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JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.06.02
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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
『​鎌倉散策 目次​』👈リンク

「第六天社」を後にし、県道21号線・横浜鎌倉線を進むと、カーブの途中の信号の先に
「建長寺」の文字が見えた。



左に「鎌倉学園」の正門があった。
鎌倉学園中学校・高等学校は、神奈川県鎌倉市山ノ内に所在し、中高一貫教育を提供する
私立男子中・高等学校。1921年(大正10年)、 臨済宗建長寺派寺院の支援を受け、旧制
「鎌倉中学校」として創立。創立者は建長寺派管長 菅原時保(すがわら じほう)。
戦後の学制改革により新制中学校・高等学校となった。
校舎は鎌倉五山第一位である建長寺の境内に隣接し、古都鎌倉の緑の山々に囲まれた豊かな
自然環境の中に立地している。略称は「鎌学(かまがく)」。
鎌倉市山ノ内110。



正面に「外門」の「西外門(にしげもん)」。
現在の建長寺・「総門」前は駐車場となっており、築地塀に囲まれている。
もともとその築地塀の東西には「外門」が設けられていたが、 関東大震災で倒壊してしまった。
今は「建長寺」」バス停横にある「西外門」だけが存在しており「天下禅林」の扁額が
掲げられていることから「天下門」と呼ばれている。



「臨濟宗 五山第一 建長寺」。
建長寺は、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆を招いて開いた日本で初めての「禅専門道場」。
臨済宗建長寺派大本山。
鎌倉五山の第一位。
鎌倉市山ノ内8。



以前に戴いた「鎌倉五山」の第一位の「建長寺」の御朱印。



「西外門・天下門」。



「天下禅林(てんかぜんりん)」の扁額
この扁額は、明の竹西(ちくさい)の筆と云われており、模刻が法堂にあると。
「天下禅林」とは、「人材を広く天下に求め育成する禅寺」という意味であると。



「西外門」・「天下門」を入った左手に「」があった。
裏面碑文によると、大正12年の関東大震災にて倒壊し、昭和59年8月23日に再建したと。



「天下門再建之碑」の裏面。
「天下門再建之由来
鎌倉五山第一番建長寺の天下門は、大正十二年関東大震災により倒壊し今日に至って
おりました。
この度、川崎市麻生区細山及び〇〇地域の五大宅地造成・土地区画整理事業の完成を
記念して関係者一同相計画り天下門を再建すると共に、「天下禅林」のが苦を掲げ
開山当時の偉容を再現寄進したものであります。・・・以下略」
この「天下門」は、昭和59年(1984年)に川崎市・香林寺を中心とした有志により
寄進・再建されたもののようだ。



「総門」前の駐車場は、乗用車を30台ほど収容できるスペースがあったが、
この日はガラガラ。
「西外門」・「天下門」を振り返る。



駐車場の東の端に、建長寺境内についての各種案内板があった。



「鎌倉市観光案内図」。



ズームして。



「​建長寺 境内図​」👈リンク
創建当時の伽藍配置は、中国宋時代の禅宗寺院を模したもので、総門・三門・仏殿・法堂・
方丈などの主要な建物が直線にならび、左右に大禅堂・大食堂を有する寺院であった。
その後、14、15世紀に起こった数度の火災により、その多くが焼失。江戸時代に入り、
高名な沢庵和尚や金地院崇伝の進言、徳川幕府の後援などによって、再建・復興し、平成15年の
創建750年事業によって現在の姿を迎えた。本山の他に塔頭12院を数える。



「総門」から「法堂」までを拡大して。



「​建長寺境内文学案内板​」👈リンク。
① 井上剣花坊川柳碑
 「咳一つきこえぬ中を天皇旗
② 柳下湖麿歌碑
 「雪の色風の響きも其儘か釈迦の姿と御声なり 鳧」
③ 蕉禅俳諧記念碑 
 「蕉禅俳諧記念碑 柳川堂璋翁
  世外居世外 無童爵庵吞海
  風見坊玉龍 山陰坊機外」
④ 石塚友二句碑
 「好日やわけても杉の空澄む日」
⑤ 葛西善蔵  滞在、執筆
  小說家  大正8年一12年潜在
   「おせい」「椎の若葉」他
⑥ 井上剣花坊墓所(川柳人)
⑦ 葛西善歲墓所(小說家)
    五味康祐墓所(小說家)」



そして正面に「総門」。



扁額「巨福山(こふくさん)」。
「巨」の字に1つの「点」が加えられていて、この点(百貫点)により、字に安定感が
出るのだと。



「総門
建長寺は、鎌倉時代、建長5年(1253)、禅によって国の興隆をはかるため、執権北条時頼公の
発願により、中国の禅僧・大覚禅師(蘭渓道隆)を開山として創建された。日本で最初の純禅の
大道場です。
建築は、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。
今の総門は、江戸時代、天明3年(1783)に京都・般舟三昧院で建立されたものを昭和15年に
移築しました。
額「巨福山」(大きな福をもたらす寺)は、中国僧、一山一寧(一山国師)禅師(建長寺第十世)の
筆です」



