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2009年02月07日
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カテゴリ:明治の群像

封建社会の遺風が、色濃く残っていた明治の初期。

女性は家にいて、家庭を守るもの。女に学問など不要、など。
明治の初期には、そうした考えが強く残っており、
学問の好きな才女は、畏敬されることはあっても、
女だてらに変わり者と批判されるような時代でした。

そうした中、社会の女性差別とたたかい、
艱難辛苦の中、医師を目指し、一人奮闘した女性がいました。
荻野吟子という人です。

今回は、近代日本の女医第一号であり、
女性運動家でもあった荻野吟子の、波乱に満ちた生涯をたどります。


荻野吟子は、
1851年(嘉永4年) 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)で
名主を勤める、荻野綾三郎の5女として生まれました。

幼少期の吟子は、
父の綾三郎が、「女には過ぎたる利発ぶり」と言って嘆いたというほどの、
学問の良くできる才女でありました。
しかし、荻野家は、この近郊でも有数の格式高い名家であったため、
幼少期の吟子は、なに不自由ない裕福な生活を送っていたようです。

1867年(慶応3年)には、
武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男稲村貫一郎と結婚。
吟子16才の時のことで、もちろん、家同士が決めた結婚でありました。

しかし、この結婚生活はすぐに破綻してしまいました。
それが、こともあろうに、夫から淋病をうつされ、それがもとでの離婚だったのです。

当時は、嫁いだものが戻ってくる、離縁されるなど、
とても恥ずかしいことと考えられていた時代で、
そんな中、とんでもない病気持ちとなり、子どもを産むこともできない身体になって
実家に戻ってくるなど、考えられない屈辱でありました。

世間から「出戻り」「不産女」「業病持ち」などと、後ろ指を指されるのを恐れ、
隠れるように家の中で過ごす、絶望に打ちひしがれる日々が続きました。

しかし、病状は進行するばかりで、じっと家の中にいても治る見込みはありません。
吟子は、ついに、上京して専門の医院で診察を受けることを決意します。

東京では、西洋医として評判の高い順天堂医院を紹介してもらい、入院することとなりました。
しかし、この時の診察体験が、その後の吟子の生涯を決定づけることになります。

婦人科の診察。そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、
男性医師に下半身を晒して診察されるということが、
吟子にとって、耐え難い屈辱的な体験であり、大きな衝撃であったのです。
2年に及ぶ治療生活の中、
やがて、吟子は同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという思いから、
女医を志す決意を固めていきました。

吟子は、その後、
東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が開校されると聞くや、これを受験。
その第一期生となり、やがて、ここを首席で卒業します。

しかし、彼女が目指したのは医師になることです。
ところが、この時代、女医になるということには、絶望的なほどの障害がありました。

当時の医学校は、どこも女人禁制で、女性が医学を学べる場所など、どこにもなく、
また、法的にも女性が医師になることは認められていない、
そうした状況だったのです。

しかし、それでも、吟子は、医師になることをあきらめませんでした。
東京女子師範の恩師から紹介してもらって、
当時、軍の医監であった石黒忠悳(ただのり)という人に直接会って話しをする機会を得て、
これからは、女医が必要であることを石黒に説明・懇願し、
これに共感した石黒が、私立の医学校・好寿院を経営する友人を説得したことにより、
なんとか、好寿院への特例入学が認められることになったのです。

やっと、大きな関門を一つ乗り越えた吟子。
しかし、なんとか、好寿院への入学は果たしたとはいうものの、
男子学生の中で、女子は吟子一人という状況です。

まわりからは、好奇の目で見られ、
偏見と蔑視といやがらせの中、まさに艱難辛苦の勉学を続けることになります。
それでも、3年間の履修過程を、吟子は耐え抜きました。
抜群の成績を修めた上で、好寿院を卒業。
次は、いよいよ、医師開業の国家試験を目指します。

勇んで、医術開業試験の願書を提出する吟子。
しかし、女性であるという理由で、その試験願は却下されました。
翌年も試験願を提出しますが、また、同様に受験を拒否されます。

思いあぐねた吟子は、再び、石黒忠悳に会い、事情を説明しました。
話を聞いた石黒は、医術開業試験の所轄長である衛生局長・長与専斎に、
働きかけることを約束しました。

数日後、吟子は、長与専斎と面会する機会を得ます。
「女性が医師になるには、どうしたらいいんですか」
と、訴えかける吟子。
「女の医者は前例がない」と長与専斎。
「前例があれば、認めてもらえるんですね。」

