地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

全108件 (108件中 1-10件目)

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地球人スピリット

2006.12.21
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カテゴリ:地球人スピリット

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「インド世界を読む」 
岡本幸治 創成社 2006/10



 一応の目安をそれぞれのカテゴリで100冊と思ってきたが、100冊だと、どうも座りが悪く、108冊に近づくとなんとなく落ち着くようだ。すでに「ブログ・ジャーナリズム」は108に達成し、「地球人スピリット」は107冊。この一冊は、どちらかというと「ブログ・ジャーナリズム」に近いのだが、読み方を帰れば「地球人スピリット」にもなるので、そちらに加えて108冊として、このカテゴリも終了とする。

 スピリットというと、どうも実体のないもの、現実から離れたものととらえがちであるが、実際には、実体と表裏一体、現実の只中にあるものこそをスピリットと呼ぶべきなのである。だから、この「インド世界を読む」はある意味、まさににスピリチュアリティ溢れる読み物だ、といってもいいだろう(なんちゃんて、故事付け)。

 著者は、1970年代後半の一年間の間インドに長期滞在したというから、時代的には私と同じような直にインド体験をしていたことになる。もっとも1936年生まれだから、当時でも40歳過ぎだったろうから、それなりに大人の視点でインドをみていたはずだ。

 確かにインドのITソフト産業の急成長は注目に値する。しかしシンガポール程度の小国家ならいざ知らず、多くの貧困層を抱えた世界第二の人口大国が、ITだけで雇用を確保し、みんなで食っていけるはずがないではないか。調子のよいことを言ってくれるIT信者がいるものだなぁ、というのが率直な感想であり、これは今も変わっていない。p22

 この辺は先日読んだ島田卓の
「インドビジネス」とほとんど同じ意見だ。その他、インドにおける教育の問題や、産業構造の問題、人口の問題など、かなりの部分において両書は重なるところがある。

 2006年の速報値では人口はすでに11億人台に達したと考えられるので、インドは信者数においては、世界有数のイスラム国家でもあるということなのだ。しかしインドをイスラム大国という視点からとらえる見方は、日本人にはまったく欠けているのではないか。p8

 その数日本人を超える一億三千万に達するインド国内のイスラム教徒に対する理解は確かに進んでいないとは言える。しかし、先日読んだ。
オサマ・ビン・ラディンの過激な発言についてだけでなく、ムスリム社会については、私も理解できないことが相当に多い。

 国際会議を成功させるために議長が心得るべき要諦は「日本人にしゃべらせ、インド人を黙らせることである」というジョークがあるのは、さもありなんと思ったことがよくある。p126

 なんてところも
「世界の日本人ジョーク集」とカブッているところがある。

 このような報告書、とくにゴールドマンサックス社お「BRICs報告」は、経済至上主義の日本にとっても関心の深い情報であるだけに、日本の新聞その他のメディアでも大きく扱われ、従来のインド観を短期間で変化させることになった。p33

 ここは
「BRICs新興する大国と日本」とダブる。「アンベードカルと『アウトカースト』の保護・優遇」p141あたりは「アンベードカルの生涯」と重なってくる。

 私が密かに温めている夢がある。それは二十世紀の初頭に訪印してタゴールやヴィベーカナンダなどと交流し、インド思想の強い影響を受けて岡倉天心が執筆した「東洋の理想」に書かれている有名な一説に触発されたものである。天心は東西文明の興味深い比較を行い、東洋の特質を、人生の手段ではなく人生そのものの意味の探求に捧げたこと、それによって世界の大宗教のすべてを生み出したことにあるとした。p233

 さぁ、まさにこの辺が「地球人スピリット」に関わってくる部分であり、108個目のエントリーとしては、この本がふさわしいであろう。結論としてでたわけではないが、総じて平らかにまとめられた一冊と言っていいだろう。







Last updated  2009.03.30 08:04:22
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カテゴリ:地球人スピリット

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「ジャイナ教入門」 
渡辺研二 2006/8 現代図書



 ゴータマ・ブッタが生存した時代にはブッタのほかに六師外道と称された、他の流れの6人の宗教的指導者が存在していた。その一人がマハビィーラであり、その流れがジャイナ教と呼ばれている。つまり、当時7人の聖者にインド社会が導かれていたということになる。

