一 銭 五 厘 で つ ぶ さ れ た 半 生
兵 士 の 傷 跡 う つ し 出 す
庶 民 今 も ふ み つ け
憤 る 花 森 さ ん
「 暮しの手帖 」編集長、花森安治さんの詩に
「 見よ ぼくら一銭五輪の旗 」という詩がある。
一銭五厘は召集令状を印刷したはがき代だった。
花森さんは書いている。
兵隊は一銭五厘の葉書でいくらでも
召集できるという意味だった・・・
貴様らの代りは一銭五厘で来るぞとどなられながら
一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた。
へとへとになって眠ったーと。
28年間、孤絶のジャングルにひそんでいた横井庄一軍曹も、
「 一銭五厘 」で召集された兵士であった。
おそらく、人間としての限界を生きたであろうその四半世紀余の
営みは「 一銭r五厘 」で表される戦争のきびしさとむごさを、
あらためて私たちにつきつけた。
花森安治さんは、敗戦のとき、34歳の上等兵だった。
花森氏によれば< 一銭五厘 >は< 草莽( そうもう )の臣 >であり、
< 陛下の赤子 >であり、< 醜( しこ )の御楯( みたて ) >であり、
< 庶民 >だった。
花森さんの胸に迫るのは、横井軍曹が、兵士として、
30歳で召集された、という事実である。
「 兵隊であることと、将校であったことは、
軍隊では決定的に違った。
そして30歳のオトッチャン兵士と20歳の
現役兵でもまったく違った。
生活に責任を持たなければならなかった、
いわば老兵が、戦後もずっと戦争を生き続け
なければならなかったこと。
その重さがジーンとくる。
<一銭五厘>の時代のことさえ、まだ処理されて
いないじゃないか、とギョッとする 」
「 感情的にならざるをえない 」と花森さんは、涙声だった。
戦死した多くの兵士たち。かたわになった兵士たち。
生きて帰っても、戦争のツメ跡で、人間らしく
生きられなかった兵士たち。
その人たちの「 象徴 」として、横井軍曹の姿が、
こころが迫ってくるーーというのである。
「 だから」と花森さんはいう。
「 横井さんの登場に、わたしは、まだ、生きている
戦争の姿を突きつけられた思いです。
横井さんが生きた孤絶のグアム島のドラマは< 草莽の臣 >
ひとりひとりの傷跡を、あざやかに写し出しているように
思えるのです 」
同時に、「 憤り 」もこみ上げくる、という。
「 横井さん以前に発見された伊藤さんたちに、
厚生省の役人は帰ってこられただけでしあわせだ。
君たちだけじゃないといったそうですが、
これはいったいなんですか。
なぜ。ご苦労さんでしたーーと頭を下げることが
できないのです。
これはやはり< 一銭五厘 >へのセリフです。
横井さんの出迎えには、佐藤首相が羽田まで出向くべきです。
そのことを歴史の記憶にとどめるべきです 。
< 一銭五厘 >の庶民はいつまで踏みつけにされていいのかー
というのである。
「 なかには、無縁仏の墓守としてひっそり生きてるような
旧軍隊の偉い人もいる。
しかし、偉い軍人のほとんどは、また踏みつけにする
側に回っている 」
長田玉枝さん(71)。
ニューギニア・サラワティ島で野戦気象隊員として戦った
長男堅憲さんが、死んだとは思えず、厚生省の戦死という
認定を拒んで戦友の家を歩き続けてきた。
母親の一心で、34年インドネシアのジャワまで、
去年は遺骨収集団について、念願の島まで行った。
しかし、泣く思いで叫ぶ声にはヤシの葉のそよぎしか
返らなかった。
長田さんは横井さん発見の前日も上京して
厚生省を訪れ、わが子の行方を確認するよう
頼み込んでいたという。
上記、記述は、1972年( 昭和47 )1月、
新聞に掲載されたものです。
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最終更新日
2022年02月27日 21時59分20秒
[元 日 本 兵 ・ 横 井 庄 一] カテゴリの最新記事
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