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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2020.12.13
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カテゴリ:夏目漱石
 明治41年12月17日に生れた次男が伸六でした。妻・鏡子の『漱石の思い出』には「それから一週間ばかりして六番めの子供が生まれました。申年に生まれた六番めの人間だというので、申に人偏をつけて伸六と名づけました」と書かれています。
 翌年の1月10日の坂本雪鳥宛の手紙に「申の年の子だけあって頭に毛が真黒に生えている。四、五年前生まれた子は頭がはげていた。妊娠中あまり〇〇をしたせいじゃないかと思って大いに恐れを抱いていたら、ようやく人間並に毛が生えてきた。妙なものだ」と書いています。
 名前のせいかどうかはわかりませんが、明治41年3月23日の日記には「朝眼が醒めると豊田医学士が来る。顔を洗っているうちに診察を了えて帰る。伸六の睾丸に水のたまるのは針で穴をあけて管でとるべしとなり。これは●液の管から洩れる由。但し大事にはなる気違少なき由。外科の渡辺さんを頼むことにする。伸六は満三ヶ月也。大きな睾丸を有して、重さを感ぜざるが如し」、4月1日には「伸六の療治は四五歳にならなくては出来ぬ由。伸六はそれまで大きな金丸をぶら下げていなければならぬ」とあり、これでは申ならぬ、タヌキのようです。
 

 
 他にも、明治44年7月12日の日記に「硝子入りの菓子と菓子の烟管、烟草入とそれから旅行用のブランデー入れまがいに菓子の這入ったものを買う。きせると烟草入は純一、ブランデー入は伸六への土産、純一どぶへ落ちる」、明治45年8月2日には「○伸六、二日程前より熱。猩紅熱ときまって今朝病院に入院したという。車で行って見る。東京から呼び寄せた看護婦とつねが世話をしている。猩紅熱は咽喉と腎臓を冒す由にてその方の注意を怠らぬようにするとか。経過は一ヶ月かかるという。彼の布団やかい巻を病院で消毒してもらう。夜消毒をしに家に来る人五六人。皆白い着物をきて、家中石炭酸の臭がする。散歩から連れて戻った小供が盆槍してしまう。暗い夜で、あたりの別荘はしんとしている中で、自分の家だけが火の影や白い着物の行違う影でごたごたするのを立って見いるのは変である。『少しも品物が傷みはしません。二三日立つと臭が抜けてすっかり故の通になります』といって消毒掛の人が、しきりに消毒をすすめる。自分の洋服と妻の着物だけはチャブ台に載せて暗い畠の中に出しておく」、4日には「五時頃伸六の見舞に行く。今日は大変よくってバナナを四つ食ったそうである。床の上で電車をおもちゃにして遊んでいた」と書かれています。
 また、大正4年頃の『断片』には
○純一と伸六 縁の下へ寝る
○伸六が八十五銭〔の〕喇叭を買えというのを排斥されたので怒って縁の下へ這入ってしまった。どうしても出て来ない。あい子が海苔巻を縁の下へ出すと、怒っている伸六も食いたいと見えて、パクリと食うのだそうである。その代り口は決して利かない。
○伸六(八) インキ〔ン〕ダムシの事を南京魂という。
 などというのがあります。
 
 これらの文章からは、伸六のやんちゃぶりと、漱石の可愛いがった様子が見て取れます。
 
 伸六は、暁星小、中学校から慶應義塾大学文学部予科に進み、日本フィルハーモニー交響楽団からチェリストとして声がかかり、慶應大学を中退します。その後、兄・純一の留学とともに、ヨーロッパ各地で遊学しました。帰国後、召集を受けて日中戦争に従軍。昭和15年に除隊すると文藝春秋社に入社しています。