 (1)プーラナ・カッサパ(道徳否定論)
 (2)バクダ・カッチャーヤナ(七要素集合説、唯物論)
 (3)マッカリ・ゴーサラ(運命決定論、無因無縁論)
 (4)アジタ・ケーサカムパリン(唯物論、快楽主義)
 (5)サンジャヤ・ベーラッティブッタ(懐疑論、不可知論)
 (6)ニガンダ・ナータプッタ(マハーヴィーラのジャイナ教、霊魂論と苦行主義)

 ゴータマ・ブッタの高名な弟子とされるサーリップッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)は、最初、懐疑論サンジャヤの弟子であったらしい。舎利弗とは、般若心経の中にある舎利子のことである。

 
このようなジャイナ教の不殺生の教えを最初に評価した日本人は南方熊楠であった。南方はいう。「仏教よりも、キリスト教よりも、まさっているのは、ジャイナ教である。『すなわち、思考、言語、行為を善にして、語ることなき動物のみか、植物にまで信切(ママ)にするなり。この動植物を哀れむことは、仏教またこれをいうといえども、ジャイナ教は一層これを弘めたり。すなわち動植物みな霊魂ありと見て、病獣のために医療を立つるを慈善業とす。・・・階級の差をもって得道を防ぐことなく、誰人にでも涅槃に入り得ると主張す。』
 キリスト教は人類の平等を説くが、ジャイナ教はその上に生類の無差別を主張し実践する点でよりすぐれているのだと南方は評価した」
p183 鶴見和子著よりの引用部分

 ジャイナ教は、Oshoの出自であるコミュニティでもあるし、仏教との兄弟宗教とも見られている。西欧においてジャイナ教が研究され始まった時には、ジャイナ教は、仏教の一分派と見られていたというほど、教義に類似性がある。ただ、仏教は世界宗教として拡大しつつインドから姿を消してしまったのに対し、ジャイナはインド国内の社会勢力としてはおよそ320万人ほどで、全インド人口の0.5%に満たない少数とされている。

 ジャイナについては、インターネットの発達した現在ならともかく、それ以前は、図書館にいって、複数の百科辞書を比較しながら読む、という程度の資料しかなかった。それだけ、知られていなかった宗教と言える。この宗教に関心をもった著者の視点が興味深い。

 個人的なことになるが私自身は学生運動の盛んな1970年代に学生生活を過ごした。既製の常識、思想が信じられなくなり、現実の実利から離れて人間の大本であり東洋の思想の原点であるインドの思想を学んでみようと志して、出発したインド古代思想の研究は最終的にジャイナ教研究に行き着いた。時代に動かされない、物事の基礎を見極めてみよう、としたのである。そこからベルギー留学を経て今ではおよそ30年が経った。本書はその現在における私自身の研究の到達点である。p2

 1950年生まれの著者が1970年代後半インドにいたことになるが、「時代に動かされない、物事の基礎を見極めてみよう」というところが、著者がジャイナに行き着いた機縁だったのだろうと思われる。同時代に一人のヒッピーとしてインドを旅していた私としては、このようにアカデミズムの中で静かに文献を研究していた著者に距離感を感じつつ、一つの静かな確たる視点の存在を感じる。

 日本においては仏教の研究はおびただしいものがあり、なにがなんだか分からなくなると、原点に帰ろうとしてインドに立ち返ることになる。その時、インドにおける仏教のあり方をより際立たせるために、ジャイナ教研究はとても貴重なものだと思われる。ただし、ジャイナにはローカル性を離れ、グローバルな世界的宗教性に発展する可能性はないので、なぜ、そうなのか、というところも押さえておく必要があるだろう。







Last updated  2009.03.30 08:05:01
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2006.12.12
カテゴリ:地球人スピリット

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「正しい保健体育」 
みうらじゅん 2004/12 理論社



