カテゴリ:江戸時代
江戸時代の江戸の町 「伊勢乞食に近江泥棒」という言葉がささやかれていたとか。 これは、江戸の商人達が江戸で商売を繁盛させていた伊勢商人や近江商人のことを、ねたみ半分に言ったもののようです。 当時の江戸の町には「伊勢屋」を始め、「越後屋」「丹波屋」など、伊勢商人の店が軒を連ねていました。 これらの店は「江戸店」といって、東京支店とでもいうようなもので、「江戸店」持ちということが松阪商人の特色の一つでした。 そうした松阪商人の中の代表的な人物が、越後屋呉服店(後の三越百貨店)そして三井財閥の基を築いた三井高利です。 三井家はもともと三井越後守を名乗る武家でしたが、高利の父の代に商人となり、松坂で質屋の傍ら酒と味噌を売る店を始めました。 14歳になると高利は江戸へ出て長兄の店を手伝いながら商才を磨き、28歳で松坂に帰って結婚、家業を継いだといいます。 やがて高利は江戸に進出。 呉服店「越後屋」(三越百貨店の前身)を開店したのは、52歳を過ぎてからの事でした。 開店と同時に、高利は画期的な2つのサービス商法を開始します。 「店前現銀掛値なし」と「小裂何程にても売ります」 つまり店頭販売と切り売り販売でした。 当時、いわゆる大店では現金扱いの小売りは行われておらず、 見本を持って得意先を回る「見世物商い」か、 品物を直接得意先に持ち込む「屋敷売り」がふつうで、支払い方法は盆と暮れの節季払いという掛売り方式が習慣となっていました。 得意先が裕福な商家か大名や武士といった特権階級に限られていたためですが、これでは金利がかさむぶん商品の価格は高くなるうえ、資金の回転も悪かったのです。 それを高利は、店先で販売する現金売りに改めました。 これにより外回りの経費や金利がかからないため、掛け値なしの正札で販売することができるようになりました。 この方式は当たり、越後屋の客層を広げることになりました。 一方の「小裂何程にても売ります」も好評を博しました。 当時は反物単位の販売しか行われていなかったため、切り売りは江戸町民に大いに支持されることとなったのです。 こうした中、この繁栄ぶりに嫉妬した同業者から迫害され、組合からの追放や引き抜き、不買運動などが行われました。 しかし、江戸の大火により店を焼失したのを機に、新たに「越後屋呉服店」を開店。 さらに、呉服業の補助機関として「両替店」を設けました。 ここは商業地ではなかったので、高利はビラを配ったり、雨が降ると越後屋のマーク入りの傘を無料で貸し出したりして、店のPRに努めました。 そして、2年後には店を拡張するまでに業績を伸ばします。 短期間で、呉服、両替ともに幕府の御用達になるほど発展させていったのです。 江戸での商売で、後発であった高利は、当時まったく呉服の購買層としては考えられていなかった庶民に目をつけました。 元禄の好況を目前にしたこの時期、購買力をつけつつあった庶民を顧客とするためには、従来の商スタイルを根本から変える必要があったのです。 そのために、高利はまったく新しいビジネスモデルというべき、画期的なシステムを創り出し、そのシステムはその後の流通のあり方を変えるほどのパワーをもっていました。 現在のバーゲンセールや販売広告の元祖ともいえるでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年07月17日 21時46分15秒
コメント(0) | コメントを書く
[江戸時代] カテゴリの最新記事
|
|