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カテゴリ:旧東海道53次を歩く
『旧東海道を歩く』ブログ 目次 1.四日市の時雨蛤、日永の長餅の 家土産まつと 父を待ちにき 2.湯の宿の つんりるてんの かし浴衣 谷の夜風が身にしみるなり 3.氷りたる 水田にうつる 枯木立 こころの影と 寂しうぞ見る 4.白雲は 空に浮べり 谷川の 石みな石の おのづからなる 5.夕風の さそふまにちる 花をこと ありがほに見る 蛙かな 6.蕎麦の花に 百舌が訪ひ来て 語らへり 山のはざまの 秋風の家 7.真白帆に よき風みてて 月の夜を 夜すがら越ゆる 澗庭の湖 8.一すぢの 煙をあとに のこしおきて 沖をはるかに 船はゆくなり(十歳作) 9.ふる雪の いや重け吉事 ここにして うたひあげけむ ことほぎの歌 10.目とづれば ここに家ありき 奥の間の 机のもとに 常よりし父 11.まりが野に 遊びし童 今し斯く翁さびて来う野の草は知るや 12.ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの裏 13.名におへる 森の大木の かげふみて あふぎまつらふ 神の恵を 14.月ごとの 朔日の朝 父と共に まうでまつりし 産土のもり 15.夕されば 近江境の 山みつつ 桐畑の隅に よく泣きゐしか 16.やま百合の 幾千の花を 折りあつめ あつめし中に 一夜寝てしが 17.障子からのぞいて見ればちらちらと雪のふる日に鶯がなく〔五歳作〕 18.むすべぱ手にここちよし清き水の今もわきいづるわが産湯の井 19.ふるさとの鈴鹿の嶺呂の秋の鬘あふぎっっ思ふ父とありし日を 20.願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや 21.天地のあるじとなるも何かせむいかでまさらむ此のゑひ心地 22.これのふぐらよき文庫たれ故郷のさと人のために若人のために 23.日本語いく千万の中にしてなつかしきかも「ふるさと」といふは 24.なげくなかれ悲しむなかれ日輪は人間の上を照らしたまへり 25.いきいきと目をかがやかし幸綱が高らかに歌ふチューリップのうた 26.秋高き鈴鹿の嶺の朝の鬘はろかに見つつわがこころすがし 27.万葉の道のI道生のきはみ踏みもてゆかむこころっっしみ 28.今し成りぬ五峡二十五冊を前におき喜びの涙とどめあへなく 29.ありがたし今日の一日もわが命めぐみたまへり天と地と大と 30.天にいますわが父のみはきこしめさむ我がうたふ歌院ひくくとも 31.み空仰げ八重棚雲をおしひらき赫々として初日はのぼる 32.山黙し水かたらひて我に教へ我をみちびくこの山と水と 33.人の世はめでたし朝の日をうけてすきとほる葉の青きかがやき 34.山の上にたてりて久し吾もまた一本の木の心地するかも 35.ものぐさのあるじ信綱あさなさな庭におり立つ石南花さけば 36.幼きは幼きどちのものがたり葡萄のかげに月かたぶきぬ 37.山辺の御井にとくだる山ぞひみち遠松風の音をすがしむ 38.国をおもふ心はも燃ゆかたちこそ痩せさらぼへる老歌人も 39.蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも 40.鈴鹿川八十瀬のながれ帯にしてすずか並山あき風に立っ 41.どっちにある、こっちといへぱ片頬笑みひらく掌の赤きさくらんぽ 42.花さきみのらむは知らずいっくしみ猶もちいっく夢の木実を 43.春ここに生るる朝の日をうけて山河草木みな光あり 44.ますらをの其名止むる蒲桜更にかをらむ八千年の婁に 45.かぜにゆらぐ凌秤花ゆらゆらと花ちる門に庭鳥あそぶ 46.道とへばふるさと人はねもころなり光太夫の碑に案内せむといふ 47.六つに越え九つにして蛉鹿山ふたたび今日はのぼりけるかな(八―作) 48.投げし魅の一つを囲みかたまり寄りおしこりおしもみ鯉の上に鯉 49.呼べど呼べど違山彦のかそかなる声はこたへて人かへりこず 50.生家にゆくと弱かりし母が我をせおひ徒渉せしか此の甲斐川を 連子格子の民家のある旧東海道の『石薬師宿』の光景を楽しみながら進む。 5.夕風の さそふまにちる 花をこと ありがほに見る 蛙かな 6.蕎麦の花に 百舌が訪ひ来て 語らへり 山のはざまの 秋風の家 7.真白帆に よき風みてて 月の夜を 夜すがら越ゆる 澗庭の湖 8.