カテゴリ:地域の歴史・伝承
「北海道」の名付け親は、松阪市出身の北方探検家松浦武四郎です。 明治政府は、明治2年8月に蝦夷地を北海道と呼び改めることにしました。 この新しい名称の選定にあたったのが、松浦武四郎でした。 アイヌ語で「カイ」とはこの国に生まれた者という意味で 武四郎はここから「北加伊道」と命名し、「加伊」を「海」にあて「北海道」という地名を考えついたといいます。 彼は他にも、北海道の地名の多くを考え、アイヌ語に漢字を当てはめていったといわれています。 松浦武四郎は、探検家・地誌研究家でありますが、人権感覚に優れた官僚でもありました。 その足跡をまとめてみます。 松浦武四郎は、文化15年(1818年)伊勢国志郡須川村(現在の松阪市小野江町)に郷士の四男として生まれました。 17才の時、見聞を広めたいと日本諸国を巡歴する旅に出ます。野宿も辞さない精力的な旅でした。 長崎を訪ねた折、北方の重要性について話を聞き、翻然と自分の使命はその地を調査する事にあると悟り蝦夷地を目指します。 当時、松前藩は蝦夷地の商品流通の独占と内情が外にもれるのを防ぐため、旅人には厳しい規制を行っていました。 そのため、武四郎は箱館商人の手代という名目で蝦夷地をまわることにしました。 この時、武四郎28才。 箱館から知床まで、さらに樺太にも足を伸ばし海岸を調査、オホーツク海岸から国後・択捉・色丹各島の調査など 3回にわたって蝦夷地を巡り、地図や地誌を記した多くの書物を書き残しました。 安政3年には、実績が認められ幕府雇いの身分と応分の手当を得るようになりました。 武四郎が蝦夷・樺太事情についての第一人者という事で知られるようになると、大名から招かれて話をする機会も多くなってきました。 時はあたかも幕末、特に蝦夷地開発に関心を示していた水戸藩とつながりが強く、生活に貧窮していた藤田東湖に資金を援助したりしています。 蝦夷地で暮らすために必要なこととして、武四郎が常々口にしていたのは、 その地に住んでいるアイヌを範とすべきである という事でした。 それには彼らの生活に融けこむことが必要で、アイヌ語を習得しなければ蝦夷ですごすことは出来ないと彼は言います。 当時蝦夷は未開の地というべきで、そこに松前藩の者・幕府の役人・商人等が入り込んでいましたが、蝦夷の風土になじまず、死んでいくものが多かったようです。 「人物誌」という書の中で武四郎は、アイヌについての課題を次のようにまとめています。 (1)世人のアイヌに対する偏見を取り除くこと。 アイヌは文字もないのに和歌をものにしている。アイヌ人は道徳にもすぐれ、技術や人望にもあふれている、そうした姿を広く知らしめようとしました。 (2)アイヌ社会が絶滅の危機にあること。 アイヌの生活は貧窮・病気・家族の崩壊など悲劇のきわみにあり、人口が減少している。 開拓よりはまずアイヌの救済をと訴えました。 (3)幕府政策への期待 力によるアイヌ社会の日本化はいたずらに混乱を持ち込むばかりである。 それでも、松前藩の無策より幕府の施策に期待したい。 しかし、やがて明治維新を迎えます。 武四郎は明治政府の開拓使政策にアイヌ救済を期待する事になります。 明治政府のもとで、武四郎は蝦夷地開拓御用掛、そして開拓使判官を拝命。 国防・開発のためには道路の開通が第一、漁業や水田の開発を進めること。 硫黄が採取できるので警備のための火薬の製造に役立てる。 屯田兵を採用すること。アイヌ民族については、愛撫すべきこと、貧しい者の救済をすべきこと 等々の提案を明治政府に対し行いました。 しかし、開拓使の役人たちの野蛮・無知という旧態のままのアイヌ観は変わりませんでした。 武四郎と激論になることが多かったといいます。 明治3年3月、開拓判官の職を辞職します。 この後は任官することなく、東京神田五軒町に隠居し、時折大好きな山のぼりを楽しんだといいます。 最近、武四郎の業績を偲び北海道各地で記念碑が建てられるようになってきているようです。 松阪市小野江町には、松浦武四郎記念館があり、彼の生家も保存され残っています。 彼の業績は一般的にあまり知られていないですが、もっと評価されて良い人物であると この文章をまとめていて つとにそう感じました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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