、2年連続100打点越え、打率も2割9分をキープしており安定感があった。 そして2007年11月8日、この年獲得したFA権行使を宣言するに至る。悩んだ末の宣言だったが、タイガースにとってはアンディ・シーツが抜けた穴を埋めるために必要な戦力であり12月11日には入団が決まった。 「もう一度先輩金本と一緒に野球がしたかった」と会見で語っているが、「僕のことを野次るファンよりも僕の方がカープを愛してる」とも語るなど、出身地でもあり育ててもらった広島への愛着を振り切る葛藤には相当悩んだ様子がうかがえる。新井の「カープ愛」は現役でもう一度カープに戻り、監督に就任するというその後の経緯を見てもよくわかる。 タイガースでは2008(平成20)年から2014(平成26)年まで7年間プレーしているが、この間カープ時代と同じ背番号「25」を着けている。 新井は浜風の影響を受けにくい右の大砲として大きな期待をもってタイガースファンに迎えられたが、7年間の成績を見ると十分に期待に応えることができたとは言えない。数字を見てみよう。 年度 試合数 安打数 打 点 本塁打 三 振 併殺打 打 率 2008 94 112 59 8 83 7 .306 2009 144 145 82 15 82 20 .260 2010 144 177 112 19 89 19 .311 2011 144 148 93 17 106 20 .269 2012 122 115 52 9 85 12 .250 2013 140 127 70 15 110 17 .267 2014 94 43 31 3 31 6 .244 タイガースファンは毎年30本くらいは打ってほしいと思っていたはずで、7年間一度も20本にすら届かなかったのは期待外れの成績だった。 移籍1年目の2008年は北京オリンピックの代表に選ばれて戦線を離脱し、さらにオリンピック後に腰痛(のち疲労骨折だったと判明)を訴え後半戦を棒に振っている。これが13ゲーム差をひっくり返された世紀のⅤ逸に大きな影響を与えてしまったのは否定できないだろう。ただし前半戦は非常に好調だったためシーズン打率は3割越え、守備ではゴールデングラブ賞を受賞している。 2009年から2011年は3年続けて全試合出場しているし、2011年は打点王も獲得した。それでも大きなインパクトを感じないのは、優しい性格や金本にいじられるとプレッシャーで気持ちが空回りしてしまうようなところがあったからではないか。 選手会長だった2011年は3月に東日本大震災が発生、開幕時期や試合の実施方法などNPBとの交渉に奔走しているし、被災地への支援活動も行うなど野球とは違う面で多忙な中での打点王は評価できる。頼まれれば一生懸命やる、そして人を思いやる、そういう新井の優しさが垣間見えた年だった。 新井は広島を出るべきではなかった選手のように思えてならない。タイガースでの7年が新井の人生でどんな意味を持ちどんな経験値となったかは本人しかわからない。 7年目も腰痛に悩まされ194打席しか立てず、CSから勝ち上がった日本シリーズにも出ていない。タイガースファンも新井の打席に期待する雰囲気ではなくなった。 シーズン終了後、新井は自ら退団を決意し、球団に対して自由契約を申し入れ、12月2日に公示された。 すぐにカープが動いて12月11日に契約が成立するが、年俸はタイガースが提示していた7000万円を大きく下回る推定2000万円だったという。 それでも広島に帰ってこれた新井は、同時にアメリカから復帰した黒田博樹と並んで会見し、晴れ晴れとした顔をしていた。 この成績で満足してしまったというのもあるが、その後2年間は故障がちで2018(平成30)年9月5日に引退を表明した。 通算成績は2383試合7934打数2203安打1303打点319本塁打709四球1693三振242併殺打、打率278だった。十分に誇れる成績だ。 引退後は解説や評論の仕事をしていたが、2022(令和4)年のシーズン不振を理由に退団した佐々岡真司のあとを受け、10月7日に広島の一軍監督に就任する。 1年目の2023(令和5)年はタイガースと優勝争いをするも終盤に失速して2位となった。そして2024(令和6)年9月現在、昨年と同じような失速はあったがCS争いの最中である。 江越大賀 外野手 長崎県南島原市出身。中学時代は軟式野球、長崎海星高校に進んでから本格的に硬式野球に取り組む。3年夏の地区予選は決勝で長崎日大に敗れ甲子園には出ていない。高校通算26本塁打のスラッガーだったがプロ志望届は出さず駒澤大学へ進学する。 大学では打力を買われて1年春からリーグ戦に出場しており、2年秋、3年秋、4年秋と3季でベストナインに選ばれている。通算96試合で330打数80安打11本塁打 打率.242という成績が残っている。打率は低いが長打力は相当なものだった。 2014(平成26)年のドラフト会議でタイガースが3位指名、背番号は退団した新井の「25」を受け継いだ。 1年目の2015(平成27)年、その高い運動能力が評価され開幕から一軍に入り、4月28日、プロ18打席目で初本塁打を記録するが、新人としては田淵幸一に次ぐ2番目のスピード記録だった。 