 戦後は、文藝春秋を退職して小さな出版社を転々とし、その頃には新橋駅東口で「小料理 夏目」や「バー夏目」、原宿「ステーキハウス 夏目」などの経営に参加しています。
 『父・漱石とその周辺』『父・夏目漱石』などの著作によって、伸六の名前が今も残っています。
 
 純一の項でも書きましたが、漱石の機嫌のいい日・悪い日の違いが著作にも記されています。
 
「でも伸六ちゃんのこと、割合に可愛がっていたんじゃない? だってね……あんたが泣くとお父様きまって書斎から出てきたわよ」
 姉や母の話によると、私は泣き虫の青んぶくれの、その上、手のつけられない癇持ちの、一言にしていえば全くどこといって取得のない、醜い、不快な子らしかった。こうした私が泣くたびに、父が出てきて、
「泣くんじゃない、泣くんじゃない、お父様がついているから安心おし」
 と、私を必ずなだめてくれたという話である。
 しかしその理由は、自分も私とおなじ末っ子であり、家庭にも恵まれず、また父親からもあまり可愛がられなかったため、私の泣くのはきっと自分と同様、傍の者からいじめられて泣くのだろう、「だからお前にはこうしてチャンとお父様がついているから安心おし」という、いわば父の異様な妄想から出発した反射的行為には違いなかったが、それでも、今まで私の眼や心に映じていたつめたい父の姿の他に、こうした別箇の父の姿があったということは、たしかにずっと父を疎んじてきた私にとって、幾許の感慨なきを得ない話である。
 実際姉のいう通り、父の病気が本当に悪かった時分には、私などまだ全然生れていなかった。また私が生れてからも父の病気が悪化したのは、ただ一遍しかなかった。もちろんその合間合間には、軽い発作が時折襲ってきたとはいえ、それさえ私などは大部分無意識の中に経験していたのに違いない。
 私は未だに、幼稚園から帰って来たばかりの私と兄に、母が、
「久世山へでも行って遊んでおいで」
 と、女中をつけて遊びに出した時のことを覚えている。暗い中の間の仏壇の前で、その時母は何かジッと拝んでいた。家の中はシーンと静まりかえって、コソッという物音一つ聞えなかった。しかし私はフッと、間の襖を一つ隔てた隣の書斎に父がじっと虎のように蹲(うずくま)っているのを、心のどこかに意識した。仏壇の前で祈っていた母は、たしかに泣いているようだった。その横顔を微かに流れる涙を見ながら、小さい私も急に一緒に悲しくなった。その癖ひねくれた私には、もうその頃からどうしても自分の気持を率直に表白することができなかった。女中に兄と二人して手を引かれながら、私達は黙々として榎町を突き当って、江戸川の方へ曲って行った。いつもなら山の土手を滑りおりたり、頂の広い草原を駈け回ったりする私達も、この日だけは、草の上に、ぼんやり腰をおろして、途中で女中の買ってくれたお煎餅やジャミパンを味もなくポソポソとかじりながら、赤い夕日が遠く黒い屋並の果に沈んで行くのを、じっといつまでも眺めていた。恐らくこの時の母の気持は、暫時なりとも小さい子供を険悪な父の前に曝させまいと思う親心から、わざわざ女中までつけていち早くわたしらを外へ遊びに出したものだろう。
「その怖いったらなかったわね」
 私は一番上の姉と、つい先だって死んだ二番めの姉とがよく笑いながら、父についてこんな思い出話をしていたのを知っている。その姉達の話を聞けば、これも決して無理であるとは思えない。
「だから私達、お父様とどこかヘ一緒に行くのとってもいやだったわ」
 恐らくこの姉達は私等より数段の怖ろしさを身にしみて感じていたのに違いない。
 そういえば、あれほど父を怖れていた私でさえ、兄と二人で幾度となく父の散歩へついて行った。
 小学校へ通い始める頃から、すでに怠癖のほの見えていた私は、授業が終ってからも一時間、二時間と一人で学校へ残って遊んでいた。日暮近くなってやっと校門を出、重い背嚢(ランドセル)を背中に背負って神楽坂を上り、長い矢来の通りまで歩いて来ると、私はよく父と兄とが向うからニコニコ笑いながらやって来るのに出会した。
