神の存在-334
神の存否-334 尾崎紅葉の「金色夜叉」の貫一とお宮の「金>か、愛」と主要登場人物の狭山「愛<か、金」の情緒関係とは相違し、此れが「愛」そのものの変遷ともなれば、誰しもが憎しみ若しくは妬みを感じるでしょう。ただし、その憎みと妬みが通常は其の体験者自身の比較衡量によって大小があり多くの事件が巻き起こされます。此れが西洋はいざ知らず、道教・儒教世界であれば小児許嫁制度などにより表面化はしませんが、水面下では古今東西垣間なく現れる現象で、物語の格好の題材になるのは言わずもがなです。:記 定理三五 人はもし自分の愛するものが自分のこれまで独り占めにしていたと同じの、あるいはより緊密な愛情の絆によって他人と結合することを表象するならば、愛するもの自身に対しては憎しみを感じ、またその他人を妬たむであろう。 証明 人は自分の愛するものが自分に対してより大なる愛を感じていると表象するに従ってそれだけ大なる名誉を感ずるであろう(前定理三四 我々の愛するものが我々に対してより大なる感情に刺激されていると我々が表象するに従って、我々はそれだけ大なる名誉(名誉とは感性的には誇りと捉える)を感ずるであろう。により)。言いかえれば(この部第三部の定理三〇の備考要約: 喜びおよび悲しみは愛および憎しみの一種である。しかし愛および憎しみは外部の対象に関連するものであるから、我々は今述べた感情を他の名称で表示するであろう。すなわち我々は内部の原因の観念を伴ったこの喜びを名誉と呼び、これと反対する悲しみを恥辱と呼ぶであろう。しかしこれは人間が他から賞讃されあるいは非難されると信ずるために喜びあるいは悲しみを感じる場合のことである。そうでない場合は、内部の原因の親念を伴ったこの喜びを自己満足と呼び、これに反対する悲しみを後悔と呼ぶであろう。により)それだけ大なる喜びを覚えるであろう。したがってその人は(この部第三部の定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。により)愛するものが自分と最も緊密に結びついていることを表象するようにできるだけ努めるであろう。そしてこの努力ないし衝動は、他人もその同じものを欲していると表象される場合なお強められるものである(この部第三部の定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を、すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。により)。ところが仮定によれば、この努力ないし衝動は、愛するもの自身の表象像が愛するものの結合している他人の表象像を伴っていることによって阻害されることになっている。ゆえにその人は(この部第三部の定理一一 そこで我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである。の備考により)そのことによって悲しみに偏重する。愛するものをその原因として意識し、同時にかの他人の表象像を伴った悲しみに、刺激されるであろう。言いかえればその人は(この部の定理一三の備考により)愛するものに対して、また同時にその他人に対して(この部第三部の定理一五 おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる。の系により)、憎しみに刺激されるであろう。したがってまたその他人、その他人は愛するものを享楽しているのであるからねたむであろう(この部第三部の定理二三 自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。 これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。そしてこの両感情は、その反対の感情が自分の憎むものにおいてより大でありあるいはより小であるのに応じて、より大であり、あるいはより小であるであろう。により)。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 スピノザの「エチカ」著作当時の彼の精神感情はいかにも人間的認識主義に基づくものかが、聖人・哲人といった著名人と異なり、真の「人間原理」を求めていたのかが、肌を刺します。哲学・思想ランキング