ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー
第2章 人間の本質(28節 24-28) 24 霊的な力による人間の変容アストラル体から霊我への変容は、知的進化、感情や意志の浄化と純化などから推し量れる。また、宗教や芸術の諸経験はエーテル体を生命霊に変容させる。日常生活でも、意識されないうちにこうした変化が起こることはある。しかし「秘儀参入」では、詳細は後述するが、超感覚的認識を元に、こうした作用を意識的に行う方法を示している。ここでは人間に、魂的、体的作用だけでなく、霊的作用もあることを指摘しておく。この霊が人間の永遠なる部分である点も後に述べる。25 霊人 自我の作用は、アストラル体、エーテル体にとどまらず、肉体にも及ぶ。状況によって顔面が紅潮したり、蒼白になったりするのは、自我が肉体に影響する例である。自我の影響で肉体に変化が起きる場合、自我は肉体内に隠れた力と実際に結びついている。こう述べるからといって、この隠れた働きを物質的なものと誤解してはいけない。肉体に物質的に現れるのは開示された部分に過ぎず、その背後には、隠された霊的な力が働いている。ここで言う作用とは、物質的な作用ではなく、肉体の生成崩壊を制御する不可視な諸力に対する霊的な作用である。肉体への自我のこの作用は、通常は非常にぼんやりとしか意識されず、超感覚的認識によってのみ明瞭に意識される。これが人間の第三の霊的構成要素である。それは、肉体の対極として「霊人」、東洋の叡智では「アートマ(霊的意志・真我」)と呼ばれる。記:シュタイナーの言う、東洋の叡智「アートマ」とは、禅道の極めに顕われる「無我の我」。たとえ、誕生・終末を繰り返す永遠の世界と無限の境地を「真我・真理」として捉える「悟り」を指すようにも想えます。飛躍するならば、認識概念を持つ人間存在が真実在の宇宙を支えているともいえます。26 肉体への働きかけは最も高次 肉体は人間の最も低次な構成要素であり、そこへの働きかけが最も高次な構成要素に関係する点は理解し辛いので、霊人については誤解がされやすい。然し乍ら、肉体では自我が霊に作用するにあたって「三重のヴェール」を越えなくてはならないので、自我の最高次な働きかけが必要になる。27 人間の構成要素のまとめ神秘学的に見ると、人間はこのように種々の構成要素からなる統一体である。その体の部分は、肉体、エーテル体、アストラル体であり、魂の部分は、感受魂、悟性魂、意識魂であり、自我は魂の中でその光を広げる。そして霊の部分は、霊我、生命霊、霊人である。前述の通り、感受魂とアストラル体は密接に結びつき、一体となっている。同様に、意識魂と霊我も一体である。なぜなら意識魂の中で霊が光り輝き、そこから霊が他の諸構成要素を照らし出すからである。こう考えると、次のような人間の区分も可能である。アストラル体と感受魂、意識魂と霊我をそれぞれ一つにまとめ、さらに悟性魂を「自我」そのものと捉えることもできる。なぜなら、悟性魂は自我の本性にかかわっているものの、まだ自らの霊的本性を意識していない「自我」だからである。こう捉えて人間の構成要素を七区分「肉体・エーテル体もしくは生命体・アストラル体・霊我・生命霊・霊人」することもできる。28 事柄に即した観察結果としての七区分 第2章の事柄をその意味に沿って考え、これを「魔術的な発言」として先入観で否定しなければ、唯物論的思考が習慣化している現代人でも、この人間の七区分に「蒙昧な魔術性」があるとは考えないだろう。虹が七色であったり、音階が七音(第八音は基音の繰り返しと考える)であったりすることには根拠があるが、人間の七つの構成要素にも、高次の宇宙考察からしか得られない根拠がある。音や色に現れる七の数が「迷信」と見なされないように、人間構成要素の区分も迷信ではない。(以前にこのことを口頭で述べた際に、色の場合、赤と紫の外側にも眼では知覚できない色が存在するので、「七という数」は不適当であるという反論があった。けれども、この点を加味しても、色との比較は正しい。なぜなら、肉体や霊人の外側にも人間の構成要素は続いているからである。ただその継続部分が、ちょうど赤と紫の外側の色が肉眼には不可視であるのと同じように、「霊的に不可視」であるに過ぎない。超感覚的観察は自然科学的思考を正確に理解できず、自然科学的には素人であるとしばしば言われるので、このような補足をした。しかし上述のことを正しく受け止めていただければ、それは真の自然科学と一切矛盾しないことを了解していただける筈である。具体的な説明や、自然研究との直接的関係を示すために、自然科学的事実を引用することもあるが、その場合にも、自然科学との矛盾は一切ないと言える。哲学・思想ランキング