「犬と猫と人間と2」~正義や善意や厚意や~
餓死した牛の頭蓋骨をずらっと並べた写真が、私の知る希望の牧場だった。映画「犬と猫と人間と2」は、そんな先入観を抜いて見たけど、ネグレクトによる死骸パフォーマンスだと思った。元双葉町長の「福島はホロコースト」発言には反発したが、希望の牧場はまさしくホロコースト。何が良いとか悪いとか、善悪とか、正義とか善意とか厚意とか、もう良く分からない。戦争もテロも宗教も、全てが自らの正義を主張する現実。「希望の牧場」が、病気の牛たちで反原発パフォーマンスをやったとか。「被曝の症状だから感染の恐れはない」と思ったとか、そうでないとか。実際は、銅欠乏による症状だったとか、指摘されても対応せず放置とか。・・・対応して症状が改善したら、反原発パフォーマンスできなくなって困るとか。症状が、銅欠乏または被曝と確定済ならまだしも、そうでない場合、運搬で周囲の家畜に感染させる疑いがあったとかなかったとか。そんなことを考えないで「動物愛護」を掲げているなら、なんだかね。「希望の牧場」の牧場主が、映画の中で、「俺が牛の世話を見られなくなったら?放牧するさ。浪江や小高を牛の大群が襲うんだ」と言っていた。「やまゆりファーム」代表は、同じく映画内で、「エサ代がなくなれば面倒を見られなくなる・・・。その時は牛たちを殺すしか・・・」と悲しそうに言っていた。要は、支援してくれなきゃ迷惑かけるぞ殺すぞという脅迫と同じ。ここで、今すぐ殺処分と、5年後の殺処分と、どちらの選択の方が悲劇は少ないんだろうか。「この牛たちを知らないから、この瞳を見ていないから、殺処分しろと平気で言えるんだ」果たしてそうだろうか。命を預かる責任を、どう捉えているのか。「希望の牧場」兼「やまゆりファーム」が本当に牛たちを大切にしているのなら、まず避妊手術では。次から次へと交尾して、産んだ母牛も産まれた仔牛も、十分な食料がなく死んでいく。死骸は、牛舎内に放置されたまま。いつ死んだのかも分からない程に原型を留めず、ハエがたかる仲間と共に、映像に収まる牛。映画撮影時は特に夏場で、臭いは凄まじかったそうだ。監督は撮影後は牛舎から出たが、牛たちは仲間の死臭から逃げられない。そういう牧場が掲げる「動物愛護」。こんな残酷なことになるからこそ、発災間もなく、こうなる前に、こうなることを見越して、子どものように可愛がってきた牛たちを殺処分されたのが「命を大切にする」では。「命を預かる責任を果たす」では。おためごかしの「希望」があざとい。あの牧場に1000万円寄付したら、今の悲劇は払拭できるのか?否。あの牧場に毎週ボランティアに行けば、今の悲劇は払拭できるのか?否。むしろ、あの牧場にヒトもカネも出さない方が、早く悲劇に終止符を打てる。いくら正義感からの善意や厚意であっても、やってはいけない「支援」。宍戸監督は、この牧場に関わって、肉類を召し上がれなくなったそうだ。今度は、本当に命を大切にされている牧場に足を運んで欲しい。そういう牧場で、命を美味しく有難く戴けるようになって欲しい。それから、この牧場に向き合い直して、何かの掛け違いに気付いて欲しい。少しばかりお話させて頂いた。周囲の方のお話に耳を傾けられる姿勢を見ていた。本当に心根のお優しい方なんだと感じた。だからこそ、こんな事態に巻き込まれたように見受けられた。。。南三陸町の漁師さんからわかめのお話を伺ったり、伊達市の農家さんとお付き合いさせて頂いたり、自分でも家庭菜園をやったりしながら、むしろ私は食べ物をありがたく大切に戴くようになった。命に、動物も植物も関係ない。それにしても、宍戸監督のカメラがなければ、一主婦が、やまゆりファーム代表になることもなかったろうに。。。発災後、ペットのえさやりなどを理由に避難区域に入った人たちが、家畜のロープを外したようだ。飼育者ではなく、善意の素人によるものらしい。現在(や今後)、線量が下がって避難指定が解除されてインフラが整備されても、自宅に戻れない方々はおいでだろう。理由の1つに、家の中が動物の糞尿などで荒れていることが挙げられている。善意の素人は、そこまで考えない。・・・そこまで考えて、餓死させる覚悟で涙を呑んで、牛や豚のロープをつないだままにされていた飼育者の心が、善意によって深くえぐられてしまった。映画の中で、牛を追い込むのに素人が相当苦労しているシーンがあった。この先、街を復興するために、まず野良牛やイノブタなどの捕獲・駆除から始めるのだろうか。あのシーンを見たことで、どれだけとんでもなく途方もないことか、少しばかり想像できた。ただ、胸が苦しい。この映画では、他に、被災地を取り巻くペット事情と、犬猫保護のテーマも取り上げられていた。被災地を取り巻くペット事情。主に2つ。1つはペットロスに関して。発災直後に避難先でペット受け入れを拒まれ、あんな津波が来るとは思わず、ペットが命を落とすのを防げなかったケースが多発。飼い主にとっては、犬猫とはいえ家族同様の存在。亡くした傷みだけでなく、見殺しにしてしまった自責や罪悪感。しかし、家族・親戚など人間を亡くした人に比べれば「たかがペット」と言われかねない。・・・と、哀しみを溜め込むケースが多いようだ。もう1つは、発災後に被災地で起きたペットブーム。様々な喪失の痛手を抱えながら、義援金支給や(ペットの飼える)仮設住宅への入居で、金銭的にも環境的にもペットを飼える状況になり、一時はペットショップが大繁盛したそうだ。しかし、痛手により世話するメンタル余裕のなかった人も、そして(ペットの飼えない)復興住宅に移ることで手放さざるを得ない人も・・・。と、ペットに関して2つの問題が起きているようだ。どちらも、言われればなるほどという内容で、報道されていないと思いもしないものだなあ。犬猫保護のテーマに関しては、正直良く分からない。石巻の動物保護グループが取り上げられていた。猫エイズで白血病の猫を保護して面倒を見るとか、確かに美談。しかし、そんな活動にはキリがない。そして石巻なら、シーズンによっては水揚げしてトラックで運搬する魚が道に落ちてピチピチはねているのを、人間が拾って夕ごはんにされるお土地柄。猫もエサには困らないだろうに。そのグループ代表は、保護した犬猫を飼うためにご自分の家を出て、別にアパートを借りているようで・・・。人間の自己満足むき出しエゴとしか感じられなかった。