一すぢの 煙をあとに のこしおきて 沖をはるかに 船はゆくなり(十歳作) 『広重・東海道五十三次 石薬師 石薬師寺』 東海道はこの辺りから鈴鹿山脈を目指す。多くの旅人が手前の四日市で東海道から別れ 伊勢神宮を目指すため、石薬師はどことなく寂しかったという。 石薬師寺は宿場の南端に在り参勤交代の大名達が道中の安全を祈願した。 遠景に大きく描かれた山々。そのなだらかな形と色彩が何とも美しい。その山のふもとに あるのが石薬師寺。田んぼの畔道をつきあたると石薬師寺の山門があり、その右手に 宿場が広がる。田んぼでは稲刈りが終わっているので、季節は晩秋から初冬であろうか。 叙情豊かな風景である。現在の三重県鈴鹿市。 『広重・東海道五十三次 石薬師 石薬師寺』の絵が小店のブラインドにも。 歌碑の立札は写真のごとく民家の庭先に立っていたり、民家の格子窓や壁に 取り付けられていた。因みにこの歌碑の立て札は9番。 9.ふる雪の いや重け吉事 ここにして うたひあげけむ ことほぎの歌 10.目とづれば ここに家ありき 奥の間の 机のもとに 常よりし父 11.まりが野に 遊びし童 今し斯く翁さびて来う野の草は知るや 12.ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの裏 「新出稲荷 ここから東にまっすぐ、国道1号線渡ってまっすぐ 吒枳尼天(ヒンズー教由来)と稲荷信仰がいっしょになり江戸時代では 人を選ばず願いをきいてくれる神としてゆうじょのや博徒被差別の人からも広く進行されました。 今もパワーストップとして親しまれています。」 『信綱かるた道』を進むと、右手に『大木神社』の昭和15年(1940)の『一の鳥居』があり、 鳥居から70~80m程入ったところに『大木神社』があった。 13.名におへる 森の大木の かげふみて あふぎまつらふ 神の恵を 14.月ごとの 朔日の朝 父と共に まうでまつりし 産土のもり 15.夕されば 近江境の 山みつつ 桐畑の隅に よく泣きゐしか 16.やま百合の 幾千の花を 折りあつめ あつめし中に 一夜寝てしが 『大木神社』の参道を進むと正面にあったのが大きな『忠魂塔』。 『忠魂碑』の頂部には鷲の像の姿が。 そして『川北元助翁頌徳碑』。 「川北元助翁頌徳碑 翁は弘化三年六月十二日鈴鹿郡石薬師村の農家に生まれた。当時村内大小の橋梁は木橋又は 土橋であったので朽ちたり洪水で流失したりして困難することが多かった。 翁はこれらの橋を石橋にかけ替えて永久に世人の難儀を除きたいと決意し明治四十二年より
大正三年二月、上田通りの橋梁二ヶ所を完成するまで大小七十余ヶ所の橋梁をことごとく 石橋にかけ替え、その徳行は永く後人を潤した。」 大正3年(1914)の『二の鳥居』が前方に。 『佐佐木信綱歌碑』 「大木神社に詣で侍りて 文学博士源信綱 月ごとの 朔日の朝 父と共に まうでまつりし 産土のもり 名におへる 森の大木の かげふみて あふぎまつらふ 神の恵を 『大木神社の椎の森』 「大木神社の椎の森 この椎の森は当大木神社境内約一へクタールに巨木が群生しているもので、 市内では他に類を見ることができない。 この椎は、ブナ科のスダジイで樹皮に縦の裂け目があり秋にはたくさんの実をつける。」 「大木神社 この神社は式内社といって由緒あるお宮さんです。式内社とは延喜年間(901-22)の時代に、 すでに存在していた神社のことです。正式には「延喜式内社」といいます。 大木神社は地域の氏神(鎮守の神)であり、この地で生まれた人の土地の守り神(産土神)です。 江戸時代頃から氏神も産土神も同じ意味に使われるようになりました。 大木神社には天照大神ほか九柱の神様がおまつりされています。」 参道を境内に向かって進む。 二の鳥居の手前右に『式内 大木神社』と刻まれた社標が。 『明治天皇御差遣 延喜式内 大木神社御由緒』。 更に三の鳥居に向かって参道を進む。 『手水舎』。 『賽神社(さいじんじゃ)』。 『三の鳥居』前から『拝殿』を見る。 『拝殿』。 清浄な『拝殿』内部。 『玉幸稲荷神社』。 扁額『玉幸稲荷社』。 『山の神社』。 『宮城遥拝所』。 『神宮遥拝所』。 『境内』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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