「アお父様。伸六ちゃんが来たよ、伸六ちゃんが」
 兄が一生懸命父の手を引っ張って私の方を指差していた光景さえ、今なおありありと眼に見るように思い出す。道路を斜に横切って、私はいつも父達の方へ歩いて行った。
「どこへ行くの」
「これからね、お父様に洋食たべにつれてってもらうの」
「本当?」
 私はきまって父の顔を下から見あげた。
「うん」
「それなら僕も一緒につれてって」
「うん」
 そうして父は私等二人を引きっれて、当時は相当に有名だったのだろうか、飯田橋から九段下へ通ずる電車通りの中ほどにあった小さな西洋料理屋へつれて行ってくれた。
 礼儀に関しては相当喧しかった父と、面と向って食事をすることは、小さい私等にとってかなりな緊張を必要とした。しかし上の姉達のいうように、飯も碌に咽喉へ通らなかったというような覚えは、私の経験にはまるでなかった。
 もちろん子供心に、一ロ一口静かにと懸命に心して呑み込んでいたことだけは覚えている。しかし今から考えてみると、正常な時の父は、そうみだりに訳もなく怒るような.そんな人間では決してなかった。ただ私が機嫌のよい時の父と頭の悪い時の父の区別を明瞭識別することができなかったまでである。もちろん大体は推察し得ても、この上機嫌の蔭から、いつなんどき恐ろしい父の姿が飛び出して来るか、私はそうした不安をどうしても心の底から払いのけることができなかった。従って私は、本当の父の姿を眺めながら、絶えずその父を忌わしい病気の父と、混同していたのと同様である。またそのために、姉の言葉を聞いた時、私ははじめて当時の父が、今まで自分の考えていた父よりも遥かに穏かな真実の父であったということに気がついた。実際そういわれれば、私にも自分が本当に父から気違いじみた取扱いをされた覚えは、ただの一遍しかなかったのである。
 恐らくまだ私が小学校へあがらない、小さい時分のことだったろう。丁度薄ら寒い曇った冬の夕方だった。私は兄と父と三人で散歩に出たことを覚えている。父の方から私等を散歩に誘うことなどはなかったから、おおかたこの時も私等が「つれてって、つれてって」と無理に父の後へひっついて行ったものだろう。道はどういう道を通って行ったか、うろ覚えにさびれた淋しい裏町を通りながら、私等はいつの間にか、いろいろと見世物小屋の立ち並んだ神社の境内へ入っていた。親の因果が子に報いた薄気味悪いろくろっ首や、看板を見ただけでも怖気をふるう安達ヶ原の鬼婆など、沢山並んだ小屋がけのうちに、当時としてはかなり珍しい軍艦の射的場があり、私の兄がその前に立ち止ってしきりと撃ちたい、撃ちたいとせがんでいた。恐らく私も同様、兄と一緒にそれを一生懸命父にねだっていたことだろう。父は私等に引っ張られて、むっつりと小屋の中ヘ入って来た。暗い小屋の内部の突当りに、電気で照らされた明るい舞台があり、ここかしこと遠く近く砲火を交える小さい軍艦を二三艘描いた青い油絵の大海原を背景に、電気仕掛の軍艦が次から次へ静々と通過していた。ガランとした小屋の中には、客が二三人いるばかりで、そのうち当の射撃者はただ一人しかいなかった。撃った弾丸が命中すると、軍艦がぱっと赤い火焔を噴いて燃えあがりながら、それでも依然として何の衝撃も受けぬらしく、その軍艦は今まで通り静々と舞台の上を過ぎて行く。私はもちろんそれが本当に燃えるものとは思わなかったが、それでもどうしてあんなに本当らしく燃えるのだろうと、子供心に驚異の眼を見張りながら、一心不乱にこの光景を眺めていた。
 すると、
「おい?」突然父の鋭い声が頭の上に響いた。
「純一、撃つなら早く撃たないか」
 私は思わず兄の顔へ眼を移した。兄はその声に怖気づいたのか急に後込みしながら、
「羞かしいからいやだあ」
 と、父の背後にへばりつくように隠れてしまった。私は兄から父の顔へ眼を転じた。