「総門」を入ると、拝観受付。



拝観時間:8:30 ~ 16:30
拝 観 料 :大人 500円 (高校生以上)、その他 200円 (小・中学生)。



その向かいに「朱印所」。


近づいて。



「三門」に向けて真っ直ぐに伸びる参道を進む。
石畳の両脇を庭園と見立て、美しい牡丹の花や立派な庭石が並んでいた。
桜は既に終わり葉桜に。



真っ赤な牡丹の花。



石碑なのであろうか、文字は全く不明であった。



こちらは「さざれ石」。



「さざれ石
この石は国歌「君が代」に歌われるさざれ石(細石)です。
石灰岩が長い年月をかけ溶解し、小石を凝結してこのような形状の石となりました。」



参道脇の牡丹の花を楽しみながら進む。



ピンクの色合いが見事。



こちらは牡丹ではなく、夾竹桃(きょうちくとう)のようだ。



そして正面に国重要文化財である巨大な「三門」。
高さ約30メートルの「三門」は、何度来ても目の前にするとその巨大さに
驚かされるのであった。



現在の建長寺の山門(三門)は、1775年(安永4年)、開山の蘭渓道隆の五百年忌に
当たり、二百一世万拙碩誼(ばんせつせきぎ)によって再建されたもの。
建長寺大工の河内長兵衛が棟梁を務め、「建長興国禅寺」の大扁額をかけるため、上層に
軒唐破風が設けられた。
三間二重門としては東日本最大の規模を誇る (国重文)。
楼上には、釈迦如来・五百羅漢・十六羅漢が安置され、その下を通ると心が清浄になると
いわれている。
「三門」とは、「三解脱門」の略で、涅槃(悟り)に至るために通過しなければならない
三つの関門(空・無作・無相)のこと。



扁額「建長興國禪寺」。



「三門(国重要文化財)
三解脱門の略。空・無相・無作を表しこの三門をくぐることによってあらゆる執着から
解き放たれることを意味する。
開山様の言葉に「福山は揮て(すべて)松関(しょうかん)を掩じず(とじず)無限の
清風来たりて未だ已まず」とあり、建長寺はあらゆる人々(修行者)に門を開放している事を
表している。楼上には、釈迦如来、​十六羅漢、五百羅漢(修行を完成された人​)👈リンク を
安置しています。
この建物は江戸時代・安永4年(1775)に万拙碩誼(ばんせつせきぎ)和尚などの
努力によって再建されました。創建当初は三門後方左右に大坐禅堂、大食(じき)堂があった。」



「三門」前の右手にあったのが「妙高院(みょうこういん)」。
貞和2年(1346)の創建の建長寺の塔頭の一つ。
禅宗では、高僧の塔があるところを塔頭という。
建長寺の塔頭は、その繁栄時には49院を数えたが、現在は12の塔頭が残っていると。



若昇山 妙光院は、第二十八世肯山聞悟(こうざんもんご)の塔所。
本尊:宝冠釈迦如来。
鎌倉観音巡礼第27番札所(聖観世音)
肯山聞悟は、建長寺創建時の史料「建長寺興国禅寺碑文」を撰文したことで知られる。
肯山聞悟像のほか、蘭渓道隆に仕えた乙護童子像が安置されている。



平成二十七年にいただいた
御朱印「鎌倉三十三観音 第二十七番 妙高院 聖観世音菩薩」。



「三門」を斜めから。



「三門」のニ階鐘楼に上がる階段が裏側に。



そして「三門」の右奥にあった「鐘楼」。
建長寺の梵鐘は、1255年(建長7年)、関東の鋳物師の筆頭だった物部重光によって
鋳造されたもの。
建長寺を創建した北条時頼が大旦那となり、開山の蘭渓道隆が銘文を撰している。
総高208.8cm、口径124.3cmで、平安時代の作風を踏襲している。
建長寺創建当時の貴重な遺品。
1933年(昭和28年)11月14日、円覚寺の梵鐘とともに国宝に指定された。


銘文の最後には、以下のように書かれている。
『建長七年卯乙二月二十一日 本寺大檀那相模守平朝臣時頼 謹勧千人同成大器
建長禅寺住持宋沙門道隆 謹題都勧進監寺僧琳長 大工大和権守物部重光』
鋳造した物部重光は、当時の鋳物師の棟梁で、高徳院の大仏鋳造も手掛けたものと考えられている。



ズームして。



反対側から。



国宝の梵鐘の「撞座」の反対側をズームで。
鐘身の撞木が当たる位置には通常2箇所の撞座(つきざ)が対称的位置に設けられると。
まれに4箇所に撞座を設ける例もあるとのこと。



「梵鐘(ぼんしょう)(国宝 重さニ、七トン)
この鐘は、北条時頼公の発願により広く施主をつのり、開山大覚禅師(蘭渓道降)の銘文、
関東鋳物師の筆頭である物部重光によって建長七年(一ニ五五)に鋳造されました。
銘文の中に、「建長寺」とあります。
左奥は、西来庵。開山大覚禅師を祀る塔頭。現在は、建長寺派専門道場を兼ね、雲水の
修行道場です。(非公開)」



「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺
この俳句は明治ニ十八年(一八九五)九月、夏目漱石によって作られました。
親友の正岡子規は、この句を参考に「柿くへばが鳴るなり法隆寺」を作りました。」



「鐘楼」の奥に歌碑があった。



井上剣花坊川柳碑
「咳一つきこえぬ中を天皇旗」
雨風に打たれ月日を物語る石碑。大正天皇が即位礼、大嘗祭(だいじょうさい)を行った際の
句といわれている と。



歌碑の裏には「レンゲツツジ」に似た花が。


 

                             ・・・​もどる​・・・

                   ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.05.19 15:34:34
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