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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.05.02
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

昼食後も「静岡鉄道」沿いの旧東海道を西に進む。
「静岡鉄道」は静岡市中心部と清水区(旧・清水市)を結ぶこの路線と、静岡市清水区と
駿河区に跨る丘陵「日本平」山頂の「日本平ロープウェイ」を保有している会社。
かつては静岡市街地・清水市街地を走る路面電車、岡部町・藤枝市・吉田町・榛原町・相良町・
浜岡町・大東町・大須賀町・袋井市・森町(すべて廃線当時の自治体名)を結ぶ鉄道路線や、
観光用のリフトを保有していたが、いずれも昭和50年代初頭までにモータリゼーションなどの
事由で廃止、バス転換などしている。



現国道1号線に合流する手前で、旧東海道を離れ踏切を渡ると
右手に大きな東鳥居が現れた。
右手の社標には『静岡懸護國神社』と。



大きな東鳥居を潜り進む。



『平和の道標』
「ここは平和の杜です。このお社は護国神社といいます。
日本の平和と美しい山河や家族を護るために戦争で亡くなられた
静岡県出身の約七万六千人の方々を神様としてお祀りしてあります。
私達が豊かな生活ができるのは護国神社の神様のおかげです。
神様は仲良しの子供が大好きです。
「ありがとうございます」と感謝の心をもってお参りしましょう。」



『見取り図』。



そして拝殿前のニの鳥居。



『拝殿』。
靜岡縣護國神社の歴史は戦争と切り離せないもの。
日清・日露戦争、満州事変、大東亜戦争などにおける静岡県出身者やゆかりのある人の
戦没者を弔うため、明治32年、「共祭招魂社」として静岡市北番町に創建されました。
その後、昭和14年に「靜岡縣護國神社」と改称し、同17年に現在の柚木に移転。
終戦後は進駐軍の監視が厳しく(軍国主義的思想を排するため、)、
一時「静霊(シズタマ)神社」と改称する時代もあるなど、その歴史は多難に満ちた
ものであったと。



ズームで。
神紋は「丸に桜」である。
明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る静岡県出身の戦没者・殉死者7万6千余柱を祀る。



『拓魂碑』。
満洲国の崩壊により難民と化し、非命に斃れた(たおれた)人々を偲ふ(しのふ)。



『あゝ拓魂』
「民族の悲劇に散った満洲開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る
神域に拓魂の碑を立つ。

五族協和道義世界建設の理想のもとに永遠の平和を希がった君たちは、国家と運命を共にし
国策に殉じたのである。

かつて日本の生命線とまで叫ばれた赤い夕日の満洲に眠る君たちを憶うとき、雄図空しく
歴史の断層に斃れた非命に痛恨の涙はつきない。 

日本人としてこの前にぬかずくとき新たな民族の使命を感じ君たちの遺志を無にすることなく
自由と平和の道を拓くことを誓うものである。

開拓精神は創造発展の真髄、真理探究のである。君たちの永遠の生命を信じ冥福を祈る。」



従軍看護婦慰霊碑・『愛の灯』。
手前左には詩碑が
「捧従軍看護婦戦没者霊   大野恵造
 朔北僻南砲煙間  看護傷兵自亦散  殉国婦是万輪花  気魄凛凛似白梅」
詩意:
従軍看護婦は北方へ南方へと派遣され、大砲の弾幕の中で、傷ついた兵隊さんの救護に
かいがいしくあたった。しかし、その中で万輪の花が散るように、お国の為に多くの看護婦が
むなしく散っていった。その気力はりりしく強く、寒風に芽を吹き美しく花を咲かせる
白梅のようであった。」



