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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.06.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

旧東海道・国道257号線を浜名湖方面にすすむ。
浜松市若林町歩道橋の手前、左に折れると「可美公園」へ。



国道沿いの生け垣は、手入れされた槇の木が。
諏訪神社手前、右側には『忠魂碑』が。
「陸軍中将従三位勲一等大久保春野書」と書いてあったが。



『みたらしの池』。



「水神様をおまつりした人工の池が、現在の可美小学校が建設 される昭和二十二年
(一九四七)一月ごろまで、「みたらしの池」と いわれ可美小学校の運動場の南西のあたりにあった。 
池が埋め立てられてしまったので、たいへん信心深い、土地持ちの 丸山森三郎氏が、新しく
水神様をおまつりする池を現在の 不動尊(成徳寺)の南側に造った。
しかし、現在はその池 も埋め立てられてしまい、今ではその面影はない。 
当時、可美小学校の校内運動会の時に雨が降ると、みた らしの池を埋めたせいなどともいわれた。」



『浜松市・可美村合併記念』碑。平成3年に合併したと。『可美村民憲章』碑も。



そしてその先にあったのが『諏訪神社』。



境内の参道を進む。



『諏訪神社(旧名諏訪明神)』。
若林町西端に鎮座する諏訪神社。大永4年(1524年)内田六郎兵衛なる者が
長野・上諏訪社より勧請して建立、明治中期頃まで内田家が代々神主を務めた。
当初の社名は諏訪明神。



鳥居を潜る。



明るい青が印象的な『社殿』。



拝殿奥の『本殿』。



『秋葉神社』。



『秋葉常夜灯籠』
増楽町に残る秋葉燈籠。鞘堂に納められその姿は見えなかった。



「天正二年(1574)、家康公は「火の神」アキバ神社を浜松高町に建てた。一方、春野の
深山に通ずる諸街道を秋葉街道と名付け、旅人の安全を祈願し、街道の要所に常夜燈の
設置を奨励した。このとき、建てられた常夜燈が現在に残る秋葉燈籠の始まりである。
はじめのころの灯籠は、旅人の脚下を照らすための素朴なものだったが、火を尊ぶ心から
木灯籠、そして石灯籠と造り替えられ、現在のようなりっぱな灯籠になった。
現在、増楽町に残る常夜燈楼だけが、可美地区に残る唯一の秋葉灯台である。」



『佐鳴予備校可美校』前を通過。



そして歩道橋手前の右手にあったのが『村社 熊野神社』。



『境内』。



『熊野神社(旧名伊豆権現)』
「一、祭神  伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 事解男命(ことときおのみこと)  
       速玉男命(はやたまおのみこと)
  一、別社  若宮社 祭神 大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳天皇)
  一、大祭  十月十日 旧九月十五日なりしも大正中頃教育的見地からより各字統一す
  一、由緒  当社は大正15年4月1日火災に罹り、社殿等焼失したればその由緒詳かならず。
                   伝ふる所に依れば、名門出身紀伊國熊野神社の神官故ありて諸国遍歴の砌当地に
                   足を止め居を定め、祭神を奉祀したるに始まると云う。古来熊野三社大権現と
                   称したれども、明治2年六所神社と改称、同7年熊野神社と改め、同12年
                   村社に列せらる。」



『社殿』。



ジーユー(GU) 浜松可美店の角にあったのが『領地境界の標柱』。



「江戸時代、宝永二年(1702)に高塚(当時は高塚村)は堀江領になったが、
増楽(増楽村)以東は浜松領であった。これはその領地の境を示すために建てられた
標柱)である。かつてはここより西側にあったようだが国道拡幅により
現在の地になった。堀江領側にも傍示石と称する境界の標柱があったようである。」



浜松藩井上河内守の領分であった敷智郡増楽村と、ほりえの大沢右京大夫の知行地であった
敷智郡高塚村との境界に建立されていた。東海道の左右に一基づつあった。
「従是東濱松領(これよりひがしはままつりょう)」と刻まれた高さ1.5mの石柱。



『スズキ入口』バス停を通過。
バス停手前の『領地境界の標柱』の角を東海道線の方向に向かい線路を渡った
場所には​スズキ歴史館​👈リンク、スズキ㈱本社があるのだ。



『堀江寮境界石』
宝永2年(1705年)高塚村は旗本大沢氏の堀江領となり明治維新まで続いた。
この辺りに堀江領を示す領界石があったらしい。解説板によれば、高塚町の東端、
国道257号の南側に住んでいた高橋長兵衛家の前庭に境界表示の礎石があるとのこと。