 この本を読むことになった経緯は、単純である。ある中学校にこの図書が入っているのだが、どう思うか、と、コタツの向かいに座っている我が家の奥さんから渡されたので、ハイハイ、と受け取って、mixiの書き込みをしながら、読んでみた、ということである。

 ハッキリ言って、家庭内で、奥さんから、この書物を手渡されるのは、「恥ずかしい」。子供だって、ウロウロしている。二人とも成人しているとはいうものの、私としては、ニヤニヤしたり、植草教授のように、にわかに必要以上に緊張してこわばった表情になってはいけない。いつもの感じでやりすごすのである。

 しかしながら、この本を読むのはつらい。どう読めばよいのだろうか。「性教育」の本ならば、高校一年の時に、当時流行していた「高校生の性知識」という「真面目」な本を読んだ。男子、女子の性差を際立たせるために、男子、女子の裸の立像が掲載されていたのだが、その写真をみただけで、当時の私は「催した」ものだ。当時、この本に出会っていたら、私は不良になっていただろう(って、出会わなくても不良になったがw)。

 この本、このブログでは、 
「『性感染症』常識のウソ」 や、「チベット密教」通じる一冊なのかも知れない。しかし、この分野については、まだまだこのブログでは開発がされていない。

 この本、結局、うちの奥さんになんて返事すればいいのだろう。これは薦められて読む本ではないが、図書館の片隅の目立たないところに置き、この「お宝」を発見した子供は、自分で発見したものとして、読めばよい、という結論にしておこうか。

 考えてみれば、私も小学校の時に、親戚のおばちゃんが読んでいた婦人雑誌でいろいろなことを覚え、わからないことは広辞苑まで引いて覚えたからね。あの頃の学習は役に立った。子供が何故生まれるのか、なんてことは、子供でわからなければ、大人になっても、老人になっても分からない。こういう「悪書」も世の中に必要だ。







Last updated  2009.03.30 08:05:33
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2006.12.09
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「スピリチュアリティの現在」 宗教・倫理・心理の観点 
湯浅泰雄・監修 2003/10 人文書院



 難しい本を読んで理解できないのも困るが、読んでいて理解できすぎる場合もちょっと困りものである。この本、ちょっと前(2003/10)の本だが、ここに展開されているのは、まさにこういう本が欲しかった、というような内容の本だった。

 この本、9名の評論が編集されている。湯浅の総論部分もなかなか面白い。WHOのスピリチュアリティ提案 / 哲学と科学、そして医療と経済発展 / 霊性と心身関係 / ヒッピーのアジア探検(1950年代) / 対抗文化の明暗(1960年代) / ポストモダン時代と大衆の感受性 / 倫理問題の基本をどう考えるか / 科学方法論と霊性問題 / 人体科学と気のエネルギー / キリスト教における霊性的体験 / 男性性と女性性 / 心情的感受性、フェミニズム などなど、すべての項目について、関心深いアプローチが展開されている。

 その他、
島薗進、葛西賢太、大宮司信、村田和香、渡辺学などの、ひとつひとつの論文が興味深い。

 キリスト教はその長い歴史の過程で、スピリチュアリティという言葉を自分たちの専売特許であるかのように語ってきた。その言葉のもととなるスピリット、例は旧約聖書ではruah' ルアッハという言葉で、新約聖書ではpneuma' プニューマという言葉で表現されてきた。キリスト教がラテン世界に広まるにつれ、ルアッハとプニューマという二つの言葉は、ラテン語でspiritusと訳され、それが英語のspirit' 霊で表現され、その言葉をもとにスピリチュアリティという言葉が成立したというのが、その語の簡単な歴史的流れではなかろうか。p52 永見勇

 このような研究は、専門家の指摘によってしか気がつかないことが多いし、どのように調べたらよいかわからないことが多い。スピリット、あるいはスピリチュアリティという単語の生成過程はこの通りでいいのかもしれない。

 しかしながら、現在、巷間で使われているこの単語は、もっと広い意味に使われているようだ。たとえば、メディテーションという言葉や瞑想という言葉でも、キチンとコンセプトを明確にして使われているわけではない。ただ、英語は、世界共通語としての期待感のなかで、完全なる言語ではなくても、より共通理解を求めようとして、多くの人に使われることが多い。