『比島派遣 鎮魂』。
比島派遣 獨立歩兵第164大隊 元獨立守備歩兵第32大隊の英霊を偲ぶ・



『ノモンハン事件慰霊碑』
モンハン事件に従事した慰霊のために建立された。



「此の碑はノモンハン事件に従軍して散華した戦友の慰霊のために建立したものである。
ノモンハン事件は昭和十四年五月中旬、旧満州国興安北省ハイラル南ぷノモンハンにおける
ソ蒙軍の越境に端を発し、紛争が拡大して平原の砂丘を血に染め日満・ソ蒙両軍が激しい砲火を
交えた日本戦史に特筆される事件である。直接戦闘に参加した部隊はハイラルに駐屯の
第二十三師団隷下の将兵であった。この戦闘は関東軍の作戦予測に反しソ蒙軍の近代兵器を
投入しての猛攻を受け、寡兵肉弾をもってこれに応戦し悪戦苦闘の連続であった。
特にノロ高地における凄惨苛烈な死闘は後日の戦訓となるほどであた。同年九月十六日
停戦協定が成立したが、この間実に一万一千百二十四名の犠牲者を出したことは痛恨未だ
極まりないものがある。
ここに幾度かの死線を乗り越えてきた静岡県の生存者を中心に、広く関係者の賛同を得て
宿願を達成することが出来関係者一同の感激もまた大である。願わくは一身を顧みず
祖国防衛の大任を全うし殉国散華された将兵の崇高な精神と武勲を後世に伝え以って
平和への祈願としたい。
幾久しい悲願実りてこの聖地  今ここに立つノモンハンの碑」



『鎮の碑:満州第574部隊』。
満州第574部隊 昭和19年グアム島に転進、玉砕した英霊を偲ぶ。



「大東亜戦争熾烈なる昭和十九年二月十九日元満州遼陽に駐屯せる我が満州第五七四部隊
(静岡県出身者)は風雲急を告げる南方諸島の大宮島(グアム等)に転進しましたが、
同年七月二十一日連隊長末永大佐以下で最後の突撃を敢行遂に玉砕しました。
又、各地に転戦して護国の礎となられた幾多の戦友の霊、永しえに安かれと、
ここに慰霊碑を建立し、此の貴い武勲を永く後世に伝えるものであります。」



『内匠部隊之碑』
内匠部隊長以下738名及び中部第36部隊英霊千数百名を偲ぶ。



「昭和十七年三月二十日内匠部隊長以下七百三十八名中部第三十六部隊にて編成、
三月二十日宇品港出港、バターン半島に直行攻撃参加、四月二十一日ミンダナオ島に転進、
八月よりコタバト州警備戡定作戦参加、十二月二十日第三より充足
更に一八、一九年現役兵入隊在留邦人現地入隊等最大兵力千八百名となる。
十九年九月部隊は米機約七十機によりコタバト地区で爆撃さる。敵機を撃墜し師団長より
感状を受く。以後サルナヤン、ミラヤ地区に転進、二十年四月一七日、米八軍コタバト地区に
上陸、部隊はこれを迎撃奮戦し壊滅す。英霊千数百名ここに祀る。
*由来
終戦三十年余を経た現在ミンダナオ島コタバト地区は、遺骨収集に対し厚生省の認可を
得られず有志により再度の収集にて二十数体を収集したのみ。
月日を経過するに従い地形の変化と風化により益々困難となる為、コタバト平和の塔の
分骨をし茲に建立す」



