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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.05.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

七ッ森神社を後にし、旧東海道を進むと直ぐ左手にあったのが
『双筆五十三次 袋井』の浮世絵が。
「双筆東海道五十三次 袋井」は、歌川国貞が人物を描き、歌川広重が風景を描くという、
当時浮世絵界の大御所と言われた2人の合作の東海道五十三次です。
ここ袋井市の道のいたるところに、東海道五十三次のポスターなどが貼られており、
街道の風情や佇まいに思いを馳せることが出来るのであった。



「初代歌川広重が得意としていた低視線の風景画を背景に、三代歌川豊国が巡礼に向かう
母子を描いています。 二人とも抜け参りなのでしょうか、旅の途中、金品を無心する
柄杓を持ち、母親は菅笠に 「同行二人」 「繁栄村」 墨書し、 着物の上にうわっぱりを
着て 「(西国)三拾三番巡禮」 と記されたおいずいを羽おっています。
東海道は、武士や商人、役人、僧侶のほか、伊勢参りをはじめ多くの巡礼者の
通る道でもありました。」



江戸幕府が整備させたと言われる松並木の一本道は、広大な田園風景とともに
当時の面影を残していた。



『東海道松並木』。
初代歌川広重作山田屋版「行書東海道五十三次之内 袋井」
「主要な街道の両側に並木を植えることは古代より行われ、天平宝字3年(759)に
諸国の駅路に果樹を植えたのが始まりとされています。 「信長公記」 には
天正3年(1576)に織田信長が「路辺の左右に松と柳植え置く」 と記され、 
慶長9年(1604)には徳川秀忠が 「諸国街道一里毎に候塚を築かしめられ、街道の左右に
松を植しめらる」 と、一里塚と一緒に松並木を整備したことが 「徳川実紀」 に記されています。
江戸時代を通して旅人を日差しや風から守っていた並木も、明治維新以後その数を
減らしてしまいましたが、現在地より東側には松並木が良く残り、 江戸時代の面影を
今に伝えています。また、現在地の西側の道は真言宗の古刹油山寺へと至る油山道と
呼ばれる道です。 入口には文政11年(1828)に再建された油山寺道標と火防の神として
信仰のある三尺坊が祀られている可睡斎への道標が建てられています。」



『山田屋版 行書東海道五十三次之内 袋井』



その横に『従是油山道』。
文政11年(1828)の油山寺道標。



松並木は一旦途切れたが再び前方に。



『是より可睡三尺坊道』
これは曹洞宗の寺院 「可睡斎」 への道標である。
応永年間(1394~1428)道元の法孫・如仲天誾和尚が草庵を結び、後東陽軒と
称したのが可睡斎の始まりで、江戸時代、徳川家康の帰依を得て、
駿河・遠江・伊豆・三河4ヶ国の僧録司の職を与えられ、寺号を可睡斎と改めた。」



『東新屋』道標。



新屋交差点手前で旧東海道は県道413号線に合流。



道路の中央分離帯にあったのが『西新屋』の道標。



新屋の交差点を左折すると直ぐ右手に『旧東海道』の案内板が。
この様な案内が旧東海道沿いに充実することを願うのであった。



そして丁寧に『新屋 旧東海道マップ』が設置されていた。
袋井市の施策に歩き人として評価と感謝をするのであった。



案内に沿って進むと右手に立派な祠が現れた。



『新屋の秋葉山常夜燈』。



「新屋の秋葉山常夜燈
火伏の神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代に盛んになりなした。
秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が
多くな りました。袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。
常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、
その地区の人々が火伏の神への信仰から建てられたものもあ りました。
市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計で十四基現存しています。
新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況のたいへん良い
常夜灯です。かつては、東海道を行き来する旅人のよい目印となったことでしょう。」



正面から。



祠の屋根の下の彫刻も見事。



横から。
全周に渡り透かし彫りの彫刻が見事に。



その奥にも小さな祠が。



そして旧東海道は袋井市役所前を通過する道路に合流しここを左折。



『市役所南』道標。



再び袋井市役所南交差点を右折。



広岡排水路沿いの桜も満開となっていた。



既に花筏も。



『袋井宿と天橋』。

「袋井宿 は元和ニ(一六一六)年に設置されました。いわゆる東海道五十三次でいえば
品川宿から数えてニ七番目の宿駅にあたります。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口に
かかっていた土橋です。天保一四(一八四三)年の調査によれば、宿内の街並みは
西端の中川まで五町一五間人口は八四三人、家数は本陣三軒・旅籠屋の五〇軒を含め
一九五軒でした。」



この石碑は、「阿麻はし」??



『これより袋井宿』
昔の道標のイメージした新しい道標。



『東海道どまん中茶屋』。
東海道五十三次のどまん中・袋井宿をアピールし、初代広重の描いた「袋井出茶屋之図」を
モチーフに建てられ観光案内所。



袋井市観光協会が運営する店であろう。
正面から。



茶屋は小さいが、暖房が効いてとても暖かい、いやこの日には暖かすぎたか?
ボランティアのオバチャンがお茶を入れてくれたので、話しながらしばしの休憩。
ここには、食事提供の機能はなく、頂いたお茶を楽しみながら、持っていたオニギリと
旅友からもらったバナナを楽しんだのであった。



茶屋の前の小さな広場。



『袋井 出茶屋ノ図』
私が映ってしまっていた。



こちらが広重の浮世絵。



大きな木からヤカンがぶら下がり、お茶屋のオバチャンが、火の面倒を見ている。
その横では旅人?がこの地域で盛んだっというタバコ栽培からの刻みタバコを
煙管で火を付けようとしている姿であるとボランティアのオバチャンから。



