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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.12.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

旧東海道(長沢国府線)・県道374号線を進むと前方に『御油の松並木』が姿を現した。
御油の松並木は、愛知県豊川市御油町の東海道御油宿と同県同市赤坂町の赤坂宿の
間にある松並木。
松並木はかつて五街道の各所に存在したが、様々な理由で伐採されたりして現存している
松並木は少ない。御油の松並木は、現存している数少ない松並木の一つである。
御油宿の西端から赤坂宿の東端までの約600メートルにわたって271本(2003年の調査による)
の松の木が立ち並んでいるとのこと。



松並木が始まる手前、写真中央に関札『松平丹波守宿』、
左手に『御油宿と御油の松並木周辺』説明板が。



「御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ、東海道五十三次の
第35番目の宿場として繁栄しました。
ここから東の、かつての上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通りぞいには、
今でも宿場町の面影を残す旧家がみられます。
また、この御油宿と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木が
あります。 昭和19年に国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」 にも選ばれています。」



『御関札立掛場跡』案内板。
「御関札とは、諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際、宿泊先(御休先)となる
宿場の本陣や問屋(町役人)に事前に申し伝え、宿泊当日の三日前迄に本陣、町役人は宿場の
出入り口に縦3尺半(約1m)、横1尺半(約45㎝)の板に 宿泊年月日・藩主名・出向く先を
記入し、長さ3間半(約6m)の太い竹竿に取り付け立掛けられた看板を言います。
御関札は、大名の権威を誇示するばかりではなく、本陣前を往来する人々に無礼のない様、
通行するように注意を促す目的を持って 立掛けられた看板と云われています。
此の御関札案内板は、当時御油宿・問屋役人井上興左衛門の 「御定宿之控」 の記録より
作成したものです。」
御油宿は、本陣2、脇本陣0、旅籠62、家数316軒、人口1298人であった。
京から江戸に向う旅人は、赤坂宿で宿泊し、逆に江戸から京に向かう人は、ここ御油宿で
宿泊したのだと。



『天然記念物 御油ノ松並木』と刻まれた石柱と説明用石碑が。



「天然記念物「御油ノ松並木」
この松並木は、慶長9年(1604)、徳川家康が植樹させたもので、以来、夏は緑陰をつくり、
冬は風雪を防ぎ、長く、旅人の旅情をなぐさめてきました。
当初、600本以上あった松は、長い歳月の間に減少しましたが、旧東海道に現存する
松並木のうちでは、昔日の姿を最もよく残すものとして、第二次世界大戦中の昭和19年11月7日、
国指定の天然記念物となりました。」



道路の反対側にあったのが『十王堂』。



「十王堂
十王とは、冥界にあって、死者の罪業を裁判する十人の王のことです。
仏教では、死者は冥界で順次十人の王の裁判を受けて次に生まれてくる所が定まるとされている。
この考えは平安後期に日本に伝わり、鎌倉時代に全国に広まりました。
この十王とは、秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔大王・変成王・太山王・平等王・都市王・
五道転輪王のことで、十王が冠をつけ、道服を着て笏を持ち、忿怒の姿を示すのは道教の影響が
強いことを表しています。
この建物は明治の中頃に火災にあい再建されたもので、十王堂の創立年は定かではないが、
江戸時代に描かれた絵図に印されていることから、古くからこの地にあったことは確かです。」



扁額『十王堂』。



『十王堂』前の石仏。



『御油の松並木』の下を赤坂宿に向かって進む。



御油宿から赤坂宿までは、1.7km。
この御油の松並木は、江戸時代の初め東海道の並木として御油~赤坂間で整備され
幕府によって管理されていた。明治に入り、宿場制度が解体され管理の所在が
はっきりしなくなったが、地元御油町で管理を続けた。
その後、太平洋戦争の為、多くの松が燃料として切り倒されていることを憂慮し、
御油町の人達が存続させるため天然記念物指定を受ける働きかけを行い、その結果、
「東海道の松並木として代表的なもの」という理由により、昭和19年11月、
国の指定天然記念物に指定された。
現在では、町全体で保存活動をが行われており、松の補植も行われているのであった。



御油宿の西端から赤坂宿の東端までの約600mにわたって271本(2003年の調査による)の
松の木が立ち並ぶ。
夏は日差しを避け、冬は防風・防雪の役目を果たしていた。
また江戸時代の滑稽本『東海道中膝栗毛』のなかで、弥次郎兵衛と喜多八がここでキツネに
化かされた話が描かれていると。



枯れて伐採された松の古株、樹齢何年の松であったのだろうか?
そして隣には既に新しく植樹された若木が。



現在では生活道路が通り、松並木をひっきりなしに車が通るようになったため、
松並木を歩く際には注意が必要であったが、2009年に車道部分を狭くして歩道が
整備されたため、以前より安全に歩行者が通行できるようになったのだと。



