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JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.07.05
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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
『​鎌倉散策 目次​』👈リンク

「和田塚」交差点を右折し「鎌倉市役所」方面に進むと左手にあったのが
「鎌倉彫工芸館」。
鎌倉市由比ガ浜3丁目4−7。



入口には扁額の如き「鎌倉彫工芸館」が。



鎌倉彫は経済産業大臣指定の伝統的工芸品(昭和54年1月12日)。
和田塚の向いにあるここ鎌倉彫工芸館では、鎌倉彫の販売、鎌倉彫のオーダー製作、
漆塗り加工の依頼、材料販売や展示会、講習会、体験教室等を行っているのだと。



工芸館ギャラリー内。
「鎌倉彫素材のかたち」展が6月1日(火)~6月30日(水)で行われていた。



案内標識。



「鎌倉彫工芸館」の前の一段小高い場所にあったのが「和田塚」。
建保元年(1213)2月信濃国の住人・泉親衡が前将軍源頼家の遺児・千寿を擁して北条氏の
打倒を企てた。しかし事前に発覚して、一味は捕らえられたが、その中に和田義盛の子・義直と
甥の胤長が加わっていた。義盛は二人の息子の赦免を願い出て許されたが、胤長について
執権・北条義時は許さず、陸奥国に配流された。北条氏にとって和田氏は、幕府創設以来の
功臣であり、最大のライバルである三浦一族であった。
北条義時が専制政治を行う為に、三浦、和田氏の抹殺が必要であった。5月2日和田義盛は密かに
北条氏打倒の挙兵の準備を進めた。当初は同族の三浦義村.胤義親子は協力する約束をしていたが
土壇場で裏切り北条に和田に謀反の企てありと北条に訴えた。和田一族は、軍兵150騎で幕府を
攻撃した。北条泰時以下、幕府の御家人達が必死に防戦したが、和田軍に突入され幕府の建物は
全焼となった。将軍・源実朝と北条義時は戦火をくぐって法華堂(現在の白幡神社)へ逃れた。
その後、5月3日幕府軍の軍勢が増えて和田軍は劣勢に陥った。義盛の四男・義直が討たれると、
義盛は戦意を失い江戸能範の手の者に討たれた。義盛67才であった。
こうして和田一族の乱は終わり、和田一族は滅亡した。和田氏が滅び、三浦氏の権威も失墜し、
北条氏の勢力はますます強まっていった。鎌倉の江ノ電和田塚駅の側に和田一族の墓があり、
俗に和田塚と呼ばれている。明冶25年、新道を開く為にこの塚の一部を掘ったところ
おびただしい人骨が出てきた。おそらく和田合戦の時のものであろうと言うことで
「和田一族戦没地」の碑が立てられた。



正面に「和田一族戰没地」碑。



右手に「戦歿者慰霊塔」碑。



石碑の裏面には
「鎌倉保勝會長男爵沖守固 明治四十二年九月二十五日竣工」と刻まれていた。



「和田塚
和田塚は建保元年、鎌倉幕府内部抗争による北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として今日まで伝承されている。
和田塚の前身は古墳時代の墳墓であったと言われている。大正末年ごろの開墾などによって多くの塚が壊されたが、五輪塔をならべた和田塚はかろうじて残った。鎌倉の歴史を語る上で貴重な遺跡である。      社団法人 由比ヶ浜青年会」                   



「和田義盛一族墓」。



多くの「五輪塔」がフエンスの近くに。
和田合戦に敗れて死んだ和田義盛一族234人の塚だと言われている。
なお、『吾妻鏡』には討ち取られた和田勢234人の首は「固瀬河の辺」で晒されたと
されており、現在のこの場所が正確な和田一族の埋葬地であるのかはわからないのだと。



こちらにも。
ここはもともと「無常堂塚」と呼ばれ、古墳時代の遺跡であった。鎌倉にある唯一の
高塚式古墳で、明治25年(1892)に道路工事を行った際、埴輪などの他に大量の
人骨がでたため、合戦で敗れて死んだ和田一族のものとされ、和田塚という名が
ついたものである。