 メディテーションと瞑想も、本来の意味からすると、Zenやディアーナという言葉のほうがより本質的なことを表しているだろうが、これでは多くの共通理解を得るには難がありそうである。かくのごとくスピリットという言葉も本当は、不完全なことばであるだろう。

 上智大学教授アルフォンス・デーケン神父は、日本語で「霊的」「霊性」というとオカルト的なものと誤解されることが多いので、「スピリチュアリティ」をカタカナ語のまま用いているという。p131 葛西賢太

 この本は、必ずしも統一見解を指し示すものではないが、この表題の通り「スピリチュアリティの現在」というテーマで論議を進めるなら、とてもよい教材と成り得ると思う。しかし、必ずしも、この本自体が「スピリチュアル」だということではない。この本を書いている人々が、こういう論文を書いているというだけでは、スピリチュアルだとも言いがたい。

 というのも、この本の最後に巻末に気になる一行がある。

 本書の監修に当たっては、陽光文明研究所のご配慮を頂いたことに感謝したい  ー  監修者
 

 この一行は何を意味するのだろうか。たぶんこれは、宗教団体から資金などを提供していただいてますよ、ということを意味しているのではないだろうか。だとするなら、ひも付き研究ということになる。

 もちろん、IT関係や他の分野においては産業=教育が共同して研究することもあるので、宗教=教育ともいうべき宗学共同路線というものもあっていいのだろう。しかしながら、純粋な科学技術的な研究なら実証的な研究成果が期待できるが、宗学共同の場合、時には特定の団体に有利なちょうちん研究になってしまわないか、という危惧を私は感じる。

 この辺は、私のひがみや誤解があるかもしれないので、この本の本質的な部分には影響があると断言はできない。しかし、この一行を監修者が敢えて書き加えていることの意味を、過小評価していいとも思わない。







Last updated  2009.03.30 08:06:02
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2006.12.04
カテゴリ:地球人スピリット

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「鈴木大拙」 没後40年 
松ヶ岡文庫編 2006/5 河出書房新社



 鈴木大拙、あるいはD.T.スズキの存在は、ある意味当たり前の存在で、彼がいなければ始まらないことがたくさんある。民間人にして東洋=日本の精神の真髄「禅文化」を、西洋社会の中へ「ZEN」として紹介した第一人者である。20世紀の偉人の一人に数え上げられて間違いない存在だと思う。

 アメリカやヨーロッパで、禅、禅とやかましく評判になっているが、禅ということばを、日本語の発音のままに”ZEN”と書いて外国人にわからせるようにしたのは、わしが最初であろう。外国人でも、このごろ、色々禅のことを書く人が出て来たが、なかなか本当の人が出るのはむずかしい。よくわしは禅をやるにはどうしても日本に実地に来てやらないといけないと忠告している。日本人の間にも、禅を実際にやっていて、その上、外国語の自由に話せる人がもっと出てほしいものだ。口先ばかりでしゃべり散らす人だけでは困るんだ。p72

 Oshoが初期的段階からZENをなんども持ち出し、最後期においてはZENが意識の最高峰であるかのごとく評価した裏には、このようなD.T.スズキの偉業があったことは疑う余地はない。Satori(悟り)やKouan(公案)など、そのまま日本語で欧米人に理解されるようになった事実も大拙の業績によるところが大きいであろう。その分、体系がない、歴史を無視する、などの批判も内外からあったようだ。

 それではどういうぐあいに歴史を無視しているかというとたとえば「わしの考えによると」というような文章を書きはじめかたをよくやるのです。あとでもうしあげますが「悟り」というものを--(Enlightenment)という論文を幾つも書いております。一つの「悟り」というものを見ましても、一番はじめに、(according to my way of interpreing Buddhism)こうくるのです。初めからポンとわしはこうみるのだよと、いうわけですから、人がどうみようと、大乗緒家がどうみようと、そういうことは平気なのです。思想の歴史など無視して、わしがみるとこう・・・・・。p132増谷文雄「鈴木大拙論」1966

