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JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.01.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『専光寺』を後にし、大岡越前守陣屋跡(西大平藩陣屋跡)に向かう。



『史跡 大岡越前守旧邸』石碑。



『大岡越前守陣屋跡』岡崎観光きらり百選 案内板。
「「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、
西大平藩主大岡家の陣屋がおかれたところです。
陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると
同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、大岡家別邸として復元しました。」



『大岡越前守陣屋跡・西大平藩陣屋跡』陣屋門。



立派な門と塀が復元されていたが、中は公園状態で何枚かの案内板が掲げられていた。



『西大平藩』案内板。
「西大平藩の成立は、大岡忠相が寛延元年(1748)に奏者番兼寺社奉行に就任して
三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4080石を加増され1万石の 譜代大名となり、
西大平に陣屋を設置したことに始まります。
安政元年(1772)以降は藩領の変動はなく、1万石の内訳は三河国4郡内に9千石余、
上総・相模の2国2郡で1千石余となり、 大部分が三河国内に所在していました。」



この庭園は、額田郡の12か村を石で表していると。



『西大平藩陣屋』
「西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。
大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏
10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4080石の領地を加増され、1万石の大名と
なりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、
三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。
しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には
亡くなっています。
2代目は忠宣が継ぎ廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。
大岡家は江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に
住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・
郷足軽4、5人程度でした。」



『大岡越前守忠相』案内板も。



『大岡越前守忠相公』 延宝五年(1677)~宝暦元年(1751)
「「大岡裁き」で有名な大岡越前守忠相は旗本の家柄に生まれ、徳川八代将軍吉宗の下で
江戸町奉行として仕え、享保の改革を断行する大きな原動力となりました。
著名なものに、相対済し令・目安箱・小石川養生所設置、いろは四十七組の町火消組織化、
江戸防火対策である火除地の確保と「瓦ぶき」屋根とする建築基準の設置など、江戸庶民の
生活向上に力を注ぎました。 また問屋・仲買・小売の流通段階での株仲間組合の組織化や、
金銀相場の改訂・通貨改鋳による物価安定策などを打ち出し、幕府財政の建て直しを図りました。
晩年は譜代大名にとりたてられ、奏者番兼寺社奉行として職務を全うしました。
宝暦元年に75歳で没し、相模国堤村(現神奈川県茅ヶ崎市)の浄見寺に葬られました。」



当時の『井戸』も残されていた。



陣屋跡に鎮座する『大岡稲荷社』。



「寛永元年(1748年)一万石の譜代大名になられた大岡越前守忠相公は、西大平藩主として
三河国額田郡西大平村(現在地)に陣屋を置いた。 忠相公は、領地に近い三河国宝飯郡豊川村に
ある豊川稲荷の本尊「咤枳尼眞天」を厚く信仰した。 江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として
赤坂稲荷を祀り、ここ西大平陣屋内に大岡稲荷として社殿を建立し、「豊川咤枳尼尊天」を
本尊として祀った。
現社殿は、忠相公没後250回忌の記念事業として平成14年(2002年)に再築されたもので、
大岡家の守り本尊として代々引き継がれ守られている。 なお、毎年4月には大岡稲荷奉賛会が
中心となり例大祭が行われている。」



御本尊「豊川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」と赤く書かれた幟が並んでいた。



旧東海道に戻り進むと直ぐ左にあったのが『大平(おおひら)一里塚』
ここは「跡」ではなく当時の一里塚が左側だけ残っていた。二代目の榎も見事に生長していた。



国指定文化財『国指定文化財 史跡 大平一里塚』案内板。
「 一里塚とは道の両脇に一里ごとに塚を築いて道標としたもので、制度として確立したのは、
江戸幕府が慶長九(1604)年に江戸・日本橋を起点として各街道に一里塚を
築造させたことによる。 
大平一里塚は東海道の一里塚のうちの一つで、日本橋から八十里にあたる。東海道の一里塚は
永井白元、本多光重が奉行となり、代官や領主に築造させているが、大平一里塚は領主である
本多重次の子成重が築いた。現在の大平一里塚は、昭和三(1928)年に道路改修の際、
北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4m、底部縦7.3m、
横8.5mで、中央には榎が植えられている。元は榎の巨木であったが、昭和二十年の台風で
倒木したために新たに植えられたものである。このように一里塚には根張りがよく、
塚の崩落を防ぐ目的で榎が植樹されていることが多い。」



『史跡 大平一里塚』碑。



右側の塚があった場所には『秋葉常夜灯』と『馬頭観音』を祀った堂が。



左側の二代目の榎を見上げる。



『馬頭観音』の堂。



内部の石仏・地蔵尊(右側)。



左側が三面六臂の馬頭観音であろう。



そして旧東海道が再び国道1号線に合流する手前右側にあったのが
『村社 八幡宮』の石灯籠と参道入口。



参道を進むと右手にあったのが『更沙川改修記念碑』
『更沙川』はこの場所の裏を流れ乙川に合流する川。



参道を進むと一の石鳥居が姿を現す。



創立:年代不詳
安永6年(1777年)8月4日 字八ッ幡より遷座。



階段の上に社殿が。



二の石鳥居を潜る。



水場。



拝殿。



扁額『八幡宮』。



境内社『三姫社』。



右から『神明社』と『大森社』。



『天神社』。



『拝殿』の奥に『本殿』。
祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと 応神天皇)。



『神宮遥拝所』石碑。



『皇居遥拝所』石碑。



東名岡崎ICへの入口である岡崎西ICの高架下を潜る。



この後再び国道1号線に戻り暫く進む。
そして再び更紗川沿いの旧東海道に入って進む。右手に更紗川緑地があった。
暫く進むと右手にあったのが『一澤山法光寺』。



この寺の山門は、門の上に鐘楼がある珍しいもの。
狭い境内と見受けられたのでやむなく山門の上に造ったのであろうか。



本堂。



境内には立派なそして大きな墓石の墓が並んでいた。



境内から山門を見る。



こんな張り紙が。
お供えした古い花は持ち帰ってくださいと。



右手の駐車場には『旧東海道常夜燈』が。手前には『水準点』も。
『水準点』は、正確な高さを求める測量をおこなうために、国土地理院が作った高さの
基準となる点のこと。






                              ・・・​もどる​・・・

                   ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2020.05.01 15:37:55
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