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遊心六中記

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2022.01.21
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カテゴリ:探訪
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 
萬福寺の境内から少し離れた周辺に塔頭がいくつもあります。
幕末には32ケ院あったそうですが、現在は19ケ院になっていると言います。(資料1)
そのうちの北西側周辺にあって今回立ち寄ってみた塔頭を最後にご紹介します。

萬福寺総門前の道路を北方向に進み道路が左折して西に向かう道路沿いにある塔頭です。冒頭の景色は左折するあたりの北辺です。
道沿いに進めば、隠元禅師がこの地に足を踏み出された宇治川の畔に到ります。

 駐車場の北側の東端に見える表門
門前の右側には、「黄檗山萬松院 金成不動尊」と刻された寺号標が立っています。財運の不動尊として「金成不動尊」と称され知られているお寺(塔頭)です。
左側は比較的新しい「萬松院」の石標のようです。この石標に刻まれた内容から、この表門と天光塔が京都府の文化財指定を受けていることがわかります。

 
表門を入ると北東方向にあるのが不動堂です。金成不動尊が祀ってあります。
 
お堂の右斜め前に立つ石灯籠。宝珠・笠・中台は火袋・竿・基壇と比べて古い感じです。
組み合わせて石灯籠にしたようですね。火袋には鹿のほぼ半身が浮彫りにされています。
 
お堂の西側には、童形の六地蔵尊が祀ってあります。

 
        
石造の「水掛・願掛 不動明王」像と脇侍の子安二大童子像が造立されています。
衿羯羅​(こんがら)童子と制多迦(せいたか)童子です。

 
不動明王坐像の背後には、滝の石組があります。
 石段を登って行くと
 
​天光塔​と記された額が掲げられた「開山堂」(天光塔)があります。
開山堂は平成4年(1992)4月14日に文化財に指定されています。(文化財指定掲示板より)
 
この萬松院は龍渓性潜禅師を開基として、寬文11年(1671)に建立されました。
龍渓禅師は、即非と同様に準世代と位置づけられている禅師です。準世代にはもう一人、又梅亨運禅師が列挙されています。(資料1)
調べていて知ったのは、龍渓禅師の弟子・東厳禅師が萬松院を開創したそうです。(資料2)
 
堂内にはこの石塔が安置されています。龍渓禅師の塔(墓石)。この開山堂が塔所です。
        
 
これを判読できれば、経緯詳細が理解できるのでしょうが・・・・残念。

           
               西側の円窓から東を眺めた景色

 
上掲の石造不動明王坐像の右斜め後方の位置にあるこの句碑が目に止まりました。
   綿を摘む 崑崙山に いつも雲

「平成3年10月に、一行9名がシルクロードの天山南路、ホータン、カシュガルを訪ねた。
 ホータンは丁度、綿摘みの最中で、見渡す限りの白い花を敷きつめたような綿畑の果に、標高五千米をこす崑崙山の雪の山脈ご雲をかぶってつらなっていた。
 行沢雨晴(ゆきざわうせい)
   雪解 同人、俳人協会評議員 俳誌 懸巣(創刊 植原抱芽)主宰
   藤沢禅会30周年記念の句碑  (1997年7月20日)  」(掲示案内文転記)

 
もう一つ目に止まったのがこの地蔵尊石像群です。

 
この萬松院には、西側に本山境内に見られるのと同形の門があります。
直接この寺の本堂に向かう門になっています。

 
西隣りには黄檗風の表門に「龍興院」と記されたお寺があり、地蔵菩薩立像が見えています。
門前の左側に「出世地蔵尊」と刻された石標が立っています。
 門前から見えるのがこの石造地蔵菩薩立像です。
 
唇が紅く塗ってあります。白毫の箇所も紅がつけてあります。
白毫は「眉間に生えている、右回りに渦巻く白い毛のこと。常に光を放っており、伸ばすと1丈5尺にもなるとされる。本来は仏の三十二相の1つだが、如来となることが約束されている菩薩にもしばしば表される」(資料3)というものです。

    
門を入って上掲地蔵尊の手前を右に折れて、狭い通路を少し奥に行くとこの地蔵堂があります。
 
一見、普通のお地蔵さまという感じです。
この地蔵堂の傍に駒札「出世地蔵尊の由来」が立っています。
「この地蔵尊は昭和35年龍興院の寿塔修理の際に、崖の土中から転がる如くに御姿を現はされましたことから『出世地蔵』と申し上げ親しみ深い菩薩さまとして大切に祀られております。
 当時専門家に依る鑑定の結果千年以上経た石佛であることが證明されました。(数千年前から奈良街道であったことの表れか)」(駒札説明文転記。平成17年6月に龍光院住職により設置された駒札です。)

 門内から境内を眺めた景色
                
門を入るとすぐ傾斜地で階段の参道の先にお堂があるようです。
参道右側は塀です。門近くの塀越しに見えるのが寿塔かもしれません。
萬福寺の門前に位置する白雲庵内にある自悦堂からの推測としての印象です。(資料4)

龍興院は慧林性機禅師を開基として宝永2年(1705)に建立された塔頭ですが、明治8年(1875)に現在地に移転したそうです。(資料1)

 続いて西側に「宝蔵院」があります。
 
門を入ると石段の先に玄関口が見えます。

宝蔵院は鉄眼道光禅師を開基として寬文11年(1671)に建立され、寬文13年に移転し、さらに明治8年(1875)に現在地に移転したと言います。(資料1)

