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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.05.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

​更に石畳の上り坂を進む。



前方に赤い幟が並んだ場所が現れた。



ここが『すべらず地蔵尊』。



長寿・『すべらず地蔵尊』
「このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたもの。
すべらず地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、
何事も願いが叶うということからきています。」



長寿・すべらず地蔵尊『六角堂・鞘堂』。



格子の間にレンズを入れて長寿・すべらず地蔵尊を。
双体の地蔵様。
「2体が寄り添う地蔵は「1体は旅人、もう1体は家族」を表し、愛・思いやり・信頼の
シンボルとして道行くみなさんに可愛がってもらえるようにという想いで作られました。
安全に・滑らず・転ばず・着実に進めるように、ということから健康長寿や家内安全、
商売繁盛等に参拝される人が多いのだと。



多くの「すべらずに合格」祈願の絵馬が。



小さなお地蔵様も。



すべらない?石畳が更に続く。



石畳の脇には『シャガ』の花が。



そして石畳の坂を一旦登り終えると、そこには様々な案内板が。



これから先には『諏訪原城跡(すわばらじょうあと)』、『小夜の中山(さよのなかやま)』が。
『火剣山(ひつるぎさん)』は、静岡県菊川市と島田市との境にある菊川市の最高峰標高
282.6mの山である。
菊川市火剣山キャンプ場や徳川家康が諏訪原城攻めの際に築いた砦・火剣山砦址があると。
山頂の展望台からは、眼下に大茶園、南に遠州灘、西は浜松市街、北は南アルプス支脈
粟ヶ岳東に牧之原台地と眺めることができると。



こちらは江戸に向かう旅人用の『すべらず地蔵尊 入口』道標。



『「東海道」金谷坂の石畳』がこちらにも。
「この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある
金谷峠の坂道を旅人たちが歩き易いように山石を敷き並べたものであると言われています。
近年、僅か30メートルを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、
平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430メートルが
復元されました。
いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道・
十曲峠の三個所だけとなりました。」



『明治天皇御駐輦阯(ごちゅうれんあと)』
明治天皇休憩所跡の碑は今までも何ヶ所もあったが、この「輦(れん)」の字を使っていたのは
初めてか?。いやこの「輦(れん)」の字は初めて見ました。
「​​」👈リンク とは力者が肩に舁(か)く神輿の様なもの。
明治天皇遷都行幸の際、行列を停めて富士の眺めをご堪能された地なのだと。



大きな水道水の配水タンクの前には『芭蕉句碑』が。



『馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟(けぶり)』(野ざらし紀行より)。
これは芭蕉41歳のときの句で「金谷宿を夜明け前に発って 馬上で夢うつつの状態のとき、
中山峠にさしかかる辺りから 茶の香りがしてきて ハッ!と目が覚めた」と。
松尾芭蕉は江戸時代の人間なので、この金谷坂の石畳は馬に乗って通る事ができた事になる。



その先、左手にも小さな祠が。



祠から引き返し、『諏訪原城跡(すわばらじょうあと)』方面に向かう。



御駐輦阯(ごちゅうれんあと)の碑の先から、牧の原大茶園が始まった。
この茶園を明治維新に徳川の旗本や川越人足達が開墾した場所であると。
茶葉に霜の被害が及ぶことを防ぐ目的で設置される多くの送風機・
防霜ファン(ぼうそうファン)が立ち並んでいた。
その外観から、農作物を冷やすために使われると思われがちであるが、冷え込む地表付近に
対して上空数mの比較的温かい空気を送り込むことで地表面の温度を上げ、霜の被害を
防ぐために使用されるのだと。
特に春先、新芽が芽吹く時期の作物は霜の害を受けやすいため、防霜ファンはよく使用されると。
コントローラーは、温度センサー、タイマー、強制駆動スイッチの3つを備えているものが多く、
気温が設定温度を下回った場合や、あらかじめ指定した時刻になった場合、その他任意の
タイミングでファンを駆動させることができるのだと、後に出会った茶園栽培のオバチャンから。



