7288583 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Freepage List

Comments

Favorite Blog

白い花(小手毬、西… New! 隠居人はせじぃさん

春の東海道をゆくツ… New! オジン0523さん

【花々が一斉に咲き… Gママさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん
noahnoah研究所 noahnoahnoahさん

Headline News

Archives

Calendar

2019.06.13
XML

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

県道261号線(磐田細江線)の天竜川に架かる『天竜川橋』を磐田市側から見る。



この『天竜川橋』には歩道が無いため、更に上流に向かい歩き、国道1号線(浜松バイパス)
に架かる『新新天竜川橋』に向かう。



『新新天竜川橋』の歩道を歩き、天竜川を渡る。
天竜川に架かる橋としては、最下流から6番目の位置にある。
国道1号の新天竜川橋付近は近隣の地域でも屈指の渋滞ポイントであり、渋滞が慢性的に発生し、
問題となっていた。また、新天竜川橋には歩道(自転車歩行者道)が無かったため、天竜川を
横断するためには路側帯を通行するしかなく、非常に危険な状態であった。
この2点の解消を主な目的として、新天竜川橋の拡幅工事が1995年(平成7年)に開始された。
総事業費は約460億円。
1995年(平成7年)より、従来の片側2車線の計4車線道路から片側4車線の計8車線道路への
拡幅工事(新天拡幅)を行い、下り専用橋として供用を開始した。
橋長は912 m。



日本橋から249.2m地点を通過。
日本橋から京都・三条大橋までの旧東海道の距離は、いろいろな数字があるが、
126里6町1間(495.5km)の数字もあり(https://350ml.net/labo/tokaido/kyori.html​)
495.2/2=249.75kmであり、この先550mが中間点。






隣の『天竜川橋』の手前側の磐田市部分は塗装更新済みであるが、浜松市側は未だであり
白への変色が目立つのであった。
そして橋上で浜松市東区中野町に入る。



原付は『流出して下さい』の表示に違和感あり。
天竜川に架かる橋の上の表現としては気になったのであった。



そして中間地点を通過し『250km』地点に到達。
ようやく旧東海道の前半線を制覇し、後半戦に入ったが、しかし未だに静岡県を
脱出できないのであった。



『新新天竜川橋』をほぼ渡り終わり、道路下にある小さな公園への階段を降りる。



『東海道案内板』。



『「東海道」江戸と京のどまんなか 浜松市東区中野町マップ』。
堤防の下の道を進むと、六所神社、旧東海道 船橋 木橋跡に行けるとの案内が。



『天竜川橋』の浜松市側からの入口を見る。



そして、中野町マップに従い、堤防の下の砂利道を進む。



暫く進むと左手に堤防上の道・県道314号線に上がる階段があり、ここから六所神社の
境内裏側に入れたのであった。
県道314号線沿いにあった大きな石碑を見上げる。



『六所神社(ろくしょじんじゃ)』の境内に入り、鳥居の外にいったん出て六所神社を撮影。



『六所神社』社殿。
三柱の海神と三柱の航海の守り神の六柱の神様が祭神として祀られている。



神社名 六所神社
鎮座地 浜松市天竜区春野町領家327
御祭神 天兒屋根命 大日靈貴命 譽田別命
    中筒男命  大山袛命  武甕槌命
御由緒 伝え云ふ 建治二年八月十八日尾張国中野郷より 勧請すと御朱印五石七斗拝領す
    境内はもと寺裏にありしを明治七年遷座す その折当地に鎮座せし島津神社と北裏に
    遷座せし上下神社を合祀
    大正十二年六月二十七日 賀陽宮恒憲王殿下御参拝あり
    第六十回伊勢神宮式年遷都に伴ひ 御正殿の古材を使いまして昭和五十年十一月
    社殿他皆改築す。



そして再び鳥居をくぐり境内の外に出ると、左手の階段横にあったのが
『船橋 木橋 跡』。



「江戸時代の天竜川には江戸防衛の理由から橋が架けられていませんでした。
東海道の蓬莱は、この上流にある「池田の渡し」の渡船で行われていました。
明治元年、天皇御東幸の際には、舟を並べ、板を敷いた仮設の舟橋が2日間だけ架けられました。
その後同7年には本流の舟橋と(中)州の木橋からなる最初の橋がこの場所に完成し、
街道の往来は格段に便利になりました。
しかし舟橋は洪水により度々流されたので同9年に完全な木橋に架け替えられました。
この「天竜橋」は昭和8年に現在の鉄橋ができるまで使用されました。」



往時の『天竜橋』の写真。
この後屋敷を訪ねた金原明善が明治11年3月に完成したのが
幅3.6m、長さ約1160mの木橋「天竜橋」
昭和初期の天竜橋と後方天龍川橋(天竜川文庫所蔵)。



堤防上を走る県道314号線からかっての『天竜橋』があった方向の天竜川を見る。



川面に面する場所に、何か柱と案内板が写っていたのでネットで調べてみると
下の写真の如き『量水標』であったようだ。
『量水標』とは川の水位を目で観測するための装置とのこと。



