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JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.02.17
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カテゴリ:国内旅行

次に国道134号線沿い横須賀市芦名にある浄楽寺を訪ねる。

寺伝によると、文治5年(1189)に源頼朝が父・源義朝の菩提を弔う為に創建された

(鎌倉にあった)勝長寿院が、建永元年(1206)の台風による堂宇破損を機に現在地に

移したとされると。鎌倉にあったときは大御堂などとも呼ばれ、現在でも地名として残っている。

また、和田義盛の七阿弥陀堂の内の一つとして建てられたという説もあるが、運慶仏から

発見された名さつの記載によると後者が有力であるとされると。

金剛山勝長寿院浄楽寺 本堂。

浄楽寺(浄土宗)は、1189年(文治5年)、鎌倉幕府初代侍所別当和田義盛が建立したと

伝えられている寺。

浄楽寺の阿弥陀三尊像・不動明王像・毘沙門天像は、運慶の真作であると。

浄楽寺永代供養墓。

「倶会一処(くえいっしょ)」 の文字が。

「倶会一処」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で

会(あ)う」という御文で、同じ阿弥陀様の浄土でまた共に会わせていただくという意味と。

浄楽寺収蔵庫。

運慶作 国指定重要文化財 仏像5体(阿弥陀三尊、毘沙門天、不動明王)が納められていると。

本堂裏の参道を進んだ境内墓地の正面には、日本近代郵便制度を整えた前島密の墓があった。

前島密(天保6年(1835年)〜大正8年(1919年))は日本の近代郵便制度の創設者の

一人であり、現在でも流通している最小額面の1円切手にその肖像画が残っているのである。

「郵便」や「切手」、「葉書」という名称を定めた人物と。

その功績から「郵便制度の父」と呼ばれていると。

晩年は浄楽寺の境内にあった別荘「如々山荘」で過ごし、ここで没したと。

それ故この地に前島密翁の墓所があるのだと。

常楽寺境内にある白山妙理大権現。

見事な石仏群の大仏塔。

年輪を刻んだ石仏群に思わず合掌。

次に訪れたのは「荒崎」。

荒崎は切り立った荒々しいリアス式海岸が続く景勝地。

60年近く前の小学校の遠足で訪ねて以来の訪問。 

荒崎の岩場の奥に富士山が。 

少しずつ山頂近くの雲の量が増えて来ていた。

このあたりの海岸の岩石は、数千万年前、まだ三浦半島が海底であったころに堆積した

黒くて硬い凝灰岩と、白くて軟らかい砂岩・泥岩の層により形成されていると。

またこの2種類の岩石の層は洗濯岩のような凸凹をした特殊な地形に。

これは、岩石の硬軟の差により起こる水や風などの外的な力による差別侵食ばかりでなく、

水分を吸収して膨張収縮しやすい砂岩・泥岩層が、水分を吸いにくい凝灰岩層との間で

長い年月をかけて変化してきたためなのだと。

荒崎公園の「どんどんびき」。

切り立った岩壁に囲まれた入江の奥に、こじんまりとした砂浜があり、引潮の際に

「ドンド~ン」と音が鳴ることから「どんどんびき」と名付けられたと。

「潮風の丘」には「かながわの景勝50選 荒崎」と刻まれた石が。

海中に突き出した小高いこの岩山は城山と呼ばれ、頂上にわずかの平地を残し周囲は

絶壁となっていた。

かつてここは、鎌倉幕府創設に貢献のあった三浦一党の荒次郎義澄の居城跡と。

また幕末のころには幕府の命により彦根藩が台場を築いた所でもあると。

この日は波が比較的穏やかであったが、荒れた日の迫力は凄そう。

それが「荒崎」 。

自然が創造した美しい岩場が続く荒崎海岸。

三浦半島屈指の景観といわれる海岸美が存分に楽しめたのであった。

長井にあるこの荒崎公園は、長井城・長井館・荒崎城などと呼称される云わば城跡を公園として

整備された場所。三浦大介義明の五男となる長井五郎義季の館が長井にあったことは

確かなようだが、ここ荒崎にある城跡は、義李の城山とは伝えておらず三浦荒次郎義澄の城と

伝えられていると。また、宝治合戦で三浦宗家が滅んだ後は、佐原光盛の居館跡となったと。

DSC03302_R.JPG

そして次に道に迷いながら何とか「和田義盛の碑」に到着。

源頼朝と共に「鎌倉」をつくった勇者、和田義盛本拠地跡

和田義盛旧里碑。

大正10年10月3日、三浦氏の末裔、三浦英太郎男爵が、和田義盛を偲んで建てた碑であると。

DSC03305_R.JPG

和田義盛の碑 説明板。

和田義盛旧里碑の横にあるのが「天王社」。

祭神は素盛鳴尊(すさのおのみこと)。

この日の往路の〆の探索場所は京急油壺マリンパーク。

活魚レストラン 潮彩 で遅い昼食。

天丼を注文。

茎ワカメも付いていた。 

魚より野菜中心の天ぷら。

レストラン内の水槽には鯵が泳いでいた。

タラバガニ??

昼食後は三浦義同の墓を訪ねる。

この日は月曜日であったが、油壺マリンパークの駐車場はガラガラ。

京急油壺マリンパークの正面。

ここも遠足以来、約60年ぶり。

京急油壺マリンパークの正面を右に進み山道を進むと三浦義同(三浦道寸)の墓に到着。

三浦義同(三浦道寸)は三浦氏の最後の当主。北条早雲に岡崎城、住吉城と攻め落とされ、

最後に新井城に籠城したが1516年7月11日に落城。 その時に、辞世の句を残したと。

「討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとの塊(つちくれ)」

約450年間三浦半島に勢力を振るった三浦氏はここに滅亡したのであったと。

三浦義同(三浦道寸)の墓を後にし、山道を下り岩場を散策。

胴網海水浴場の岩場からは富士山の姿が見えないので、起伏の激しい岩場を

足下に気をつけながら富士山の見える場所まで移動する。 

漸く富士山の見える場所に辿り着く。

富士山の姿を懸命に撮影する旅友Sさん。

腰の入れ方に歴史を感じさせるのであった。

岩場の波しぶきと富士山のコラボがターゲット? 

シーボニアマリーナ、シーボニアマンションが右手に見えた。

小網代(こあじろ)湾にある三浦半島で最大のヨットハーバー。

断崖は波の浸食で不思議な形に。

胴網海水浴場岩場で天然「岩ワカメ」を手で摘む。

漁業券が必要だったのでしょうか?すいません!!

自宅に戻り水洗いと根元の小石取り。

鮮やかな緑色に変身。軽く湯通しし、山葵醤油で。

少し硬かったですが・・・。これぞ「岩ワカメ」、岩場の荒波を常に浴びて

筋肉質になっていました。 

味噌汁でも楽しませていただきました。

             
              ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2018.02.18 00:01:21
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