「大震災殃死者供養碑」。
「当時の鎌倉町では412人が死亡しました。13の字のうちで死亡者が最も多かったのは
長谷の92人で、次いで由比ヶ浜の74人でした。
戸数662戸、内全潰176戸半潰192戸全焼105戸で、死亡者は74名重傷者は153名の多きに達した。
当区は本町の中でも比較的新しく発展した土地であるから、建物も従って新しく、且つ近代的
粗造の建物が多く、広大にして華偖(華奢または華侈?)なるいわゆる別荘建築も少なく
なかった。加うるに地質が砂層かあるいは埋立地であったために、一層震動が強く感じたので、
その被害も極めて激甚であった。すなわち六地蔵以西長谷境までの県道沿いおよび笹目通りの
一部を除いては、ことごとく全潰全焼の惨状を呈したのである。
(中略)
老婆と子供一人建物中の下敷きとなり救助を求める声明瞭にききとることができたが、いかんせん
火元に接していることゆえ救い出すこと能わず、まのあたりに人生最後の悲鳴を聞きつつ焼死の
やむなきに至ったということであるが、実に悲惨極まる一場面であった。
(鎌倉震災誌 鎌倉町役場編 1930年 由比ヶ浜の項より)」と。



題目碑「南無妙法蓮華経」。



右側の像は、お顔が針金で補修された馬頭観音像。



左手に江ノ電・「和田塚駅」。鎌倉から出た江ノ電の最初の駅。



「和田塚駅」ホームを見る。



鎌倉駅方面を見る。



純白の大きなアジサイの花。



由比ガ浜通りに出て、長谷の方向へ行くと鎌倉彫りの店「寸松堂(すんしょうどう)」の
特徴的な建物が見える。「寸松堂」の横の小道を進むと、「塔之辻」碑がたっていた。
「塔之辻
佐々目ガ谷ノ東南ニ方(あた)リ路傍二所ニ古キ石塔建テリ 辻ニ塔アル故ニ塔之辻ト言フラン
伝エ云 昔由比ノ長者太郎太夫時忠ノ愛児三歳ノ時 鷲(わし)ニ攫(さら)ハレ追求スレドモ得ズ 
父母ノ悲痛措(お)ク処ヲ知ラズ  散見セル片骨塊肉ヲ居ルガママニ 是レヤ吾児ノ骨 彼レヤ
吾児ノ肉カト思ヒツゝ所在ニ塔ヲ建テゝ之ヲ供養シ 以テ其ノ菩提ヲ祈レリ 是ノ故ニ鎌倉
諸処ニ塔ノ辻ト言ウ処アリ 此処(ここ)モ其ノ一ナリト 或ハ言ウ 往時ノ道標ナラント 
未ダ其ノ何レカ真ナルカヲ知 ラズ」

【鎌倉の長谷の近くに、佐々目が谷(ささめがやつ)という地区があります。その東南の方向の
道ばたに、古い石の塔が建っています。辻に塔があるので、塔之辻と言うと伝えています。
その昔、由比の長者時忠(ときただ)の子供が3歳の時、鷲(わし)にさらわれ、 追っかけた
けれどもつかまらず、両親の悲しみは大変なものでした。散らばっている肉片などを見つけると、
これは我がこの子の骨ではなかろうか、あれは我が子の肉ではなかろうかと、その所々に塔を
建てて、供養(くよう)しました。 それで、鎌倉のあちらこちらに塔の辻と言う所があり、
ここもそのひとつであろうといいます。またある人は、昔の道標であろうと言います。
いずれが本当かは分かりません。】



県道311号線・由比ガ浜大通りに戻り左に進むと「六地蔵」交差点に到着。



道の角に六体の地蔵が赤い頭巾をかぶり、よだれかけを首にかけて並んでいた。



鎌倉時代にこの場所からやや北によったところに、刑場があり、飢渇畠 (けかちばたけ) と
呼ばれる荒地だったが、処刑された罪人供養のために明治時代に六体の地蔵が建てられ、
その後、由比ガ浜の大通りと今小路の交差する現在のこの辻に移されたのだと。
六地蔵の背後には、松尾芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢のあと」と刻まれた句碑もあった。