『水天宮寄付』と刻まれた石碑。



『船橋之碑』



『明治大帝玉座跡』碑。
中野町六所神社北側天竜川堤防沿いに「玉座迹」と記された碑と「明治大帝御聖蹟」の
石柱が建っていた。
明治天皇が北陸東海地方の巡幸の中で、明治11年11月1日に天竜川堤防修築のため
設立された「治河協力社」の建物内で休憩した。
その際、天竜川の治水に尽力した功を賞して金原明善夫妻に拝謁を賜り、紅白縮緬を下賜された。
建物は明治25年に焼失したが、明治31年、建物跡前面に「玉座迹」が建碑された。
また、明治天皇巡幸の地として「明治大帝御聖蹟」が昭和3年に建てられた。



『明治天皇玉座迹の碑』
史跡  明治天皇 中野町御休所跡
所在地 浜松市東区中野町
説明   明治十一年、北陸東海巡幸の際十一月一日、当所でご休憩された。
             御座所は金原明善の設立に係る治河協力社の建物内で明善夫妻を御謁見された
             当時の建物は明治二十五年十月消失し建物跡の前面に玉座
迹の碑を建立した。」



『明治天皇玉座迹の碑』前から天竜川下流を見る。
遠くに東海道本線の鉄橋が見えた。



『天竜川木橋跡』、『舟橋跡』の2本の標柱があった。
対岸の豊田町(現磐田市)側に『天竜川橋跡碑』があったが、実際に木橋があった場所が
ここということになる。



『金刀比羅神 水天宮』石碑。
水運の安全を守る「金刀比羅神」と暴れ天竜川を恐れての水難除けの「水天宮」の石碑



『賀陽宮(かやのみや)殿下参拝祈念』碑。
賀陽宮は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子邦憲王が、父宮がかつて称していた宮号を
受け継いで、新しく創設した宮家である。



六所神社の前のT字路には様々な石碑、案内板が。



「六所神社」下にある「旧東海道」説明板。
「ここ中野町は、東海道のちょうどまん中であることからその名前がついたと伝えられています。
十返舎一九の東海道中膝栗毛にも、「舟よりあがりて建場の町にいたる。 此処は江戸へも六十里、
京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」と記されています。
この辺りは、川越しの旅人や商いをする人、天竜川をなりわりの場とする人々で活気が
あふれていました。」



『中ノ町道路元標』。
足元にある標石は「道路元標」と呼ばれ、市町村の起終点を示したもの。
大正九年施行の旧道路法により、各市町村に一箇所の設置が定められた。
ここにある「中ノ町道路元標」は中ノ町村の起点を示すもので、 当時の規格に忠実に作らている。
市町村の数と同じ1万2244基が設置されたが、全国に現存するものは1600基ほどと
言われ、静岡県内ではおそらく唯一の、たいへん貴重なものであると。



『旧東海道』。



六所神社を背にして、真っ直ぐ延びる旧東海道を西に向かう。



右手空き地に案内板が。



『中野町銀行 跡』。
「中野町は、江戸時代には東海道筋の川越しの集落として、多くの旅人たちで賑わいました。
また、明治から大正時代には、天竜川の船運を利用した木材や鉱石の流通基地として
隆盛を極めました。
明治15年、この場所で「竜西社」が結成され2年後に「中野町銀行」が誕生した。
その後、西遠銀行と合併し、遠州銀行を経て、今の静岡銀行に吸収された。昭和49年まで
建物があり、現在は地面に埋もれたレンガに、かすかに当時の面影を見ることができます」



同じく右手にに大きな『天竜川橋紀功碑』が。



『天竜川橋紀功碑』
「天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平の業績を刻んだ石碑である。
浅野茂平は、明治元年の明治天皇東行に際して天竜川に舟橋を架けて安全な渡河に
功績を残したほか、明治7年には舟橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の活性化に
大きく貢献した。その功績は今も語り継がれている。石碑は明治27年に建てられた。」



『中町(なかちょう)通り』と書かれた木柱と『伊豆石の蔵』案内板。



『伊豆石の蔵』。



「この蔵は、明治時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で造られた蔵です。
江戸時代より、天竜川流域は船運を利用した交易で、伊豆や江戸と繋がっていました。
伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われました。これらの建造物は、
掛塚をはじめ天竜川筋のまちや、浜松市内にも数多く残っており、当時の交易や繁栄の
名残を今に伝えています。
この蔵の壁の石は流れるような縞模様や海を思わせる緑が美しく、数ある伊豆石の蔵の中でも
大変秀逸で貴重なものです。」



『東橋』と書かれた木柱のある信号のない交差点。



『東橋(ひがしばし)』。



『東橋跡』
「かつてここを流れる小川には、土橋が架かっていました。 中野町村では一番東の橋であり、
東海道を往来する旅人は、皆この橋を渡りました。
明治後期から、中野町は天竜川の船運による木材の集積地として栄えました。 堤防沿いには
19軒の製材所が建ち、ここから東の横町に至る通りには、旅館・芸者置屋・小料理屋・
洋食屋・玉突き・カフェーなどの店が軒を連ねていました。
この東橋が、中野町繁華街への入り口でもあったわけです」



                              ​その5​  に戻る。

                   ・・・​​つづく​・・・






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.05.01 12:18:11
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.