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カテゴリ:夏目漱石
白金に黄金に枢寒からず 漱石 凩の下にゐろとも吹かぬなり 漱石 凩や吹き静まって喪の車 漱石 熊の皮の頭巾ゆゆしき警護かな 漱石 明治34年1月23日、81歳のヴィクトリア女王が死去しました。漱石の日記には、英語でそのことが記してあります。「咋夜六時半女皇死去す。at Osborne. Flags are hoisted at half-mast. All the town is in mourning.I, a foreign subject, also wear a black-necktie to show my respectful sympathy. "The new century has opened rather inauspiciously,” said the shopman of whom I bought a pair of black gloves this morning.(オズボーンには弔旗が掲げられている。町の全てはみな喪に服している。異邦人である私も、弔意と敬意をあらわそうと黒いネククイをつけた。「新しい世紀はひどく不吉な始まりをした」と、今日の朝に黒い手袋を買った店の店員がいった)」。漱石は、ヴィクトリア女王の死を悼んで黒いネクタイをつけたのでした。 2月2日にはヴィクトリア女王の大葬が行われます。前日、ヴィクトリア女王の棺は、ワイト島からボーツマス港駅に着き、列車に載せられてポーツマスを出発しました。この特別列車は11時にヴィクトリア駅に到着し、十二時にピカデリー•サーカスからハイド・パークを通り、1時からパディントン駅から、大葬のおこなわれるウィンザーに向かうことになっていました。漱石は、下宿屋の主人ブレットとともに、大葬を見ようと、地下鉄に乗ってハイド・バークの辺りにいました。公園の近くはヴィクトリウ女王の葬列を送ろうとする人たちでごった返していました。 漱石の身長は、160cmに満たないほどでした(157cm・159cmという説あり)。写真で見る漱石は大きく見えますが、式の身長よりも低く、それが洋行中の漱石のコンプレックスともなっていました。ブレットは、大きな子供ほどしかない漱石を肩に乗せ、大葬の列を見せてくれました。 漱石は「柩は白に赤を以て掩われたり」とまるで赤と白の幕がかけられているように日記に書いていますが、これはユニオンジャックでした。混雑のために、イギリス国旗の青が確認できなかったのでした。 Queenの葬儀を見んとて、朝九時Mr. Brettとともに出ず。 Ovalより地下電気にてBankに至り、それよりTwo pence Tubeに乗り換う。Marble Archにて降れば、甚だ人ゴミあらん故、next stationにて下らんと宿の主人いう。その言の如くしてHyde Parkに入る。さすがの大公園も人間にて波を打地つつあり。園内の樹木、皆人の実を結ぶ。漸くして通路に至流に、到底見るべからず。宿の主人、余を肩車に乗せてくれたり。漸くにして行列の胸以上を見る、柩は白に赤を以て掩われたり。King, German Emperorなど隋う。(日記 明治34年2月2日) 漱石はこの日のことを狩野亮吉、大塚保治、菅虎雄、山川信次郎といった友だち4人に宛てた手紙に「先達ての女皇の葬式は見た。「ハイドバーク」という処で見たが、人浪を打って到底行列に接することが出来ない。その公園の樹木に猿の様に上ってた奴が枝が折れて落る。しかも鉄柵で尻を突く。警護の騎兵の馬で蹴られる。大変な雑沓だ。僕は仕方がないから、下宿屋の御爺の肩車で見た。西洋人の肩車はこれが始ての終りだろうと思う。行列はただ金モールから手足を出した連中が続がって通った許りさ」と書いています。 高浜虚子に宛てた2月23日のハガキにも、この時の大葬を詠んだ俳句が綴られています。 女皇の葬式は「ハイド」公園にて見物致候。立派なものに候。 白金に黄金に枢寒からず 屋根の上などに見物人が沢山居候。妙ですな。 凩の下にゐろとも吹かぬなり 棺の来る時は流石に静粛なり。 凩や吹き静まって喪の車 熊の皮の帽を載くは何という兵隊にや。 熊の皮の頭巾ゆゆしき警護かな もう英国も厭になり候。 吾妹子を夢みる春の夜となりぬ 当地の芝居は中々立派に候。 満堂の閤浮檀金(えんぶだごん)や宵の春 ある詩人の作を読で非常に嬉しかりし時。 見付たる董の花や夕明り(高浜虚子宛てハガキ 明治34年2月23日)
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最終更新日
2019.01.25 19:34:20
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