 Enlightenmentという単語はOshoのレクチャーにおいても、彼を理解する上においても重要キーワードとなるのだが、ひょっとすると、この言葉と「悟り」を関連付けたのは大拙だったのかもしれない。その業績は計り知れないほど大きいが、グルジェフやクリシュナムルティーに比して、OshoのD.T.スズキへの評価は必ずしも高くはなかった。

 この本は、大拙が96歳で亡くなって今年2006年で40年ということで旧文も含めて編集された、各関係知識人たちの追悼集だが、考えてみれば、大拙について一冊まるまんま読んだのは、私にとっては初めての経験だった。あまりに身近すぎたといえるだろうか。あまりに意識しないほどに彼の仕事の恩恵に浴していたということになるだろう。

 この本で初めて知ったことはいくつもあるが、まず一つは大拙が初期的に英文から日本語に翻訳して紹介したのがスエデンボルグの「天界と地獄」であったことである。私はこの一冊にひとかたならぬ思い入れがある。15歳のときに出会った同級生から紹介されたのがこの本で、さっそく購入したことだった。私が本格的な精神世界や神秘主義にふれることになった一冊だが、ここにすでに最初から大拙がいた、ということになる。

 あるいはこの本で、巻頭言を書いているのが出光昭介であり、巻末ちかくには出光佐三が「生き仏との出会い」の一文1966を寄せている。つまり、大拙の大スポンサーとして出光興産が支えていたことは初めて知った。

 私の禅体験など語るにもなきが如しだが、最初の師といえるのは、母方の祖父だったといえるだろう。彼は一農夫だったが、法名に衝天院釣月耕雲居士とあるように、まさに月を釣っては雲を耕すような禅者であった。少年時代の私はほとんど達磨や慧可などの話を、彼からコタツにあたりながら聞いたのだが、茶の間の彼の背中にはいつも出光のカレンダーがかけてあった。

 遊びにいくと、ちらっとこのカレンダーに目をやって、この言葉はわかるかい? この絵はこうだよ、といろいろ仏の教えや禅のことを教えてくれた。出光のカレンダーには、毎年、禅画や経や句などが書いてあった。今思えばば、この出光のカレンダーの陰には、大拙の仕事が色濃く影響していたのである。

 この本には、その他、日野原重明、源了園、千玄室、立松和平、鎌田東二、中村元、柳宋悦、朝比奈宗源、その他の重要人物たちの一文が編集されている。ちょっと異色なところでは、末木文美士が「大拙の戦争批判と霊性論」p90を寄せている。彼は、
ブライアン・ヴィクトリアの「禅と戦争」を取り上げて、大拙の裏面を暴き出す。この周辺を深く掘り下げていったら、来るべき地球人スピリットの次代ステージが見えてくる可能性もある。







Last updated  2009.03.30 08:06:41
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2006.12.03
カテゴリ:地球人スピリット

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」 
香山リカ 2006/11 幻冬舎新書

 



 
幻冬舎新書創刊された。本屋の店頭にいきなり17点ほど並んでいたから圧巻だった。目新しいカバーで、タイトルも玉石混交ながら、売れ線を押さえている感じがする。すでに新書本シリーズは30を超えているだろう、まさに新書本ブームといっていいのだろう。

 このなかで、とりあえず立ち読みしたのがこの本。はっきり言って香山リカは、図書館にも沢山新書があるが、私は
一冊だけ読んで懲りてしまっていた。とは言ってもいつかはまとめ読みしようとは思っているが、まず第一印象を言っておくと、精神科医という触れ込みながら、一般的な評論家のお手軽な一冊、という感じが否めず、またその批判めいたものも、どこか井戸端会議的で、どうもピンとこない。

 つまり、香山リカが批評(あるいは批判)しようとする対象に対して、彼女のもっているキャパシティが相対的に不足しているのではないか、と思われるのだ。ケチだけつけるなら、多少口がまわり筆が立つ人なら、それほど難しくない。それを上回る何か代案なり、新しい提言がなければ、本当に生産的な議論にはならないのではないかな、と思うのである。

