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JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.06.14
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カテゴリ:海外旅行
バスでアク・サライ宮殿跡近くまで行き、バスを降り徒歩にて宮殿跡に向かう。
​​​歩道横の池には水は一切なし。​
​​


アクサライ宮殿跡近くの配置図。


​​
アク・サライ宮殿が見えて来た。
​​​​

​​
アクサライ宮殿はかつてのティムール朝の宮殿として知られている。
ティムールがサマルカンドを首都とした後、ククサライ (Kuksaray)
ブスタンサライ (Buston-saray) が建設された。
しかし、ティムールがこれらサマルカンドの宮殿に滞在することは滅多になく、
むしろサマルカンド以外の都市に建設された宮殿に滞在することを好んだ。
ティムールは自身の故郷であるケシュ (シャフリサブス) により大きな宮殿を建設することを
望んでいた。アクサライ宮殿の建設はマー・ワラー・アンナフルを制圧し実権を握った
1380年に始まった。
アクサライ宮殿は24年かけて建設されたが、この時点でティムールは死の直前であった。
宮殿は生活空間と公共の広場などを含む複数の中庭から成り立っている。
部屋には金の装飾が施され、宮殿の入口は色鮮やかなタイルで彩られている。
また、中庭は白い石版で舗装されている。
宮殿の大きな特徴として、絵のように美しい、滝を使用した池がある。池に使用されている水は
タフタカラチャ峠 (Takhtakaracha Pass) を通って引き込んだものであった。
300年前に破壊されたアクサライ宮殿の門は当時中央アジア最大であった。
​​


​​
残存しているアク・サライ宮殿の建築物は2つの塔のみとなっている。
宮殿の敷地面積は大きく、各々の中庭の大きさは縦が120-125m、横が240-250mとなっている。
残存している建築物の大きさから、建設当時の宮殿の高さは約70mと推定されていると。
​​

​​
巨大なティムール像を背中側からズームで。
​​

​​
塔の下には土産物の出店が並んでいた。
​​


「アク・サライ」は「白い宮殿」を意味しティムールの建築物の中でも最も雄大と
されており、2000年には「シャフリサブス歴史地区」として「世界遺産」に登録。
残念ながら現在は「アク・サライ宮殿」は崩壊し現存していない。
写真は「アク・サライ宮殿」の入口に建っている50m程の塔(現在は38m)。
​​

​​
今は失われた大アーチを見上げる。
上の方がオーバーハング気味に迫り出ていて、かつてアーチがあったことを実感。
絵付けタイルが多く見られる。下の方のタイルの剥がれた箇所に、六角形のタイルの痕跡が
並んでいる。焼成レンガを積み上げた壁面には、分厚く漆喰を塗って、そこに絵付けタイルを
貼り付けていたのだ。
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​​
斜めから。
​​

​​
右横から。
タイル装飾がよく残っていた。
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再び下から見上げる。
右側の上の方がオーバーハング気味に迫り出ていて、かつてアーチがあったことを再び実感。
​​屋上には2つのアーチを繋ぐような形でプールがあったのだと。
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かなりのブルータイルが剥がれ落ちていた。
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アーチ開始部の曲線が僅かに残っているのであった。
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見事なブルータイルをズームで。
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裏から。
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​​
ティムール像。
後ろにアク・サライ宮殿。
​​アク・サライ宮殿の跡地は現在は大きな公園になっていて、そこにはティムール像が立っていた。
このティムール像はティムール生誕660年という、なんか中途半端な年を記念して作られたそうで、
この像が立つ前には第二次世界大戦で亡くなった無名戦士の碑があったのだと。
​​

​​
珍しく水を湛えた池越しにティムール像を。
​​

​​
ティムール(133648 - 1405218日)は、中央アジアのモンゴル=テュルク系
軍事指導者で、ティムール朝の建国者(在位:1370410 - 1405218日)。
中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつての
モンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した。
しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ
(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていたと。
​​​​


​​
池越しにアク・サライ宮殿跡を。
​​

​​
シャフリサーブス(Shakhrisabz)駅近くの鉄道の踏切を渡る。
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​​
水量の少ない川を渡る。
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​​
平原の中を進む。
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道の両脇では放牧が。
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サマルカンド州からカシュカダリア州への境界手前にあったモニュメント。
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国道A378号線の道路は全区間アスファルト舗装が施され片側 2 車線往復 4 車線。
しかし至る場所で凹凸があり、その都度バスはブレーキを掛け、
またハンドルを切り穴を避けて進む。
道路沿いの集落。
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ウズベク語で「OʻZBEKISTON YOSHLAR ITTIFOQI 」の文字が山裾に。
ウズベキスタン青年連合」の意か?
​​​​

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多くの馬の放牧も。
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サマルカンドへ向かう右側に見えた山並み。
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モスクのファサードの如き建物も。
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サマルカンド市内に入るとグーリ・アミール廟が車窓から。
ウズベキスタンのサマルカンドにある、ティムール朝建国者のティムールおよびその家族の霊廟。

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ルハバッド廟。
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REGISUTAN通りとUMAROV通りの交差点の建物の壁に描かれた絵画。
​​


そしてサマルカンドの宿「ASIA SAMARKAND」へ到着。時間は17:20。
しばし部屋で休憩。このホテルの我々の部屋は幸運にもトリプルベッド。
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1時間ほど休憩後は夕食会場に再びバスで。














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レストラン入口では歌謡ショウが行われていた。
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そしてサマルカンドの夜景観賞に向かう。
レギスタン広場からライトアップを楽しむ。
レギスタンとは砂の広場を意味する。ティムール時代には大きな屋根のついたバザールであり、
3つのメドレセが完成したのはティムール時代から200年以上経過した1660年であったと。
コの字型の中央に建つのが「ティラカリ マドロサ」。
​​​​​​

​​
ティラカリとは『金箔を施された』という意味で、その名の通り礼拝所の内部は
金箔で覆われていると。
ただ単調に金箔で覆っているのではなく、金箔を使って美しい模様を描いているのだと。
建設時に5kg、修復するときには3kgもの金が使われたと。
​​

​​​​
向かって左側が「ウルグベク・マドロサ」。
​​レギスタン広場の西側にあるウルグベク・マドラサは、1420年ティムールの孫である
ウルグベクによってが建てられた。入口のアーチに描かれた青い星が美しいマドラサ。
マドラサとは神学校を意味し、当時は100名以上の学生が寄宿し、アラビア語や
数学や天文学などが教えられていたと。
​​

​​
この日は土曜日でもあり、多くの現地の若者の姿も。
長期夏休みも始まったばかりであると。
​​

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向かって右側が1636年建てられた「シェルドル・マドラサ」。
​​丸いドーム屋根には凹凸加工が。
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​​
そして徒歩にてホテルへ戻る。
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ホテルロビー内。
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​​
シャンデリアも見事。時間は21時過ぎ。
​​



                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2021.02.20 13:57:53
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