吟子は、それから、多くの書籍を調べ上げ、
やがて、奈良時代の律令制の注釈書である「令義解」の中から、
日本最古の医事法令の規定を見つけて、そこに女医という言葉が出ているのを
探し出しました。
こうして、衛生局もついに、吟子の医術開業試験受験を、認めることとなったのです。

1885年(明治18年)
吟子は、ついに、念願の医師開業試験に合格します。
女医を志してから、15年。
吟子、34才の春のことでした。

次いで、この年には、東京湯島に借家を借りて、診療所「産婦人科荻野医院」を開業。
このことは新聞や雑誌で取り上げられ、「女医第一号」として大きな反響を呼びました。
診療所は、脚光を浴び、場所が手狭となるほどの繁盛ぶりでありました。

しかし、吟子は同時に、医療を施すだけでは、病気を治療するには限界があることを感じていました。
むしろ、治療に専念できるだけの生活環境、社会体制を整備する事こそが、
必要であると感じ始めていたのです。
そうした中で、彼女はキリスト教と出会い、やがてキリスト教に魅せられていきます。

1886年(明治19年)
吟子は、キリスト教の洗礼を受けました。
それとともに、キリスト教系の婦人運動部会にも参加し、
その風俗部長や幹事に就任するとともに、廃娼運動・女性の議会傍聴認可運動などに
取り組みます。

この頃の吟子は、女医であるとともに、女性活動家としても知られるようになり、
社会的にも、評価されるようになっていきました。

しかし、そんな吟子にも、やがて人生の転機が訪れます。
そのきっかけは、一人の青年との出会いでありました。

1890年(明治23年)。吟子39才の時。
13才年下の同志社の学生で、敬虔なキリスト教信者でもあった
志方之善(しかたゆきよし)と知り合い、
やがて、2人は恋に落ちます。

吟子は、キリスト教の理想社会を求める之善の熱意に共感し、
釣り合いがとれないと周囲が反対するのを押し切って、之善と再婚しました。

幸せな新婚生活を過ごす2人。
しかし、それも束の間、
やがて、夫の之善は、キリスト教の理想郷をつくるという信念のもと、
北海道で原野を開拓すると言い、単身、北海道へと渡っていきました。

しばらくは、東京から之善の支援を続けていた吟子でしたが、
やがて、吟子も、北海道に渡り、夫とともに理想郷をつくる決意を固めます。
吟子は、診療所をたたみ、社会的な地位も財産も投げ打って
之善のあとを追って、北海道に渡ります。

ところが、北海道の密林と原野を開拓して理想郷を創造するというこの事業は、
想像以上に困難を極めたものでありました。
環境も劣悪で、顔や手足は、蚊や虻にさされて、ただれ、
過酷な労働の中、マラリヤにかかり死んでいく人が続出します。
そうした中、この開拓事業は7年にわたり続けられましたが、
結局、之善の試みは、全くの挫折に終りました。

その後、吟子は、海辺の町瀬棚に移転し、
ここで診療所を開業し、暮らしていくことになります。
一方の之善は、その後、マンガン鉱の開発にも失敗し、
一旦、同志社へ再入学したのち、再び、北海道の教会へと赴任してきました。

そんな時、之善が、突然、病に倒れます。
長年の無理がたたっての過労によるもので、
之善は、無念のうちに、息を引き取りました。
1905年(明治38年)のこと。
之善が北海道に渡ってからは、早や、14年の歳月が流れていました。

夫に先立たれた吟子は、その後、3年間瀬棚で過ごしますが、
やがて、帰京。
本所区小梅町で医院を開業しながら晩年を送ります。
1913年(大正2年)
肋膜炎にかかり、逝去。
享年62才でした。


吟子の生涯は、常にひたむきでした。
ひたむきさと、頑張りがあれば、不可能と思われることも可能にできるということを
彼女の生涯は、示してくれているように思います。
また、それと同時に、北海道に行かず、そのまま活動を続けていれば、
もっと大きな功績を、社会に残すことが出来たのではないか、という
残念な思いも交錯します。

日本女医会では、昭和59年に、
荻野吟子の偉業を称えて、「荻野吟子賞」を設置したそうです。
この賞は、女医の地位を高めるために貢献した女性に対し、
毎年、贈られているといいます。






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最終更新日  2009年02月08日 00時15分52秒
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