 さて、今回はその批評(あるいは批判)の対象となるのは、江原啓之と、その周辺にあるスピリチュアルという奴だ。カバーの腰巻で「江原さんのこと 1)大好き2) インチキ! あなたはどっち?」と来た。これは明らかにスピリチュアルや江原ブームを意識してのマーケティングである。好きも嫌いもまずは、私は、スピリチュアルについて書いて、儲けてます、という少しは謙虚な態度が必要ではないかな。もし、それでなかったとしたら、彼女はまず、なんでこの本を書いているのだろう。その趣旨がちょっと不明瞭だぞ。人気はあるのだろうが、まずはこういう姿勢が彼女の本に私の手が伸びない大きな理由の一つだ。

 しかしながら、人気がある著者ながら、私の手がまったく伸びないという意味では江原啓之のほうがさらに上を行く。まぁ一生読まなくてもいいかな、と思っているのだから、香山女史に対するよりさらに無礼な態度と言える。テレビで拝見する限り、すべては「過去生」に持っていくやり方には反対だ。危ない。間違っている。関係を持ちたくない。私の態度はそういうものだった。

 さて、「スピリチュアル」という言葉だが、これも難問だ。もうすでに日本ではこの言葉に色合いをつけてしまったのね。「オウム」と「オウム真理教」では大違いなのだが、すでにオウムもAUMも鸚鵡でさえも、日本の通常の社会ではタブー視される言葉となっている。スピリットという言葉にはなんの責任もないが、スピリチュアルという形容詞を名詞形としてつかう、ある特殊な世界が動き出しているのである。

 スピリチュアル・コンベンション略して
すぴこんなんて動きもあって、それはそれとしてまた別な機会にふれようと思うが、言葉づらではなく、「スピリチュアル」という具体的な何かを指し示す動きがでているのだ。その筆頭が江原啓之なら、まぁそのうち、ゆっくりと著書なりテレビ番組なりを見てみようとは思っている。

 さて、端的に言えば、スピリチュアルに「ハマる人」「ハマらない人」、江原さんを「大好き」「インチキ!」という二元論は「インチキ」だから、私は香山流のロジックには「ハマらない」と言っておこう。







Last updated  2009.03.30 08:07:27
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2006.12.02
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「仏教発見!」 
西山 厚 2004/11 講談社新書



 奈良国立博物館資料室長の書いた一冊としては、これ以上何を望むのかという、出来上がった一冊だといっていいのだろうと思う。自分の生い立ちを語り、仏教との出会い、そして日本における人間観としては、まさに出来上がってしまっている一冊といえるだろう。ゴータマ・ブッタの生涯の話など、何度聞いても面白い。基本は同じストーリーなのだが、語る人の切り口によって、またちょっとずつニュアンスが違ってくるので、ブッタの存在がさらに立体的に奥行きが深くなってくる。

 聖武天皇、鑑真和上、最澄、法然、明恵、叡尊、それぞれを語る著者の語り口というものはとても優しい。これ以上なにを望むのかという真綿でくるめたような優しさがある。しかし、最後の高田好胤ときて、なるほど、と思った。この方、この高田好胤と父の代から
「縁」があり、若い時分には、一緒にインドの仏蹟を尋ねる旅に参加していたりする。
 
 ひとりの迷える凡夫が仏教に出会い、次第に釈尊の慈悲に導かれていく、というストーリーなら、特に何の問題もない。しかし、それはある意味、古い極めて固定的なイメージで固められた日本的仏教の姿でしかない。この本にはウェブ社会のこともでてこないし、9.11もでてこないし、ニートやフリーターの問題もでてこない。ましてやアセンションなどということは論外だ。

 しかしながら、著者自らが、読者にその「現代的日本仏教」の破綻を一端を見つけるヒントを作っている。「おわりに」でこう書く。

 
ダライラマの講演を聞いたことがある。(中略)講演が終わると、質疑応答が始まった。日本の仏教をどう思うかという質問が出た。ダライラマは「お釈迦様の教えに従う者、大乗の教えを実践する者として、衣の色は違っても、私たちは同じである」と答えたが、「戒律の修行が少ないようだ。自分の宗派の経典だけではなく、もっとさまざまな経典を読むといい」と付け加えた。p236

