カテゴリ:地域の歴史・伝承
前回の桑名の旅の続き。 今回は、江戸時代。桑名の繁栄を見ていきます。 江戸時代の桑名は東海道の要所であり、 また、伊勢神宮への東玄関のような役割を果たしていたため 経済的にも繁栄し、また、独自の地方文化が花開いた町でもありました。 そうした桑名の江戸文化の中で、ちょっと風変わりで、特徴的なものが折り鶴の発達です。 中でも、長円寺という寺の住職・義道一円は、折り鶴作りの名人で、 一枚の紙に切り込みを入れて、つなぎ折りして鶴の形にしていくという 「連鶴」と呼ばれる折り鶴をいくつも作っていました。 やがて、義道一円は、この折り方を描いた折り紙の教本(『秘傳千羽鶴折形』)まで出版します。 この本は、「連鶴」49種の完成図と、その銘、銘にちなんだ狂歌が添えられている といったような内容のものでした。 この『秘傳千羽鶴折形』は、現存する世界でも最も古い折り紙のテキストであると言われていて、 この折り方は「桑名の千羽鶴」として、現在、桑名市の無形文化財に指定されています。 桑名市博物館には、この桑名の千羽鶴が常設展示されていました。 「連鶴」の折り方を書いたチラシと折り紙も置いてあり、 その場で「連鶴」創りに挑戦できるようになっています。 また、折り紙コンテストのような企画も、時折、実施されているようで、 さすが、折り鶴の町だけに、折り鶴の普及に力を入れています。 ところで、何といっても、江戸時代の桑名を象徴するものは、東海道の桑名宿。 桑名は、東海道五十三次第42番目の宿場町でありました。 東海道というのは、陸路だけではなくて、一ヶ所だけ海路がありました。 それが宮宿(名古屋熱田区)~桑名の間です。 東海道を行く人々は、桑名で船を降り、再び陸路に戻るのです。 七里の渡し跡。 宮宿~桑名間をつなぐ渡し船の、船着き場です。 この船は、宮宿~桑名の間の距離が七里であったことから、 七里の渡しと呼ばれていたのです。 ここからは伊勢国。 お伊勢参りの入口にも当たるということから、 江戸の天明期には、ここに伊勢神宮一の鳥居が建てられました。 この鳥居は、今でも、伊勢神宮の式年遷宮に合わせて、 建て替えられているのだそうです。 この付近は、江戸の当時、船番所や本陣などが立ち並んでいたといい、 東海道を行く人々で、大層な賑わいであったといいます。 蟠龍櫓です。 七里の渡しに面して建てられていた桑名城の櫓の一つで、 船で桑名に入る人々が、必ず目にしたという、桑名の名物でありました。 安藤広重の浮世絵「東海道五十三次」の桑名宿でも、 この櫓が象徴的に描かれています。 現在の蟠龍櫓は、資料や絵図を元に復元されたものではありますが、 しかし、桑名市の水門統合管理所として、実際に使われている建物でもあります。 この2階が展望室。 たまたま、この日は休館日ではありましたが、 一般にも公開されているということです。 かつて、東海道を結ぶ渡し舟が行き交っていた、揖斐川の流れです。 この日は風が気持ちよく、川のほとりに佇んでいると、何とも言えない爽快感がありました。 ちょっと地味ではありますが、特徴的な歴史を持つ桑名の町。 歴史好きな私にとっては、なかなか、見どころ満載の旅でありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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