『諏訪原城跡 入口』の細い脇道?に入る。



民家の間の砂利道。



そして正面に深い大掛かりな『空堀』が姿を現した。
武田流の「三日月堀」なのであった。



『二の曲輪南馬出(うまだし) 50m』の案内板。
馬出は、城の出入り口である虎口(こぐち)を守る小さな曲輪を意味し、城兵の出入りを
安全に行う施設。 堀で四方を囲み、土塁は敵兵に面する箇所に設置されているのだと。



石鳥居が正面に。



正面にあるのが『諏訪神社』。



『諏訪原城跡』
「諏訪原城は天正元年(一五七三)武田勝頼の臣馬場美濃守氏勝を築城奉行として築かれた
規模雄大は山城であり、 当時の東海道武田領の最前線牧之原台地の東北角を占めた
天然の要害であった。 遺構は、本丸・二の丸・三の丸・大手郭・帯郭・西の丸・搦手・
亀甲曲輪の八郭から成る特徴のある縄張りにより配置形態のうえから「扇城」とも呼ばれた。
自然掘と人工の大小掘が十三本あり、いずれも深くて急斜面を呈しているが、石垣は
用いられていない。 武田氏の守護神である諏訪明神を城内の一角に祭ったことから、
諏訪原城と呼ばれるが、史料には、城の変遷を示す牧野(原)城・金谷城・扇城という
呼称が見られる。」



『諏訪原城の縄張図』。
本丸から同心円状に曲輪と空堀を巡らせているが、この「丸い縄張り」こそが武田流と。


               【https://shirobito.jp/article/584】より

『諏訪神社』の社殿。
「安産祈願 男の子は鎌、女の子は赤い糸」と。



空堀の深さ、大きさに驚く。この様な城跡が現存していたとは。



空堀が更に続く。



順路に従い、『二の曲輪』、『本曲輪』方面に進む。



『大手曲輪』。



空堀の深さ、大きさが理解できた。



『大手北外堀』。



この南北外堀の間が大手曲輪。



『大手北外堀』。
静岡県において現在発掘が進められている、興国寺城とこの諏訪原城は、武田氏
(興国寺城の場合は北条氏も含む)が静岡県下で活躍した段階と、徳川氏が活躍した段階とで、
大きく城の造りが異なっている(具体的には、堀や土塁の大規模化)ことを私たちに示して
くれるのではないかと。



真新しい『史跡 諏訪原城跡』石碑。



『ニの曲輪北馬出』。



『ニの曲輪北馬出』説明文。



二の曲輪北馬出には真新しい門があり、「薬医門」と呼ばれていると。
薬医門を訪れた際には、扉を閉めてみましょうと。
左右の扉を閉めると3cmほどの隙間ができるのだと。この隙間こそ重要で、例えば槍を持った
敵兵が扉に迫った時、扉を閉めたくても槍で邪魔をされて、扉を完全に閉められなくなると。
しかし、扉の間に槍が入るほどの隙間があれば、槍を向けられても閉扉し、閂を差すことが
できるのだと。これぞリアルな戦国の知恵!!。



断崖上に位置する二の曲輪北馬出からの眺めは、大井川をはじめ、島田市や藤枝市の市街地が
広がるのであった。諏訪原城は、大井川と牧ノ原台地の断崖を背にした位置に築かれている。
この牧ノ原台地は、幕末に徳川家の旧藩士たちが茶畑を開墾したことにより、お茶の産地に。
大井川方面の絶景、この日は富士山の姿の下に新東名高速の高架橋が。



ズームして。



渡って来た『大井川橋』の姿も。



「薬医門」前から見た外堀付近。



                              ​その1​ に戻る

                  ・・・​つづく​・・・​






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Last updated  2020.05.01 11:48:34
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