 父の顔は幾分上気をおびて、妙にてらてらと赤かった。
「それじゃ伸六お前うて」
そういわれた時、私も咄嗟に気おくれがして、
「羞かしい……僕も……」
 私は思わず兄と同様、父の二重外套の袖の下に隠れようとした。
「馬鹿っ」
 その瞬間、私は突然怖ろしい父の怒号を耳にした。が、はっとした時には、私はすでに父の一撃を割れるように頭にくらって、湿った地面の上に打倒れていた。その私を、父は下駄ばきのままで踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回して、私の全身へ打ちおろす。兄は驚愕のあまり、どうしたらよいのか解らないといったように、ただわくわくしながら、夢中になってこの有様を眺めていた。その場に居合せた他の人達も、皆呆っ気にとられて茫然とこの光景を見つめていた。私はありったけの声を振り絞って泣き喚きながら、どういう訳か、こうしたすべてを夢現のように意識していた。また自分自身地面の上を、大声あげてのたうちながら、衆人環視の中に曝されたこうした自分の惨めな姿を、私は子供ながらに羞かしく思わずにいられなかった。しかし父の怒りがやっとおさまりかけた頃には、私はもう羞かしいも何も忘れていた。ただじっと両手で顔を蔽うたまま、思い出したように声を慄わして泣きじゃくるばかりだった。そしてその合間合間に、はなや、涙を一緒くたにスルズル咽喉の奥へ吸いこみながら、私は先へ行ってしまった父の後からやっとの思いでトボトボついて行った。
 当時の私には、なぜこの時こんなひどいめにあったのか、その理由はまるで解らなかった。またそれを考える意識さえも持たなかった。しかし私と兄と二人の中で、なぜ自分だけが殊更あんなに打ったり蹴ったりされねばならなかったのか。その点について私は子供心にも淡い不満を感じていた。そしていつの間にか、私は父のこの行為を、一切理窟ぬきの持病の結果に帰してしまった。もちろんそれは一面においてたしかに病気の結果には違いなかったが、しかしその半面に横たわる他の原因、すなわち病的な父の心を刺激したその直接の動機に関しては、私は長い間全く盲人同様に無関心だった。ところがつい先頃、私は何の気なしに父の全集を拾い読みしながら、ふと次の数句に気を惹かれた。それには、
「……私の小さい子供などは非常に人の真似をする。一歳違いの男の兄弟があるが、兄貴が何か呉れといえば弟も何か呉れという。兄が要らないといえば弟も要らないという。兄が小便がしたいといえば弟も小便をしたいという。総て兄のいう通りをする。丁度その後から一歩々々ついて歩いているようである。恐るべく驚くべき彼は模倣者である」
 私はこれを読んだ時、ちらっともう二十数年も前に起ったあの出来事を、どういうものか咄嗟の間に思い起した。そして父のあの時の怖ろしい激昂の原因が、何かこの数語の中に含まれているような心地がした。恐らく父は生来の激しいオリジナルな性癖から、絶えず世間一般のあまりに多い模倣者達をーー、平然と自己を偽り、他人を偽る偽善者達を心の底から軽蔑もし憎悪もしていたに違いない。
 従って父は私の極端な模倣性を見るにつけ、その都度苦々しい不快の念を禁じ得なかったとも考えられる。またその苦々しい不快の念はいつか病的な父の心に鬱積して、兄と同様はずかしいからと射撃を拒み、その上なおも仕種まで同じように父の袖の下に隠れようとした私に向って、遂に猛然とその怒りを爆発させてしまったのではなかろうか。(夏目伸六 父・夏目漱石)





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最終更新日  2020.12.29 09:26:35
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