7月には2試合連続本塁打を記録するなど、1年目は56試合に出場し168打数36安打16打点5本塁打、打率.214を記録している。俊足で守備もよく長打もあり、いずれはトリプル3も可能な選手と評価は高まった。 しかしバッティングにムラがあって好調が持続しないため、一軍に上がっても定着できずまたファームという繰り返しの選手になってしまう。 出場試合数で1年目の56試合を超えたのは2年目の72試合だけでホームランも7本打っている。 それ以外はファームに沈没している期間がはるかに長かったのでファンから見ても存在感が薄れていってしまう。3年目からの6年間で打ったホームランは1本だけでは、すっかり守備固めや代走専門のようになって居場所がなくなってきても仕方がない。 2022年10月、江越は齋藤友貴哉とともに、渡邉諒、髙濱祐仁との2対2の交換トレードで北海道日本ハムファイターズへ移籍することになる。 日本ハムの新庄剛志監督はかねてから江越の運動能力を高く評価しており、「ぜひうちに」と請われての移籍だった。 移籍1年目の2023(令和5)年は100試合に出場、150打数27安打13打点5本塁打を記録し、守備固めとしてもチームに貢献した。 渡邉 諒 内野手 茨城県土浦市出身、小学生時代から硬式野球を始めており、高校は高橋修平にあこがれて東海大甲府を選ぶ。1年生の夏には高橋に代わって4番に抜擢されるほどの選手で、2年の夏には甲子園に出場しホームランも打っている。3年時にはU18ワールドカップ代表入り、高校通算では39本塁打の記録を残している長打力が売りの選手だった。 2013(平成25)年のドラフト会議で日本ハムは1巡目で3回抽選に敗れ、4人目として渡邉を指名して獲得。一応ドラフト1位入団である。 プロ1年目の2014(平成26)年は2試合、2015(平成27)年が9試合、2016(平成28)年が1試合、4年目の2017(平成29)年が22試合と1軍経験があり、2016年は出場1試合ながらプロ1号本塁打をマークしている。 5年目の2018(平成30)年に出場数が60試合に増え、7本塁打を記録して一軍選手として定着するようになる。 そして2019(令和元)年には132試合で規定打席をクリアすると481打数126安打58打点11本塁打で打率.262というキャリアハイの成績を残す。 2020(令和2)年も117試合に出て規定打席に到達し117安打39打点6本塁打、打率.280の数字で「直球破壊王子」の異名が付くほどになる。 しかし2021(令和3)年が81試合、新庄剛志監督が就任した2022(令和4)年には21試合と出場試合が激減してしまう。 そして上記の通り2022年オフに江越との交換でタイガースに移籍することになる。背番号は江越からスライドして「25」を着けることになった。 内野はすべてのポジションを経験しているユーティリティプレイヤー。タイガースでは非常に有効な控え選手として、また「直球破壊王子」の異名どおり右の代打としても貴重な存在になる。 移籍1年目の2023(令和5)年は、ちょうど岡田監督が2度目の就任をした年で、59試合の出場ながら、主力不振の時はスタメンに入るなど要所で貴重な働きをした。日本シリーズでは第1戦に指名打者でスタメンに入っている。 本来足も速く、守備も下手ではなく、打撃も長打が期待できる、結局は江越と似たタイプで、もっと打席に立たせてもいい選手だ。レギュラーとして使えはホームラン二けた打つ力は持っているはずだが・・・ まとめ 新井さんはなんでFA宣言したんだろうね? 待遇面なのか 人気球団でやりたいとおもったのか それとも金本さんについていきたかったのか 理由はよくわかんないんだよね 宣言した時の記者会見でも「広島に愛着がある」って泣いてたんだよ なら残るべきじゃなかったのって2代目は感じてしまう 確かにまだそのころ「カープ女子」もいなかったし、他球団より待遇面も悪かったかもしれないけど 熱烈な地元ファンもいて 新井さんは広島生まれの広島育ちなんだし 愛されてたとおもうよ 広島一筋なら2500安打や400本塁打だってできたとおもうな でもタイガースでも野次に耐えながら一生懸命プレーしてくれて感謝してます 江越さんは入団時の体力測定からして歴代最高の数値を出してたそうで もっと大物になって不思議じゃない素質を持ってるのに何で伸びないんだろうね こういう選手って多い気がする 実にもったいないよ 平田さんが2軍監督当時「練習だけ見たら3億円プレイヤー」というほどなんだけど・・・ 渡邉さんは日ハム時代に「レギュラーになった」という年があったんだよね それが持続できてればファイターズの4番になってたんじゃない? 結局ユーティリティさが仇になってレギュラーから便利屋へと転じてしまったんだよね 好いものを持ってるだけに惜しいとおもう
「25」は今着けてる渡邉さんが20人目です 多いほうなのかな? 内容的にも長くなってしまった人がいるので8回までかかっちゃったわ これで背番号25は終了よ 最後までお付き合い頂いた皆さんありがとう お疲れさまでした
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