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カテゴリ:夏目漱石
「出来たら見せるよ。小説をかいているんだ。そのうちの一章に女が花園のなかに立って、小さな赤い花を余念なく見詰めていると、その赤い花がだんだん薄くなってしまいに真白になってしまうというところを書いて見たいと思うんだがね」 「空想小説かい」 「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい。うまく感じが出ればいいが。まあ出来たら読んでくれたまえ」 「妙花園なんざ、そんな参考にゃならないよ。それよりかうちへ帰ってホルマン・ハントの画でも見る方がいい。ああ、僕も書きたいことがあるんだがな。どうしても時がない」 「君は全体自然がきらいだから、いけない」 「自然なんて、どうでもいいじゃないか。この痛切な二十世紀にそんな気楽なことがいっていられるものか。僕のは書けば、そんな夢見たようなものじゃないんだからな。奇麗でなくっても、痛くっても、苦しくっても、僕の内面の消息にどこか、触れていればそれで満足するんだ。詩的でも詩的でなくっても、そんなことは構わない。たとい飛び立つほど痛くっても、自分で自分の身体を切って見て、なるほど痛いなというところを充分書いて、人に知らせてやりたい。呑気なものや気楽なものはとうてい夢にも想像し得られぬ奥の方にこんな事実がある、人間の本体はここにあるのを知らないかと、世の道楽ものに教えて、おやそうか、おれは、まさか、こんなものとは思っていなかったが、いわれて見るとなるほど一言もない、恐れ入ったと頭を下げさせるのが僕の願なんだ。君とはだいぶ方角が違う」(野分 2) 『野分』に登場するハントの画を描いたのは、ウイリアム・ホルマン・ハントというラファエル前派の画家です。イギリスに生まれたハントは、不動産の事務員として働いていましたが、1844年にロイヤル・アカデミー・スクールズに入学し、ミレイ、ロッセティと出会ってラファエル前派の理論を発展させ、1848年にラファエル前派を結成します。 ハントは、キリストの生涯を描こうと考え、1854年にパレスチナの聖地エルサレムを訪れています。のちに1869年、1873年にも行くのですが、ハントは徹底した「自然を忠実に再現する」写実を貫き、他の宗教画とは一線を画します。
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最終更新日
2021.12.08 19:00:06
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