 著者が単に一仏教徒として高田好胤を師として、美術館の職員を続けるならなんの問題もない。しかし、このような本を書き、少なくとも、施設の人々だろうが、幼稚園児だろうが、人前で仏教というものをお話するとするなら、仏教の「伝道者」として、何かが足りないことになる。

 それは、すでに鎖国をしている島国日本の時代ではないということだ。このグローバルなネット社会が発達した時代に、社会的にもさまざまな問題が噴出している日本(あるいは世界)の救済として、彼の仏教観では、あまりに狭い仏教観になってはしまいかということだ。

 なにも
ダライ・ラマにだけ学べといっているわけではない宮崎哲弥が現代インドにおけるアンベードガル博士新仏教徒運動に共感を示すように、もうすこし今の時代に目を開かなくてはならないと思う。薬師寺の仏閣が復興したなんて、時にはちょっとケチな世界にみえて来る場合だってある。

 この周辺の私のクレームがじつはこのブログの主テーマである。







Last updated  2009.03.30 08:07:56
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2006.12.01
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 「イヤシロチ」 万物が蘇生する場所がある 
船井幸雄 2004/2 評言社

 
船井ワールドの続き。ふと手にとってみたら、カバーイラスト(表)「要の石」タダヨシ・ニラーブ・アライとなっていた。彼は伊豆のUニティのスタッフで、たしか瞑想ルームを作る時、床下に炭を敷くことを強く提案していたが、このイヤシロチの考え方に強く影響されたのかな、と思った。ずっと20年近く前のことだが。
イヤシロチ.jpg

 イヤシロチで検索すると、楽天アフリエィトのなかにもたくさんの関連商品があってびっくり。なるほど、700円程度の新書本をいくら紹介してもポイントはあがらない。経営的に考えるなら、このような商品を紹介する必要があるのだなぁ、と改めて、経営コンサルタント・船井センセイのセンスに敬服いたしました。

エントレ炭


アポロ・フィールダー



イヤシロチ~最高級埋炭用竹炭(炭素埋設)20kg


エフグラビクス






Last updated  2009.03.30 08:08:30
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



「瞑想の精神医学<新装版> トランスパーソナル精神医学序説 安藤治 新装版2003/4  初版1993


 著者は、公的研究教育機関に所属している学識経験を有する研究者を対象とする
「日本トランスパーソナル心理学/精神医学会」1999設立代表ということである。諸富祥彦を代表とする、学者のための閉ざされた学会ではなく一般人が自由に参加できる「日本トランスパーソナル学会」1996設立とは別組織。前者には、より専門性が高く、高度な研究をしている人々が集まっているものと思われる。

 しかし、どちらがよりトランスパーソナルを理解し、より実践的な有益な活動をしているのかはにわかには分からない。一般人である私にとっては諸富グループのほうが敷居が低いようでもあるし、よりアカデミックな感じがする安藤グループは他に得がたい存在であるようだ。今は両者の健全な発達を願っておきたい。

 さて、この本だが、1993年に初版がでて、10年を経て2003年に新装版がでたということは、それだけの名著だったということであろう。1995年のオウム事件や、世紀末シンドローム、9.11などの世界情勢を踏まえた上で、リニューアルされたのだから、ある意味、現在読む本としては、安定している本と言えるであろう。

 トランスパーソナルは日本においては十分に紹介されておらず、また研究もすすんでいない。今後ますますより一般に理解される方向で関係者達は活動している。だが、禅を代表とする瞑想文化を持つ日本は、学術的な合理的理解としての瞑想ではなく、もっと直感的で直指的な形で瞑想を理解している。

 本書において、メディテーションという言葉が西欧では一般的に使われているとされているが、より瞑想という言葉がより本質的だろうし、禅、Zen、ディアーナ、のほうがさらに真実に近いだろう。この辺になると、Oshoを題材とした
玉川信明の著書のほうが、当然のことながら私にはわかりやすい。