赤いマスクをした六地蔵のお顔を左側から。



「此地は饑渇畑と稱し鎌倉時代 刑場の蹟 と傳へられ六軀の石造地蔵尊を祀られしに由り
俗に六地蔵と曰ふ天明年間に建てられたる芭蕉翁の句碑を存す大正七年鎌倉同人會石柵石垣を
築き此を整理せしが同會復之を修理する頃者有志相謀り新に菩薩の六地蔵を造り之を安置し
以て舊觀に復するを得たり仍りて石を建て其の所以を勒す 昭和九年三月」



「饑渇畑」碑
「此𠁅は 昔時の刑場なり 後 里人六地蔵を祀り 又供養塔 芭蕉句碑を建つ 
今石柵を繞(めぐ)らして此を整理す」

【ここは昔、処刑が行われていた場所で、のちに土地の人が六地蔵を置いて死者の霊を
祭りました。現在は、供養塔(くようとう)や松尾芭蕉(まつおばしょう)の句碑などがあり、
石の柵(さく)でかこい、整理されています。】



赤いマスクをした六地蔵のお顔を右側から。



六地蔵の後ろの石碑が松尾芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢のあと」と刻まれた句碑。



「文学案内板 松尾芭蕉句碑
夏草や 兵どもが 夢のあと 芭蕉翁
右側面 此札はたれにいふべき清水哉 東武独庵買明
左側面 天明六丙午歳五月
この碑を建てた松尾百遊は、本名を瀧右衛門といゝ雪の下に住んで旅亭「吾妻屋」を営み、
鶴岡八幡宮の別当寺院の一つてある等学院目代をつとめ、また、鎌倉絵図なども出していた。
「此札は・・・」の俳句作者買明は江戸神田和泉町に住んていた俳人で、別号を独歩庵とも
いった。
色蕉のこの俳句は、「奥の細道」の中の、元禄ニ年(一六八九)五月、平泉の中尊寺に詣でた
時の作で、鎌倉とは直接関係はないが、この地が昔刑場跡てあったことにちなみ、この句を
選んで建てたものである。」



鳥居と赤い石祠もあった。稲荷社か?



緑と白のアジサイ。
「アナベル」という品種であろう。嬰児(みどりご)が大人になっていくような変化。



そして「今小路通り」を鎌倉駅方面に向かって北に進む。



前方に石橋が現れた。



手前には青紫の朝顔の花の姿が。



下を流れる川の名は「さすけがわ(佐助川)」。



橋の名は鎌倉十橋「裁許橋(さいきょばし)」。
鎌倉時代の裁判所、問注所の近く、佐助川に架かる裁許橋。
近くに問注所があったため裁許橋と名付けられたのだと。
『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年)8月15日、東大寺勧進のために源頼朝を訪ねた
西行は、頼朝から与えられた銀製の猫をこの橋の近くで遊ぶ童に与えてしまったそうです。
この逸話から「西行橋」ともいわれるのだと。
そして「西行橋」から「裁許橋(さいきょばし)」に変化したのだという説もあると。



「さすけがわ(佐助川)」を見る。



そしてその先が「鎌倉市立御成(おなり)小学校」の南東の角。



左折して「鎌倉市中央図書館」方面に歩を進める。
右手奥が「今小路西遺跡(いまこうじにしいせき)」。
「今小路西遺跡」は、鎌倉市御成町の鎌倉市立御成小学校にある古代・中世の複合遺跡。
御成小学校遺跡とも呼ばれる。御成小学校の改築に伴う事前調査として 1984年から調査され、
きわめて良好な状態で上流武士の居宅をはじめとする当時の生活の実態を伝える遺構と
遺物が出土している。特に輸入陶磁を含む陶磁器、木器、木製品などが多い。
文字資料が語ることのできない生活の様子を伝える遺跡として重要な意味をもち、保存を
要望する意見も多いとのこと。