『袋井宿』道標。



『食処 坂口屋』と書かれた木札が掲げられていたが、店は長い間閉店中であると
これもオバチャンから。



そして再び旧東海道を歩く。



右手に『秋葉山 常夜燈』。



『白髭神社(しらひげじんじゃ)』社標。



白髭神社の鳥居。



道路を渡ると白髭神社境内へ。



本堂。祭神は猿田毘古神(さるたびこのかみ)。
五穀豊穣を祝い、無病息災を願い行われる大祭・袋井祭りでが、白髭神社を始め、
十二所神社、七ツ森神社、赤尾渋垂郡辺神社の四社の例祭として行われると。



旧東海道まで戻り、次の細道入口に埋め込まれていた『秋葉線軌道跡』。
帰宅して調べてみると、静岡鉄道の路面電車跡。
袋井駅から北上して遠州森駅まで通っていたのだと。
開業は明治35年で、当時はお茶や野菜を袋井まで運ぶ馬車鉄道であったと。
その後景気が良くなり電車になり、太平洋戦争の頃は町の人が農家へ買出しに行く
電車になって、客が屋根の上にも乗るほど賑わったのだと。
しかし車社会になって昭和37年に廃止になってバス路線に代わってしまったのだと。



そしてその先にあったのが『袋井宿東本陣(田代壱番御本陣)跡』



『本陣跡の門』。



正面から。



「袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ、
「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。

 1、宿内惣家数 195軒
   内
   本陣 凡建坪290坪半 門構・玄関附 字新町 1軒
      凡建坪219坪  門構・玄関附 字本町 1軒
      凡建坪168坪半 門構・玄関附  同  1軒
三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられました。三本陣のうち東本陣は
「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。
田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行った問屋場の
最高責任者である問屋も勤めています。

本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられて
いたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、
間口13間半、奥行き31間もあり、その規模の大きさがうかがわれます。」



『​東海道の本陣​』⬅リンク が細かく説明されていた。
興味のある方はリンクをご参照ください。



『袋井宿東本陣 建物の一部』。



この場所は平成3年度に発掘調査が行われ、建物の一部が発見されました。
現存する本陣絵図で本陣の最も東側の建物です。

発掘では火災の跡も発見され、何度も建て直されていると考えられます。
この建物は、俗にいう「ウナギの寝床」のように南北に奥行きのある建物で、
本陣家(田代家)の生活の場であったと考えられます。

南側の街道に面した所は土間で、8畳が3間続き、南側2間には天井がなかったと絵図は
記しています。その北側は坪庭をはさんで4畳と8畳、湯殿などが接続していました。




『本陣絵図 解説図』。
袋井宿には3つの本陣があってそれぞれ、東本陣・中本陣・西本陣と呼ばれていた。
東本陣は壱番御本陣とも呼ばれ、代々田代さんが営んでいた。
建坪は288坪もあったが、その後、郵便局となり、それも無くなり今は門のみ復元。
なるほど『ウナギの寝床』。



そして次に直ぐ先、左手にあった『袋井宿場公園』に。
公園に隣接する建物の壁にも袋井宿の絵が。



『此処はどまん中袋井宿』案内図。

「遠州山名郡袋井宿
掛川宿へ二里16町(約9.7キロ)
見付宿へ1里半(約6キロ)
当所うなぎすっぽん名物

袋井宿の名は、すでに弘安の頃(1278~88年)に書かれた「遺塵和歌集」の長唄の一節に見ることができます。江戸時代の袋井宿は、徳川家康公により東海道の宿駅制度が定められてから15年後の元和2年(1616年)八月四日に開設されました。江戸日本橋から数えても京都三条大橋から数えても27番目、東海道五十三次のちょうど「どまん中」の宿です。」



『北斎漫画と末広五十三次』。



「北斎漫画
絵手本としての「北斎漫画 袋井」には、石積みのある土塁の間を進む二人の旅人が
描かれています。水害にみまわれることの多かった袋井宿は、こうした土塁(土手)に
囲まれていたのでしょう

末広五十三次
天橋を越え、東へ向かう大名行列の姿を描いています。
沿道には松並木、宿内から茅葺き屋根の家並みが続き、天橋は高欄付きの板橋です」



公園の裏にあった『旧中村洋装学院』をズームで。
原野谷川沿いに南北棟で建つ。木造二階建、切妻造桟瓦葺で、棟端のフィニアルに校章を表す。
外壁下見板張で妻にガラリを付け、軒天井を廻す。内部は上下階とも南半を広い一室の教室とし、
北半に和室・洋室を配する。戦後復興期の各種学校校舎の特徴を示す。



公園の見事な噴水。



ノズルの形状、水圧に元技術屋?として興味津々。



『歴史の道 東海道 袋井宿』
「袋井の宿が初めて歴史史料にあらわれるのは、約七〇〇年前につくられた「遺塵和歌集」の
次の一節です。
「・・・なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の・・・」
これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟に
ひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と懸川宿の間に記されていることから、
袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたものと思われます。
鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。特に戦国大名達に
とって、交通路と宿駅の整備はもっとも重要な課題の一つでした。
徳川家康は江戸に幕府を開く二年も前、慶長六(1601)年に、いわゆる
「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。
袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として、元和二(1616)年に
開かれました。「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて二十七番目、ちょうど
東海道の真ん中に位置しています。」


                         
                                 ​その5​ に戻る

                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2020.05.01 11:57:12
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Re:旧東海道を歩く(掛川~見付)その6:袋井市・旧街道国本~袋井宿場公園(05/26)   オジン0523 さん
写真59枚で、夢道標5コマ?
ただひたすら歩く駿河路、早く尾張へ行きたいんものですね (2019.05.26 12:37:39)


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