左側の公園入口にあった御油松並木愛護会による
『弥次郎兵衛、喜多八も歩いた御油の松並木』についての案内板をズームで。
「この御油の松並木は江戸時代後期の十返舎一九の著作「東海道中膝栗毛」の主人公、
弥次郎兵衛、喜多八も歩いた街道です。お伊勢参りに行く途中、このあたりで弥次郎兵衛は
失態を演じました。陽も落ちかけた頃、弥次郎兵衛は御油の茶店の婆さんが、悪い狐が出て
旅人を化かすので「此の宿に泊まらしゃりませ」と言うのも聞かず、先に行った喜多八を
追いかける。松の鬱蒼と繁ったこのあたりで本物の喜多八に追いつく。
茶店の婆さんが言った狐の話をすっかり信じて、喜多八を狐と思い、突き倒し
縛り上げてしまう。そして追ったてながら赤坂の宿に向かう。・・・」
こんな滑稽なことが生まれたところなのであった。
明治のはじめ頃までの御油の松並木の両側は竹藪が延々と続く昼なお暗い所であった。
この付近の山々には狐狸が棲息し、夜な夜な餌を求めて、田畑や街道へ出没し、作物を
荒らしたりして人々わ驚かせました。日没とともにまっ暗な闇が街道を包み、薄気味悪い
松並木を通るには、とても度胸がいったとのこと。



家康の命を受けた奉行・大久保長安により、亀の甲のような樹皮が特徴の三河黒松が
植樹されたと。
この時は比較的交通量は少なかった。



『御油松並木公園案内図』。
天然記念物「御油の松並木」の保護と、観 光、地域交流の拠点となることを目的とし、
松並木に調和した景観となる公園として整備された。 
昭和47年には、御油松並木愛護会が発足し、昭和50 年に大規模な松の補植が行なわれた。
また、定期的 な見回り、清掃や下草刈など継続的な保護活動によって、 御油の松並木は
江戸時代の並木景観を現在もなお留めているのだと。



公園内には竹林も。



公園内の遊歩道を歩く。



『御油の松並木』の終わりの赤坂宿側の松は背が高く、青空に突き刺さっていた。



音羽川に注ぎ込む天王川に架かる石橋の場所まで辿り着く。



赤坂宿側の『天然記念物 御油ノ松並木』と書かれた木製の碑。



『天王川』は小さな川いや水路の如し。



橋の名は『一ノ橋』。



『一ノ橋』を渡り進むと、すぐ右側のT字路の角にあったのが『見附跡』案内板があった。
ここが赤坂宿の東入口となり、赤坂宿中心へと入っていくのだ。



「見附跡
見附〔見つけ〕とは、宿場の入口に石垣などを積み、出入りする者を見張ったところである。
赤坂宿見附は、東西に設けられ、東は東海道 を挟んだこの辺りの両側にあり、西は八幡社入口
附近の片側にあった。
「赤坂旧事記」によれば、寛政八年(1796)代官辻甚太郎のとき、東側の見附を関川神社の前に
移築したとされている。明治七年(1874)に、取り壊された。」



『歌川広重 東海道 五十三次 佐野喜版・狂歌入東海道・狂歌東海道 《 赤坂 》』
「鳴門静丸 双六と ともにふり出す髭奴 名を赤坂の 宿にとゞめて」



更に赤坂宿を進む。



道路脇の民家にはコロガキ?がたわわに。



数分歩くと天を圧する巨大な老木が左前方に姿を現した。



『関川神社』。



石鳥居と社殿。
長保3年(1001年)5月、赤坂の長者・宮道弥田次郎長富が三河国司の大江定基の命を受け、
関川地内に立つ楠の脇に堂宇を建立したのが起源とされる。
当初は弁財天と称していたが、明治時代初期に神仏分離の影響を受けて関川神社と改称した。
昭和28年(1953年)6月5日、宗教法人として登録を受けた。
氏子はおらず、神社の運営は関川区域の住民によって行われている。
祭礼は旧暦1月15日・16日であり、福引が行われていたが、現在は太陽暦の1月15日・16日に
改められ、余興は行われていない。
同じく赤坂町に位置する宮道天神社で例祭が行われる際には、渡御する神輿の休憩所として
境内が使用されてきた。確認できる最古の棟札は文政12年(1829年)のものであり、
「再建之辨天拝殿一宇」の文字が見える。
他には、明治20年(1887年)のものがある。
境内には、大正7年(1918年)2月に建てられた常夜灯がある。



脇社。



『関川神社の楠』を見上げる。



「関川神社の楠
由来及び沿革については不明であるが古老の説によると、木の根元からえぐられている部分は
慶長十四年(1696年)の十王堂近所(宮路山登山口の東側)からの出火による火災で約30戸が
焼失しており、その時に火の粉が飛び焼けたものであるといわれている。
この木は楠としては町内一の巨木で、幹のまわりは目の高さで約7.29m、高さ25.7mあり
推定樹齢は約800年であるといわれています。」



社殿を斜めから。



芭蕉の有名な「夏の月 句碑」。



「夏の月 御油より出でて 赤坂や  芭蕉翁」
この句は、松尾芭蕉が夏の夜の短さと、わずか16町(両宿問屋間)と近接する赤坂と御油間の
距離の短さを詠んだもの。



音羽町のマンホール蓋。
歌川広重「東海道五十三次・赤坂」の一部が描かれていた。



こちらが原画の『東海道五十三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ図 / 歌川 広重』。



更に進むと左手700mに『豊川市音羽福祉保健センター』。



右手に『音羽郵便局』。



                              
                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2020.05.01 15:32:08
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