「鎌倉市立御成小学校」の校舎が見えた。



そして「今小路通り」まで戻り北に進むと「御成小学校前」交差点の角の石碑に気がつく。



これが「問注所舊蹟」碑。
「元暦元年(1184)源頼朝 幕府東西ノ廂(ひさし:脇屋)ヲ以テ 訴訟裁断ノ所ト為ス 
之ヲ問注所ト称ス 其ノ諸人群集シ時ニ喧騒ニ渉ルコトアルヲ厭(いとう:嫌う)ヒテ 
正治元年(1199)頼家之ヲ邸外ニ遷(移)ス 此ノ地即チ其ノ遺蹟ナリ」

【1184年に、源頼朝は、大蔵幕府の東西の脇の建物を裁判所とし、これを問注所といいました。
そこは、いろいろな人が大勢集まり、時には喧嘩になることもありました。
源頼家(よりいえ)は、これを嫌って、 1199年に問注所を屋敷の外に移しました。
この場所がその跡であります。】



「御成小学校前」交差点から「御成小学校」の「旧講堂」を見上げる。



御成小学校の創立は1933(昭和8)年12月で、写真の建物は10月に完成した講堂である。
明治期の木造校舎かと思っていたが案外新しいものだった。
当時の名称は「鎌倉郡立御成尋常高等小学校」。平屋の講堂なら屋根の上の2基の塔のような
ものは換気口の屋根。小学校が建つ以前は鎌倉御用邸があった。1931(昭和6)年8月にそれが
廃止されて鎌倉郡鎌倉町に払い下げられた。現在の校門は御用邸の正門だった冠木門。
御成町(おなりまち)という町名も御用邸に因むもので、1965(昭和40)年の住所表示変更の
ときの起立だから新しい地名。古くは「大町蔵屋敷」といったらしい。



こちらが「御成小学校」の正門は冠木門。



「鎌倉市立御成小学校」のある地は、明治天皇の皇女のための御用邸の跡地。
御用邸は1899年(明治32年)の造営。
1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊した後、再建されることはなく、1931年
(昭和6年)に廃止された。1933年(昭和8年)、御用邸跡地に鎌倉町立御成小学校が
開校し、正門には御用邸の冠木門が引き継がれた。



そしてこちらは「鎌倉市立御成小学校」の隣に残る旧鎌倉図書館の建物
(昭和11年(1936年)の完成)。



「(仮称)おなり子どもの家等耐震改修及び増築工事」案内板。



「旧鎌倉図書館について
「旧鎌倉図書館」は、関東大震災で倒壊した町立図書館の再建築が財政的に難しい中、
間島弟彦氏の遺志を受け継いだ間島愛子夫人からの寄付により、昭和11年( 1936年)に
建設されました。
昭和49年( 1974年)に図書館としての役目を終えたあとは、庁舎として利用していましたが、
老朽化などのため平成26年( 2014年)に閉鎖し、建物を解体する予定でした。
しかし、平成27年( 2015年)に市内外の方々から「保存・活用」についての提案、寄付等を
いただき、歴史的建造物が数多く存在する本市において、市民等との協働による新たな保存活用の
モデルの一つであると考え、「(仮称)おなリ子どもの家等」として保存・活用することに
なりました。」



昭和26年当時の「旧鎌倉図書館」。



完成予想図(南側(御成小学校側)立面図)。



「旧鎌倉図書館」の現状を別の場所から見る。



「今小路通り」。



今小路通りとは・・・
「新編鎌倉志」では、寿福寺門前にある鎌倉十橋の一つ「勝ノ橋」から南行し、東側の巽荒神社
前までの通りを指しています。「大日本地名辞書」には、「扇ヶ谷の谷口より南に馳せ、
載許橋に到る旧街の名で、今は寿福寺の門前の南をいう」とあります。
若宮大路の西側に平行するこの通りは、正式な通り名ではないものの、古くから
「今小路」と呼ばれ、地元の人々に親しまれてきました。
鎌倉商工会議所青年部では、平成20 (2008 )年度に、私たちが考える鎌倉の将来像を
"暮らす人にとっても、訪れる人にとっても、居心地のよい鎌倉”という「鎌倉ビジョン」として
まとめ、それを実現するための方策を提言書に取りまとめました。
この通り名板は提言の中にある、案内しやすい観光地としての鎌倉を目指す
「古の通り名復活プロジェクト」の一環として制作されたものです。」




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.05.19 15:55:13
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