記憶言語学とチョムスキー言語学の違い。。。
時々、気分の変えるためにユーチューブで言語関係のビデオを視聴する。その時のキーワードは、language であったり intelligence である。Langage theory で検索すると、大体チョムスキーのビデオが引っかかる。今日、久しぶりに色々と聞いてみて、自分の考えている記憶言語学との違いがあまりにもあることがわかった。まずは、言語の定義。チョムスキーは言語を基本的にコミュニケーションの道具あるいは特殊能力としてか見ていない。記憶科学では、人間はビッグバンで生まれた記憶を進化させるための3つ目のバトンを受け取った存在であり、言語を使って「記憶」を進化させている。チョムスキーの場合、言語を特殊能力と定義し、それを実行する能力を人間は脳に生まれながらに持っているとしている。ここで、実は研究の対象が微妙にずれる。彼の理論では、言語が何かを探るのではなく、全ての言語はある一定の構造をもっていて、子供たちはその構造の基礎を生まれながらに知っているため、地球上のどんな言葉であっても、それを学び取ることができるという言語習得に関心が移ってしまう。そして言語のモデルは、現存している全ての(聴覚)言語である。つまり、子供が英語やフランス語、あるいは日本語やタガログ語を話せば、人間は言語を話すことができるという論理展開になる。つまり、言語とは何であるかという根本的な問いが置き去りになっているのに、誰もそれを問題にしていないのだ。ここで「ランゲージアクィジションデバイス」があるという反論が出てくるのだろうが、これは、聴覚言語の構造を解析して、言語には名詞と動詞があって、その順序を組み合わせて意味を作っている程度の説明しかできない。しかも、それは無意識に働くというのだから、完全なブラックボックスである。しかし、こういうプレゼンテーションをした方が、「それらしく」思えるだろうことは予想がつく。我々は、太陽系の誕生から記憶の進化のバトンを受け取る形で言語を話すことができるようになったというのはあまりに突拍子がないだろう。しかし将来、チョムスキーは、中世の錬金術師と同じような扱いを受けることになるだろう。それは間違いない。