帰路は表参道を進む。
『手水舎』。



再び拝殿を振り返る。
日本国旗がはためいていた。



太鼓橋を渡り振り返る。



石灯籠が並ぶ。



『工學士 市川紀元二銅像』。
明治期の陸軍中尉 日露戦争で戦死した最初の学徒出身兵。



東京大学の校内にも抜刀姿の銅像が建てられたが、第二次世界大戦後、
静岡護国神社境内に移されたのだと。



『西村直己先生顕彰像』
1949年の衆議院議員選挙に静岡1区(中選挙区)から出馬し初当選。
連続10回当選。1960年第2次池田内閣の防衛庁長官として初入閣。



一の鳥居。



静岡鉄道の踏切を渡り柚木交差点へ向かう。



現国道1号線・柚木交差点。



東海道新幹線、JR東海道線の地下通路を進む。



右手に折れ再び旧東海道を進む。
『曲金(まがりかね)』道標。



左手奥に『法蔵寺』が。



山門、本堂をズームで。



池田街道を進むと前方に高架のJR東海道線、新幹線が前方に。



線路のガード下をくぐる。



春日一丁目の交差点で現国道1号線と合流し、更に直進し伝馬町通りを目指す。



歩道橋の反対側の階段下には『府中宿 東見附』の道標があった。
写真の端に西見附まで3600mとの案内が見える。



『府中宿』
「横田町は駿府でも古い地名のひとつで、横田の名は平安中期の書物にも登場しています。
江戸時代、府中宿は、上伝馬町、下伝馬町にそれぞれ本陣、脇本陣が設けられ、問屋場、
旅籠が四十三軒もある東海道最大規模の宿場でした。
伝馬町から呉服町、札場のある札の辻の七間町、新通り川越町の西見附まで二十七の町で
構成されており、ここ横田町には、駿府城町に入るための東の入口である 『 東見附 』 が
置かれていました。
徳川家康公は、1607年に大御所として駿府 ( 府中 ) に入られ、天下泰平の基礎を、
亡くなるまでの九年間、この地で固めたのです。」



府中宿に入ると徳川家康が整備したといわれる、​​駿府九十六ヶ町​​⬅リンク の町名の
由来を記した町名碑が旧街道脇に続いていた。



『下横田町』(上の地図で1の場所)



「駿府九十六ヶ町のうち 下横田町(しもよこたまち) 
平安時代に編まれた『延喜式(えんぎしき)』には東海道の駅の一つに「横田」の名が
記されています。古代の「横田」の位置に関してはいくつかの説がありますが、
この記録から横田周辺が古来より東西を結ぶ要衝であったことがわかります。
また、同じく平安時代に編まれた『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には
安倍郡の八郷の中に「横太」と記載されています。 
江戸時代に入ると駿府九十六ケ町の一つに数えられます。上・下横田町のうち下横田町は
府中宿の東の入口にあたり、東境には「見付(みつけ)」がありました。
『駿国雑誌(すんこくざっし)』によれば横田見付は、元禄五年(一六九二)に設置され、
道をはさんで両側に桝形の石垣が築かれていました。
また、元禄五年の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の下横田町の家数は四十七軒、
人数は二百十四人でした。 
昭和二十年に上横田町、院内町(いんないちょう)、下横田町(猿屋町(さるやちょう)は
大正四年に下横田町へ編入)がそれぞれ横田町一、二、三丁目となり、その後住居表示の
実施により横田町となって現在に至ります。」



民家の部屋の一部?に『延命地蔵尊』が。



伝馬通りに面する酒屋『静浜屋』。



店の上には大きな生ビールジョッキーを持つお兄さんの姿が。



人の数の少ない伝馬町通りを進む。



『西宮神社』が右手奥に。



奥にあった社殿。



更に伝馬通りを進む。



正面にY字路が。



所々に設置してある旧町名表示。
2・『鋳物師町』というモニュメントが。
道の向こう側には久能山東照宮道という標識も。



「鋳物師町
東海道府中宿の一画に位置し、町名は江戸時代のはじめに鋳物師が住んでいたことに
由来します。「鋳物師町(いもじちょう、いものしちょう)の名は今はなく、
現在は伝馬町・横田一丁目日出町に分かれています。」



この途中で、カラフルなマンホール蓋を発見。
静岡市の花「タチアオイ」を描いたカラーマンホール蓋。
デザインは旧市のものと同じで、中央の市章を新市章に変えたものであると。



漫画家の故さくらももこ氏が寄贈した「ちびまる子」デザインのカラーマンホール蓋。
富士山と駿河湾と魚を背景に、ピンク色でコーディネートしたよそ行き風の「ちびまる子」が
微笑んでいる。空には「静岡市」の文字も。





                             ​その8​に戻る

                  ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2020.04.28 14:58:51
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Re:旧東海道を歩く(興津~安倍川)その9:葵区・静岡懸護國神社~鋳物師町(05/02)   オジン0523 さん
私より先に出ましたね。
色付きのマンホール私は見落としました。
どちらも新しいものですネ。
ここは明日アップですので私のブログにコピペさせていただきます (2019.05.02 08:45:35)


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