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JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.04.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『常明寺』を後にし、『土山宿』を更に進む。
左手に『きくや』。



左手には大きな空き地が。



ここには『米庄』があったのだ。



東海道土山宿 灰屋跡』の屋号を掲げる民家。
江戸時代には炭や薪の燃えかすである灰を買い集めて転売する商人がいたのであろう。




『土山宿旅籠 藤屋跡』



『米屋 辻右衛門』。



『千切屋跡』。



現在は『株式会社 水谷実商店』。



『土山宿旅籠 竹屋跡』碑。



『みどり屋』跡であろうか。



暫く進むと左手に『土山宿案内図』。



右手に『土山宿 旅籠 常磐屋跡』。



『土山宿 旅籠 常磐屋跡』碑。



更に進むと右手に『天理教 土山分教会』。



国道1号線に合流する『南土山』交差点手前右側には大きな常夜燈が白壁の向こう側に。
ここが『土山宿』の西の外れ。



「東海道土山宿
土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠をこえる旧東海道筋を通るようになって以来、
難所を控える宿駅として発達してきた。 源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の
交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士の
往来のみならず商人、 庶民の通行も以前に増して盛んになった。
とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の
第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。
宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどをつかさどる問屋場、
公用者の宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、 幕府は御役町の
保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。 この御役町を中心に一般の旅人のための
旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた。」



『東海道 土山宿』碑と万人講と刻まれた『常夜燈』であった。



『南土山』交差点を渡り左に折れ、国道1号線を進む。



国道を横断すると右側の店と左の駐車場の間に細い道があり、道の左端に二基の道標が。
左の石柱:『たかのよつぎかんおんみち』と刻み、高野の世継観音(永源寺)へ至る道で
あることを示す

小さな方の右の道標は文化4年(1807年)建立の「右 北国たか街道 ひの八まんみち 」
と刻まれていたが、日野・八幡を経て多賀大社や北国街道へ至る道であることを示すと。
ここが「東海道」と「御代参街道(ごだいさんかいどう)」との追分だった場所。
御代参街道の起点の道標という。伊勢神宮などへ公家の代りに参拝する人々が通った道と
言われるとのこと。



道標『高埜世継観音道』が右、そして『御代参街道』が左のそれぞれ裏側に。



「道標 御代参街道起点
この道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右糾めに進む道が旧東海道である。
御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、
中山道愛知川海宿手前の小幡まての十里余りの脇往還である。 この道は中世においても
重要な間道であったが、正式な脇往還として整備されたのは十七世紀のことである。
寛永十七年(一六四○年)、三代将軍家光の乳母の春日局が将軍の名代として多賀大社へ参拝し、
この道を通って伊勢神宮へ参詣された際に、この道は整備拡張されたといわれている。
江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から
伊勢神宮へ詣で、 帰路土山宿から多賀大社へはこの道が利用されたことから御代参街道と
呼ばれるようになった。 ここに建つ二本の石造道標は、一つは天明八年(一七八八年)に
建立されたもので「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれており、高野の世継観音(永源寺)
への案内の意味である。
もう一つの石標には「右、北国たが街道、ひの、八まんみち」文化四年(一八○七年)と
刻まれており、日野、八幡、また多賀大社や北国街道へ続く道であることを意味している。 



この路地の先にあったのが『見性庵廃寺跡』碑。
北土山の永雲寺の末寺、見性庵という寺院跡。明治初期に廃寺となったのだと。



前方にY字路が。
国道1号線と別れ、右の細い旧東海道を進む。



旧土山宿滝町を行く旧東海道を進むと右手には連子格子の旧宅が。



家並みが切れた場所に『「ようこそ「歴史の道」東海道へ』案内板。
ここは土山町滝町です。 これより、東海道は、往時、野洲川を横切っておりましたが現在は
通行出来ません。 左図に示すとおり、国道1号へ迂回いただき、「歌声橋」をお渡り下さい。
土山を訪れていただいた皆様のご無事をお祈りいたします。」



『歴史の道 東海道 京⇔土山宿⇔江戸』。
「ご注意
この案内板は、往時の道を表しています。現在は野洲川を渡ることが出来ませんので、これより
西へ歩かれる方は下記のとおり、国道1号へ迂回し、歌声橋を渡って下さい。」
と親切にも。



この先が、かっての旧東海道で『野洲川』の渡し場に続いていたのであった。
土山宿の西端は三年坂と言っていた。坂の途中右側に馬頭観音の祠があり、やがては
広い河原へと下る。川の名前を『松尾川』と言っていたと。
この川は江戸時代、冬期は土橋がかかっていたが、3月から9月末までは徒歩で渡っていたと。
川を渡って登る坂を『灰俵坂』と言ったと。



左に折れ、国道1号線に向かう。



この先で国道1号線に合流した。



Y字路
国道1号線に出たら、直ぐに左の細い道を進んで行った。



『道祖神』。



更に進むと、車の入れない遊歩道が。



その先にあったのがアクリルの円形屋根のついた『歌声橋』。



『歌声橋』から『野洲川』そして国道1号線に架かる『白川橋』を見る。
この橋が国道1号線から野洲川を見られる最後のポイントと。



『歌声橋』を渡り直ぐに右手に折れ、『野洲川』沿いを進み国道1号線交差点を渡り
茶畑の横を更に進む。



道路沿いにあったのが『縣社 瀧樹神社』の石碑。



そして右側に旧『松尾川』・現『野洲川』に下る坂道・『灰俵坂』があった。
この先に旧『松尾川』の渡し場があったのであろう。



途中に石碑が一基、旧東海道の証であるかの如く建っていた。建立年代は不明と。
鈴鹿馬子唄・「坂はてるてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」。
現在は先程渡った、明治初期に敷設された『歌声橋ルートが推奨されており、
ここを訪れる人は少ないと思われる。



松尾川(野洲川)』が見通せる場所からは、この先には史跡等は無いようであった。
そして坂の途中に柵が設けられ立ち入りできない模様。



左に折れ『松之尾』地区の旧東海道を進む。
「1806年に幕府が出している「分間延絵図」という街道の絵図では、松尾村の南側には40棟、
北側に20棟、戸数にして40戸ほどの家が建ち並び、村の中ほどに高札場もあったことが
描かれている。また、茶店も数軒あり、今の松尾村の民家の数からみると想像しがたいが、
かなり賑わった立場であったことが推測される。
『諸国道中旅鏡』(1848年)には、「いもがけどうふ有、道中二番目の名物と云」また、
『諸国道中袖鏡』(1839年)には、「めんるい有、道中二番目の名物と云」そして
『道中記』(1857年)には「松野尾村まいの村、甘酒有」などと松尾の茶屋が
多く紹介されている。そして松尾から前野までところどころに茶屋があったことも分かる。
1879年(明治12年)3月、現在の国道1号の白川橋の約50m下流に新道を開いて新しい橋が
架けられると、人と物の流れも大きく変化し、松尾村の立場としての賑わいも徐々に
過去のものとなっていった。」 と。



ここが『野洲川』を渡った先の旧東海道・「松野尾村」であったのだ。



茶畑の前の少し高いところには小さな祠が。
旧東海道からこの後訪ねた『甲可日雲宮』に続く参道がこの祠の先にあったのだろうか。



電信柱には『第二十回 関西茶品評会 一等 入賞茶畑』の表示が。



『一等 入賞茶畑』がこの茶畑であろうか。




                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2020.04.26 06:36:07
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