 スピリチュアルな実践は、何らかの形で信心をもつ集団のなかで行なわれる傾向があるが、ヴォーンはまた、そこに含まれるいくつかの大きな問題点に注意すべきだとも述べている。第一の問題点は、それぞれの集団が自分たちの信念こそが真実に近づく唯一の正しい道であると主張し、他の集団を排斥しようとする傾向を強くもってしまうことである。p118

 問題点の第二には、スピリチュアルな実践を行なっているということで、自分を特別な人間だと思い込む傾向が挙げられる。自らのスピリチュアリティに特殊なプライドをもってしまうと、スピリチュアリティの本質は失われてしまう。p120

 持って瞑すべしである。この本、すでに10年の歴史があり、さらに近年になって新装版として書き改められているだけに、非常にまとまっている一冊である。しかしながら、だからこそ、まだ未確定な突出した学説や先見性のある試論のようなものが排斥されているように思う。もともと、瞑想や神秘とは合理性をこえているのであり、矛盾を矛盾として取り込めるキャパシティの大きさが要求される。これからも、著者の関連の研究をみてみたい。 






Last updated  2009.03.30 08:09:01
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2006.11.29
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「<宮台真司>をぶっとばせ!」 ”終わらない日常”批判 諸富祥彦編著 トランスパーソナルな仲間たち著 1999/1 コスモライブラリー

 この本、もう少し面白いかなぁ、と期待していたのだが、あまり面白くなかった。もともと編著者の
諸富祥彦の一連のトランスパーソナルな言動が、私には好感がもてたので、一連の著作のひとつとして読んでみたのだが、期待はずれであった。

 なにゆえの期待はずれなのか。いったい私はこの本に何を期待していたのか。ブッタの心理学へと結びつくトランスパーソナル心理学が、教育や社会評論などの現場を獲得しながら、より身体化して、リアリティ溢れるものになっているか、そのようなイメージだったのである。

 しかし、まず、私は宮台真司を知らない。知らないことはないのだが、いままで一切読もうとしなかった。諸富のこの本がなかったら、まず宮台について考えることはなかっただろう。そして、この本を一冊読んだあとも、ぜひ読みたい、と言う風にはなっていない。ただ、これだけ<批判>に耐えるだけの人であるなら、その代表作の2~3はどうしても読んでおかなくてはなるまい。

 もうひとつ。私は実は長いことトランスパーソナル心理学が嫌いであった。というより、その第一の紹介者だったC+Fの吉福伸逸氏が嫌いだった、ということだろうと思う。彼に最初にあったのは78年、彼のマンションでの勉強会でだった。その後は88年の伊豆で会った。いずれにせよ、彼は<グルイズム>だとか、なんだとか言って、常にOshoの匂いを嗅ぎながら、批判というよりケチをつけ続けてくれた。発展的<批判>はもちろん歓迎すべきだが、彼のOshoへの<批判>は、最初の最初から的を射たものではなかった、と私は見ている。

 だから、その後、彼を中心として紹介された一連のモダニズムが、トランスパーソナル心理学となずけられて一定の評価を得るようになった後は、吉福さんゆえに私はこのトランスパーソナルという言葉が嫌いになった。

 ところが、偶然に読んだのがよかったのか、トランスパーソナル第二世代ともいうべき諸富の一連の言動はまぁまぁ今までの私の<偏見>を訂正してくれるようなところがあった。そして最近
玉川信明の本が、予想していたより、とても面白かったので、ひょっとしてこちらも面白いかも、と期待したのだった。

 この本は10人のいわゆる「トランスパーソナルな仲間たち」の共著だが、私がやや面白いかな、と思ったのは大野純一氏の文章の一部だけだった。P225でOshoに触れていたから面白いと思っただけかも知れない。この本は実際にはオウム事件の悪夢覚めやらぬ1998年に書かれている。だから、どうもその影響下で情報が整理されないまま、当時の混乱を撒き散らしながら書かれている。

 いずれにせよ、この段階のこの「仲間たち」のレベルでは私は満足できない。この人々が現在なにをしているのか、もっとBe Here Now に引き付けてみる必要があるだろう。







Last updated  2009.03.30 08:09:30
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