鉄眼は道号です。肥後(熊本県)の出身で、はじめは浄土真宗の僧となり、のちに禅に転じて木庵禅師の法を嗣いだ黄檗宗の僧。大蔵経刊行の決意をし、講経僧として全国を行脚し、刊行資金を集め、黄檗一宗の協力を得て、現在「鉄眼版一切経版木」と呼ばれるものを制作しました。寬文9年(1669)から始めて天和元年(1681)に完成したそうです。
「日本において近代的な仏教研究が生まれる母胎となった。鉄眼は経典の説くところはすべて禅宗に帰着するという教禅一致の考えに立ち、また神秘家的側面を有する事業家的才能の持主であった。開版事業終わってのち飢饉救済に身を投じ、その途中に没した。」(資料4)
大蔵経刊行のための資金集めに行脚している期間に、飢饉が起こった際にはその浄財を放出するという行動もとりつつ、刊行を完成させたと言います。(資料5)

わが国の明朝体文字はこの版木の書体の由来するそうです。
また、原稿用紙が400字詰めであるのは、鉄眼一切経の版木の文字組みに由来するとか。門前の案内板にも「原稿用紙のルーツ」というフレーズが使われています。なお、この点については諸説あるようです。
 
                   「鉄眼版一切経版木」収蔵庫
 
       

玄関口の左手前に、石造の地蔵菩薩立像が建立されています。
台座の正面には、「寶地蔵尊」と題して一文が刻されています。判読不詳箇所があり省略。

 宝蔵院の西隣りは「宝善院」です。
門前、左に「守本尊 干支の寺」と刻した石標が立っています。
宝善院は独振性英禅師を開基として元禄3年(1690)に建立された塔頭です。明治8年(1975)現在地に移転したそうです。(資料1)

守本尊干支とは何か?
宝善寺のホームページにその説明が載っています。「干支の守本尊八佛とは、皆さまにはご自身の生まれ年の干支によって、守護してくださる佛様が定まっております」(資料6)とのこと。
干支と守本尊の関係は次のとおりです。
  子年生まれの人     千手観音菩薩(縁日18日)
  丑・寅年生まれの人   虚空藏菩薩 (縁日13日)
  卯年生まれの人     文珠菩薩  (縁日25日)
  辰・巳年生まれの人   普賢菩薩  (縁日24日)
  午年生まれの人     勢至菩薩  (縁日23日)
  未・申年生まれの人   大日如来  (縁日 8日)
  酉年生まれの人     不動明王  (縁日28日)
  戌・亥年生まれの人   阿弥陀如来 (縁日15日)

余談ですが、これをまとめていて思い出しました。
宇治川右岸、宇治橋東詰にほど近い「橋寺放生院」の境内にも「十二支守本尊」八仏が安置されています。以前に探訪したとき拝見しています。​こちらからご覧ください。
                       (スポット探訪 [再録] 宇治 橋寺放生院)
 宝善院の築地塀の西端にこの石標があります。
そこからオープンに境内地の奥に入れるようになっています。お堂の背後が墓地になっているようです。少しアプローチあたりを探訪してみました。
 
これは坂道の突き当たりの景色です。
         
この地蔵菩薩は「数珠掛け地蔵さま」と称されていて、水子供養のお地蔵さまとして祀られているようです。後で調べていて説明をみつけました。(資料7)
     

 
        石造の観音菩薩像が安置されています。
          
          墓地と思える区域への入口に地蔵菩薩立像が安置されています。
ここまでの拝見で引き返しました。

最後に、今回ご紹介した萬福寺の塔頭のいくつかがなぜ明治8年に同時に移転しているのかです。
明治8年(1690)に、現在の黄檗山萬福寺の境内域の東側の境内地が明治政府により上地(接収)の対象にされたのです。明治政府は、そのエリアを陸軍省の火薬貯蔵庫建設用地にしたそうです。現在の地図では、萬福寺の東の「黄檗公園」となっているあたりです。(資料1,8,9)

この辺で一旦ご紹介を終わります。
萬福寺に関係する周辺の探訪はいずれ続編としてご紹介したいと思います。

ご覧いただきありがとうございます。

参照資料
1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子
2) ​萬松院​  :「京都 Kyoto」
3)『仏像の見方 ハンドブック』  石井亜矢子著  池田書店 p137
4) ​お庭​ :「白雲庵」
5)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店
6) ​守本尊干支について​ :「宝善院」
7) ​数珠掛け水子供養​  :「宝善院」
8) ​黄檗山萬福寺塔頭「宝善院」​ :「宝善院」
9) ​大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠​ :「大日本者神國也」

補遺
黄檗宗大本山 萬福寺​ ホームページ
龍渓性潜​  :ウィキペディア
龍渓性潜​   :「コトバンク」
慧林性機​    :ウィキペディア
慧林性機​  :「コトバンク」
鉄眼道光​  :ウィキペディア
鉄眼​    :「コトバンク」
宝蔵院​ 公式ホームページ
 ​重要文化財を未来につなぐ鉄眼プロジェクト
   このページに「一切経木版印刷・民救済~鉄眼禅師」動画・YouTubeが掲載あり
400字詰め原稿用紙の由来について​ :「レファレンス共同データベース」
鉄眼(てつげん)禅師荼毘(だび)処地​  :「大阪市」
宇治十三社寺​  :「京の霊場」
 萬松院 <万松院>(京都府宇治市) 萬福寺塔頭 宇治十三社寺まいり​:「お寺の風景と陶芸」

  ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2022.01.21 12:55:58
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