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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.07.23
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カテゴリ:夏目漱石

 
 漱石が、東京高等師範学校の職を辞して、突然、松山の中学校教師として赴任したことについて、様々な議論が戦わされています。年棒450円の高等師範学校英語教師から月給80円になることは、奨学金の返済に悩んでいた漱石にとって「渡りに船」だったことはいうまでもありません。
 明治39年10月23日、漱石は当時京都帝国大学文科大学初代学長に就任した狩野吉宛に宛てて手紙を送りました。その中には松山行きに触れた部分があります。「御存知の如く、僕は卒業してから田舎へ行ってしまった。これには色々理由がある。理由はどうでもよいとして、この田舎行は所謂大乗的に見れば東京にいると同じことになる。しかし世間的にいうと甚だ不都合であった。僕の出世のために不都合というのではない。僕が世間の一人として世間に立つ点から見て大失敗である。というものは当時僕をして東京を去らしめたる理由のうちに下のことがある。ーー世の中は下等である。人を馬鹿にしている。汚いやつが他ということを顧慮せずして衆を恃み、勢に乗じて失礼千万なことをしている。こんな所におりたくない。だから田舎へ行ってもっと美しく生活しようーーこれが大なる目的であった。然るに田舎に行って見れば東京同様の不愉快なことを同程度に於て受ける。その時僕はシミジミ感じた。僕は何が故に東京へ踏み留まらなかったか。彼らがかくまでに残酷なものであると知ったら、こちらも命がけで死ぬまで勝負をすればよかった」と綴っています。
 
 この漱石の松山行きには、女性の影が見え隠れするという研究家もいます。兄・直矩の兄嫁・登世、里子に出された塩原家で、明治7年頃に一年ほどともに暮らした日根野れん、井上眼科で出会った女性などですが、その中で、小坂晋は漱石の親友である小屋保治と明治28年に結婚した大塚楠緒子(くすおこ・なおこ)説を提唱しています。大塚楠緒子は詩人・小説家として活躍しましたが、明治43年に亡くなっています。
 大塚楠緒子が小屋保治と見合いをしたのは明治36年7月で、漱石はその後に楠緒子と見合いをしたのではないかという研究家もいます。父親が法科出身を望んだのに対し、楠緒子は文科出身者を希望していて、二人の間に嫁選びレースが行われたというのです。
 結果、38年2月13日に楠緒子と保治は結納を交わし、3月4日に入籍します。漱石は、翌年の3月上旬に師範学校を辞職し、松山中学へ行くことを承諾します。4月7日に東京を発った漱石は、9日に松山に着きました。
 

 
 楠緒子が亡くなったのは35歳、明治43(1910)年11月9日のことでした。流感に肋膜炎を併発して大磯の別荘で死去します。楠緒子の死後、漱石は「ある程の菊投げ入れよ棺の中」という句を詠んでいます。
 
 私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古いことになる。
 ある日私は切通の方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。その曲り角にはその頃あった牛屋の傍に、寄席の看板がいつでも懸っていた。
 雨の降る日だったので、私は無論傘をさしていた。それが鉄御納戸の八間の深張で、上から洩ってくる雫が、自然木の柄を伝わって、私の手を濡らし始めた。人通りの少ないこの小路は、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄の歯に引っ懸る汚ないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば佗しかった。始終通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼を惹くものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐蝕するような不愉快な塊が常にあった。私は陰欝な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。
 日蔭町の寄席の前まで来た私は、突然一台の幌俥に出合った。私と俥の間には何の隔りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だということに気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
 私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶とともに、相手が、大塚楠緒さんであったことに、始めて気がついた。
 次に会ったのはそれから幾日目だったろうか、楠緒さんが私に、「この間は失礼しました」といったので、私は私のありのままを話す気になった。
「実はどこの美くしい方かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
 その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔を赧らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
 それからずっと経たって、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪たずねて来てくれたことがある。しかるにあいにく私は妻と喧嘩をしていた。私は厭な顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
 その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へ詫りに出かけた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込んでいたのです」
 これに対する楠緒さんの挨拶も、今では遠い過去になって、もう呼び出すことのできないほど、記憶の底に沈んでしまった。
 楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支えないかと電話で問い合されたことなどもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺の中」という手向の句を楠緒さんのために咏んだ。それを俳句の好きなある男が嬉しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。(硝子戸の中 25)
 
 門人の内田百閒は、『漱石俳句鑑賞』で、この句について「夫人の訃は、先生に取っては、その大学時代の学友である所の大塚博士の夫人の夙き死を悼まれる気持の外に、また夫人の文をおしむ念も一しお強かったことと思われるのである。前掲の句は、そういうわけでつくられた哀悼の句であって、故人に対する先生の愛情の感じが情味あふるる句調に盛られている。「有る程の」というのは、あるだけの、ありったけのという意味、いくらでも、いくらでも、ありったけの菊を手向けとしてお棺の中へ入れて上げてくれ、という迫った感じを、それに応じた句格を以て詠ってある。愛惜しても愛惜しても及ばないという気持を、「秋」の象徴の如き菊花に託し、更にその菊を棺の中に抛げ入れるということに尽きない哀悼の情を託せられたのである」と書きました。
 
 芥川龍之介は、この句から漱石の恋心を感じ取ったようで「何故もっと積極的な態度をとって、姦通でも心中でもしなかったか、と歯がゆがったという」と国文学者・吉田精一の著書『大塚楠緒』に書かれています。龍之介は、漱石の一周忌に「人去つてむなしき菊や白き咲く」という句を詠みました。漱石の楠緒子への思いを弔う意味も込められていたのでしょうか。





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最終更新日  2018.07.23 17:37:16
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