『高塚村高札場跡と秋葉燈籠跡』。
「東京国立博物館に所蔵されている東海道分間延絵図によると、当時の高塚には、高札場が
秋葉燈籠の東側(現在の小野田吉平氏宅)付近にあった。江戸時代には、どこの村にも
それぞれ高札場があり、木板の札を村の中心で人目にたつところに建て、切支丹禁制、
火災防止、徒党を組むことの禁止、犯罪人の罪状などを書いて村人に布告を徹底させた。」



浜松市南区高塚町の交差点角にあった『麦飯長者跡』。



「昔、高塚に小野田五郎兵衛という長者がおり、明治維 新(一八六八)のころまで、
誰彼の区別なく、街道を行 き交う人々に湯茶を接待し、空腹時には麦飯を
食べさせ ていた。いつとなく、麦飯をくださる長者さまというこ とで「麦飯長者」と
いわれるようになった。 
五郎兵衛の善行が浜松城下にも知られ、小野田の姓が 許され、村役人、庄屋を務めた。
そのため、小野田家は 代々、五郎兵衛を名乗ってその歴史を今に伝えている。 」



さらに国道257号線を進む。舞阪まで7kmの表示が。



次の歩道橋の下、右手にあったのが『郷社 熊野神社』。
一の鳥居を潜り進む。



『郷社 熊野神社』正面。



『熊野神社』案内板。
「当社は、後三条天皇の延久年間に創建されたと口伝され、 紀州和歌山の熊野本宮の神主が、
諸国行脚の途中でこの地に足を留めて祭祀したと伝えられ、熊野三社権現と称えられた。
ある時、神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、村人と図って
神社の裏山に土をもりあげた。 その後「安政の大地震」が起こり、津波の為多くの死者が出たが、
この里の人々はこの丘に避難して難を逃れたと伝えらる。
又一説には、大津波の犠牲者をこの地に葬り沢山の砂を浜から運んで(浜垢離の起源)
高い墓を築いたと。 大きな墓(つか)であったので大墓、後に高い塚~高塚と呼ぶようになり、
地名になったと伝えられる。」



「由来
紀州(和歌山県)熊野本営の神主さんが諸国行脚の途中、此の地に足を留めて祭祀したのが
始まりであると云われている。 或る時此の地の神主さんが高い丘を作って人々を救へと云う
不思議な夢を見たので、村人とはかって神社の裏山に土を盛りあげた。
その后安政の大地震が起り津波のため多くの死者が出たが、高塚の人達は此の丘に避難して
被害を免がれたと云伝へられている。 又一説に大津波のため住んでいた人達が殆んど死んで
しまった。 村人は津波の犠牲者を此の地に葬り沢山の砂を浜から運んで高い塚を作った。
(今でも浜垢離と云う習慣として残っている。) 大きな墓であったので大墓後に
高い塚ー高塚と呼ぶようになり地名になったと伝えられている。」



『社殿』。



扁額『熊野神社』。



社殿内部では朝の儀式が行われていた。
よって社務所は無人で御朱印は頂けなかった。



『御神木』



「雲竜椎(うんりゅうしい)
 樹齢500年(推定)位の椎で、当熊野神社の歴史をじっと見守ってきたとことが
 考えられます。丁度雲に坐って昇天する龍の面影を留め骨と皮で尚神殿をお守りする様相が
 偲ばれる処から、御神木として本年度より登記致しました。」



「昇天松
 樹齢400年(推定)位の黒松で真直ぐに天空に向かって伸びる姿は、当神社境内でも
 その枝振りと共に一際立派で仰ぎ見る人達に崇高な感動を与えて呉れます。
 遠く南遠州灘を望み、北方に赤石の山脈を見下ろす、御神木として何時までも此の処に
 住む人たちを守護って戴きたいと思います。」



境内には『稲荷神社』も。



扁額



『古札納付所』であろうか。



そして旧東海道に戻ると道路の正面反対側にあったのが海岸に向かって延びる
『源十道路(げんじゅうどうろ)』。



「この道路の名前の由来は、現在、道の東に住んでいる高橋登氏と西に住んでいる
高橋みち氏の「ひおじいさん」(三代前)の高橋源十氏の名前をもらって、名付けられた
ものといわれている。」とあったが、歴史的な意味は??



そして次に訪ねたのが『高蔵寺』。
所在地:浜松市南区高松町4706。



『六地蔵』。



『本堂』。
臨済宗方広寺派の寺。扁額には山号の『如法山』と。



『福徳稲荷大明神』



奉納された幟が並んでいた。



小さな祠も。




                              ​その1​  に戻る。
               
                  ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2020.05.01 12:24:07
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