7290773 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Freepage List

Comments

Favorite Blog

市内の満開のサクラ… New! オジン0523さん

白い花(小手毬、西… New! 隠居人はせじぃさん

【花々が一斉に咲き… Gママさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん
noahnoah研究所 noahnoahnoahさん

Headline News

Archives

Calendar

2019.12.27
XML

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『開運毘沙門天王尊』
音羽中学校を過ぎると、右手の細い路地角に開運毘沙門天王尊碑が建っていた。
昭和8年(1933)建立で、「開山三百年記念・御嶽教心願講心巴組先達鈴木富象」 と
刻まれていた。



開運毘沙門天王尊碑の先は、左手に山が迫り、車は殆んど通らない長閑な一本道であった。



長閑な街道を進むと、所どころに連子格子の立派な旧家が建っており、
往時を偲ばせていたのだった。



大永山 栄善寺 寺標』。
左手に山が迫ったところに浄土宗西山深草派の大永山 栄善寺 寺標が建っていた。




栄善寺は、文永9年(1272)派祖証空善慧上人二世法孫円空立信上人の創立した寺。



石段の右側に二つの石室があり、石仏が祀られていた。
境内へ上がる石段脇には、役行者・馬頭観音などがあった。

役行者は何故か全身が黒く塗られていたが・・・。



平安様式という自然石の石段と言われる草の生えた石段を上ると質素な御堂があった。
栄善寺は、1272年、円空上人の創立で、弘法大師がこの地で大日仏を刻み、盲目の男を治した
という伝説があるとのこと。
この寺は無住であり、鐘楼に梵鐘が無く寂れた感が溢れていた。



『八王子神社社標

街道に戻って先に進むと、左手筋角に『八王子神社社標が建っていた。



八王子神社の創建年代等は不詳であるが、永禄10年(1568)6月に上八王子の音羽川の辺りに
あった社地から現在の地に移されたという。



鳥居の先から急な苔むした石段が。



石鳥居には『八王子神社』と書かれた扁額が。



『洞泉寺』
帰路の突き当りを右に入ると、廃寺となった『洞泉寺』の跡地が?
本堂の姿もなく、寂しい光景が。



旧東海道を進むと、音羽川の手前のガードレール前に、『一里山庚申道道標が建っていた。
道標の下部は地中に埋まって、「是ヨリ」 までしか見えていない。
一里山は、一里塚を言うので、この先の長沢の観音堂かその先の庚申堂らしき建物を
指しているのであろうか?



道標の直ぐ先で、音羽川に架かる八王子橋を渡り、県道73号線(三河湾オレンジロード)の
高架をくぐり、まばらになった家々の間の街道を行く。



『八王子橋』。



前方左手に木柱が姿を現す。



『長沢一里塚跡』。
長閑な街道を進むと、左手の畑の前に『長沢一里塚跡』が。
江戸日本橋から77里目(約302km)、京三条大橋からは41番目
(実測で約202km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。
両塚とも現存せず。




道標の上に、「分間絵図」が描いてあり、それによると、両側に一里塚が造られ、
右の一里塚の手前には、御料傍示杭が描かれていた。



長沢小学校の構内手前の角の石垣手前にあった『長沢城跡』案内板。
「長沢は東西三河の境目にあり、両側から山が迫る地形で、中世において戦略上重要な
位置であった。東海道を挟んで南(御城山山頂)に?略寺城跡、北(古城団地)に長沢城跡がある。
長沢城は、東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なもので、主郭の前面を土塁や二重の堀が
巡り、南側に出入り口があった。現在は宅地化されて、堀の一部をわずかに残すのみである。
また、寛永11年(1634)家光上洛のときに休憩所として建てられたといわれる御殿が
長沢小学校敷地内にあった。」



『長沢城址の図 元禄12年』。

関連画像

右手にあったのが『豊川市立長沢小学校』。



左手にあったのが長沢小学校のプール。



『プール使用のきまり』が丁寧に、易しく。



児子社社標』
旧東海道を先に進むと、右手筋に児子社社標が建っていた。
この参道は国道1号線・名鉄名古屋本線・東名高速道路によって分断されているようであった。
児子社の創建年代は不詳であるが、明暦2年(1656)の棟札が残っているという。



直ぐ先の誓林寺前バス停の手前で街道が右にカーブする所に『庚申堂』らしき建物があり、
建物前に地蔵尊が建っていた。



祠のない『地蔵尊』



『誓林寺』
街道を曲がると右手に浄土真宗本願寺派の『古谷山誓林寺』の山門があった。



『本堂』。
誓林寺は、源氏の武士・高梨高直が親鸞聖人の弟子となり、山中村に草庵を建てたのが
始まりと言われる。その後、ここ音羽の地に移り、領主松平氏により山号を古谷山と改めた。
現在の本堂は、文政7年(1824)に建て替えられたものであると。



前代の本堂の鬼瓦であろう。



可愛らしい豊川市コミュニティ 音羽線バス停『誓林寺前』。



音羽川に沿って旧東海道を進む。



このあたりの旧東海道は交通量も少なく。



『巓(だけ)神社』。
誓林寺の先で十字路を渡ると、右手筋の角に巓神社社標と寛政10年(1798)の
秋葉山常夜燈が建っていた。
巓神社の参道も児子社と同様、国道1号線・名鉄名古屋本線・東名高速道路によって分断されていた。
巓神社の創建年代等は不詳であるが、宝徳元年(1449)の棟札が残っているという。



民家の前の花壇には花々が植えられて、楽しませてくれた。



街道を進むと、やや上り坂の左手に連子格子の旧家がいくつか並んで建っていた。



かなり狭い旧東海道を進む。



『観音堂跡』。
更に進んだところに建つ連子格子の家の前に観音堂跡があり、観音菩薩・馬頭観音・歌碑などの
石造物が建っていた。
歌碑は弘化3年(1846)観音堂の尼・妙香尼が落馬死した旅人の念仏供養のため糟谷磯丸に
歌を依頼して建てたものと言われていると。



最奥にあった石仏をズームで。



『磯丸 みほとけ 歌碑』?と書かれた石柱。
磯丸とは、糟屋磯丸のことで、伊良湖村に生まれた漁師で、漁夫歌人と呼ばれた。
一生を通じ数万首の和歌を詠じたといわれている。
この碑は、観音堂の庵主が、落馬して亡くなった旅人の供養のため建てられたのだと。



『観世音菩薩』と刻まれた石碑。



カーブする所右手に、『秋葉常夜燈』と対の祠の中には『石仏』が安置されていた。



安政6年(1859)の『秋葉常夜燈』を正面から。



地蔵堂・観音堂が一対で建っているようだ。
堂の中には『石仏』が。



観音堂の『石仏』。



地蔵堂の『石仏』。



唯心橋で音羽川に流れ込む枝流の千束川を渡河。




                              ・・・もどる・・・

                   ・・・つづく・・・






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.05.01 15:33:28
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.