視覚言語(手話)が、人類最初の言語なのは、視覚言語が原始的だからなのではない。。。
私は、人類最初の「コミュニケーション・ツールとしての言語」は、手話(視覚言語)であったと考える。しかしこれは、手話が音声言語(聴覚言語)と比べて「原始的」であるのでは全くない。人類の黎明期、遺伝的には「人間」に分類できる個体はいたとしても、まだ言語を使うまで至っていなかった時代があったはずである。この時、最初に「記号」を認知座標の中に想像し、自らのアイデンティティーを確立した人間は、まず間違いなく、五感全てを使って自分のアイデンティティーを形成していたはずである。しかし、この「五感を駆使した」記号ないしアイデンティティーは、そのままではコミュニケーションとして使える言語には成り得ない。なぜなら、五感全てを座標として共有し、記憶喚起することは不可能であるからである。ここで言う「記憶喚起」は、記憶科学の最も基本である「離散融合更新循環」に則ったものである。そこで候補として出てくるのが、視覚と聴覚である。言語学では一般的に言語の起源という時に、聴覚言語、いわゆる音声言語が取り沙汰される。しかし、聴覚では、コミュニケーションという役目を果たすためには、同じ音素を共有するために音韻体系を確立し、それを共有する必要がある。つまり、コミュニケーションの前に、どういう音素を使うかを一々確認する作業が必要になるのである。実際のコミュニケーションの現場ではこんなことでは埒が明かない。つまり「実用に適さない」のである。これに対して視覚言語の場合、腹と背のある銅に対して、上には頭、左右には腕と手が付いているという人間の生物学的な形態が、触覚的かつ視覚的な座標として始めから存在しているのである。この座標は、記憶喚起の更新循環を可能にするだけでなく、それを個人同士で共有することが可能になる。これにより、コミュニケーションツールとしての言語として機能し始めるのである。視覚言語は、それだけで完結しているが、視覚的な座標は、他の視覚的な記憶媒体を取り込むことを可能にする。それが、空間(平面上)に描かれた図象であり、それが発展した象形文字である。これは古代支那文明の漢字の発明に通じるものである。しかし、視覚言語から、他の視覚的な記憶媒体を通さずに、直接、聴覚的な記憶媒体に達した言語がある。その1つが日本語である。これには、「子音+母音」という単位が使われる。なぜなら、この組み合わせにすることにより、全体の単位の数が極端に少なくなるからである。現に、日本語では五十音表というように、ひらがな/カタカナは、五十余の聴覚的な記憶単位に還元されてしまう。つまり、日本語では50個の「仮名」を覚えてしまえば、それを組み合わせて全ての単語を作ることが可能になるのである。インド・ヨーロッパ語族の起源と言われるサンスクリットも、日本語の五十音に近い構造を持っていたと聞いたことがある。まだ、確信はないが、サンスクリットと日本語は実は非常に近いメカニズムでできた言語である可能性が強い。しかし、この2言語は地理的にも離れているし、直接的には関係がない。しかし、記憶言語学の見地では、相似性が認められるのではないかということである。サンスクリットにより、視覚言語から聴覚言語が生まれ、それが徐々に地理的に近くに住んでいる視覚言語を使っている民族に聴覚言語を伝え、それが同心円上に広がることによって、インド・ヨーロッパ語族が生まれたのではないのではないかという仮説が成り立つ。つまり、聴覚言語を使う民との接触がある前、全ての民は視覚言語を使っていたはずである。視覚言語を使っていれば、記憶喚起(離散融合更新循環)は可能である。それが、世代交代を経ることで、視覚言語から徐々に聴覚言語に移行していったと考えるのが自然であろう。ここで1つ、当時の聾者と盲者に起きた劇的な変化について述べたいと思う。視覚言語が主流であった時代、聾者達は、音が聞こえないというハンデはあってが、意志の疎通には困らなかった。これに対し、盲者達は、言語活動から全く遮断されており、人間らしい生活を遅れていたかどうかも怪しい。動物のようにしか振る舞うことのできない盲者は、成人することは無かったのかもしれない。ところが、視覚言語から聴覚言語へと言語の知覚チャンネルが移行するに従い、盲者と聾者の立場が(完全ではないが)逆転する。聾者は聴覚言語を知覚することができないのに対し、盲者は聞いて理解し意志の疎通をとれるようになる。つまり、それまで人間になれなかった盲者が、人間として同じ記憶を共有できる個人になることが可能になったのである。これに対し、聾者は、生きていく上で重要な情報は視覚的に受け取ることができるが、聴覚言語を学ぶことができない。実はここで、視覚言語(ジェスチャー言語でもある手話)を捨てるか温存するかの選択があるのだが、これが、社会の中で一定の割合で生まれてい来る聾者の運命を決める。ジェスチャーを使って視覚的にコミュニケーションをすることに抵抗のない民族の場合、聾者の疎外はかなり緩和されるが、ジェスチャーを無意味なもの、汚らわしいものと見なす民族の場合、聾者達は人間になる道を絶たれてしまう。この傾向はヨーロッパで非常に強かった。これに終止符を売ったのが、レペ神父による手話法による教育である。視覚言語の教育現場での復活により、聾者たちも社会(人類)の共通の記憶(一般的な知識や文化から、文学や科学知識まで)を持てるようになる。しかし、それもつかの間、口話法が聾教育の現場を席巻することにより、聾者達は、再び人間として生きる道を閉ざされることになる。これに変化が起きたのが20世紀後半である。現在、手話は言語として認められているが、聴覚言語(音声言語)のジェスチャー版であるという認識が広く言語学者の間でも浸透している。これは、由々しき事態であるが、今のところ、これを覆すことは非常に難しいようである。記憶言語学の目的は、視覚言語(手話)が、聴覚言語(音声言語)とは全く別の独立した言語体系であると知らしめることである。