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カテゴリ:夏目漱石
漱石は子規が書いた『七草集』に誘発され、和漢詩文集『木屑録』を書きました。子規は、これを読み、「甚だまずい」漢文で「頼みもしないのに跋」を書いてよこしたと談話『正岡子規』の中で語っています。 また正岡はそれより前漢詩を遣っていた。それから一六風か何かの書体を書いていた。その頃僕も詩や漢文を遣っていたので、大いに彼の一粲を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであった。ある時僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いてその中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せたことがある。ところが大将頼みもしないのに跋を書いてよこした。何でもその中に、英書を読むものは漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なりとか何とか書いておった。ところがその大将の漢文たるや甚だまずいもので、新聞の論説の仮名を抜いたようなものであった。けれども詩になると彼は僕よりも沢山作っており平仄も沢山知っている。僕のは整わんが、彼のは整っている。漢文は僕の方に自信があったが、詩は彼の方が旨かった。もっとも今から見たらまずい詩ではあろうが、先ずその時分の程度で纏ったものを作っておったらしい。たしか内藤さんと一緒に始終やっていたかと聞いている。(夏目漱石 正岡子規) 子規も漱石の監視には驚きました。ふるさと松山での結核療養から帰ると、早速文をしたためています。 今夏我京より郷に帰る。友人漱石書を寄せて房州近傍へ海水浴に行きたりと報ず。余戯れにこれに贈る書状中に自分を妾と書し、漱石を郎君と書す。漱石ついで端書一枚を寄す。これを見るに詩一首を録す。 鹹気射顔々欲黄、醜容対鏡易悲傷、 馬齢今日廿三歳、初被佳人喚我郎、 一読してほとんど絶倒す。余京に帰る。漱石余にその著す所の木屑録を示す。これすなわち駿房漫遊紀行なり。余その中の一節を左に掲ぐ。 距岸数町、有一大危礁、当舟、涛勢蜿蜓、長而来者、遭礁激怒欲攫去之而不能。乃躍而超之、白沫噴起、与碧涛相映。陸離為彩、礁上有島、赤冠蒼脛、不知其名、涛来則一捕而起、低飛回翔、待涛退復于礁上、 涛勢云々の数句は英語に所謂 personification なるものにて、波を人の如くいいなし、怒といい攫といい躍という。これの如きつづけてこれらの語を用いしは、恐らくは漢文に未だなかるべく、漱石も恐らくは気がつかざりしならん、されど漱石もとより英語に長ずるをもって知らず知らずここに至りしのみ。実に一見して波涛激礁の状を思わしむ。また後節鳥を叙するの処、精にして雅、航海中数々目撃するのこと、しかして前人未だ道破せず。しかしてその文、支那の古文を読むが如し。その中に房州にて羅漢を見し時の詩あり 鋸山如鋸碧崔鬼、上有伽藍倚曲隈、山僧日高猶未起、落葉不掃白雲堆、吾是北来帝京客、登臨此日懐往昔、恣嵯一千五百年、十二僧院空無迩、只有古仏坐膀唐、雨蝕苔蒸閲桑滄、似嗤浮世栄枯事、冷眼下瞰太平洋、 その曲調極めて高し。漱石素と詩に習わず。しかして口を衝けば則ち此の如し。豈長れざるを得んや。 また 客中喝家 北地天高露若霜、客心蟲語両凄涼、寒砧和月秋千里、玉笛散風雁両行、他国乱山愁外碧、故園落葉夢中黄、何当後苑閑吟句、幾処尋花徒繍林、 この詩の如き真個の唐調にて天衣無縫ともいわんか。殊に第三句の如き我輩等の思慮し得る句にあらず。 余の経験によるに英学に長ずる者は漢学に短なり。和学に長ずる者は数学に短なりというが如く、必ず一短一長あるもの也。独り漱石は長ぜざる所なく逹せざる所なし、しかれどもその英学に長ずるは人皆これを知る、しかしてその漢文漢詩に巧なるは人恐らくは知らざるべし。故にここに附記するのみ。(筆まかせ 木屑録) 子規は漱石の漢詩に驚いて、この文を書いているのですが、上から目線の批評となっています。
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最終更新日
2021.12.04 19:00:06
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