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JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.10.15
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カテゴリ:海老名市歴史散歩
【海老名市歴史散歩】 目次

次に訪ねたのが「国分八景公園」。
海老名小学校の南にある公園。
台地の一番上にあることから、見晴らしが大変良く、海老名の市街地や遠く大山・丹沢山を
望むことができる眺めのよい場所。公園の名前は、この近くにあった龍峰寺に元禄年間に
滞在した鉄牛和尚がここから見える景色を「龍峰寺八景」という漢詩にしたことに由来している。
海老名市国分南3-1173-1。



「自然と歴史にさんぽみち」



公園の入口には四阿が。
園内には龍峰寺に元禄年間に滞在した鉄牛和尚がここから見える景色を「龍峰寺八景」という
漢詩・八景詩を記したモニュメントプレートが8枚あった。
「大山の夕照」、「島間の春耕」、「鴨沢の瞑煙」、「菅社の秋月」、「清水の鐘声」、
「湘浦の渡船」、「土峰の晴雪」、「祇林の緑樹」。



「大山の夕照」。



「大山の夕照
遠野煙生晩色濃 遥看大麗夕陽春
半如錦纈半如黛 滿目滄瓏千里重

遠野けぶり生じて晩色こし
はるかに見る大麓にタ陽のうすずくを
半ばは錦織のごとく半ばはまゆずみのごとし
満目滄瓏として千里かさなる


大山を臨む夕ばえの景は春のように思われる。野末遠く夕もやが立ちこめて夜のとばりは
おりようとしている。見はるかす遠方大山の山麓は夕日が沈むのをためらうがごとく半ばは
錦や蝋けつ染めのように美しい色彩を呈しながら、はや半ばはまゆずみのように山の端が
黒く細く薄れてゆく。見る見る中に見渡す限りの広い野は青黒く変わって行ってその濃淡が
幾重にもかさなりつつ全ての景象を暗黒の中に包み込んで行く。」



「島間の春耕」。



「島間の春耕
漠々平田接縁蕪 春鴻落處秩初敷
憑誰乞與ニ三頃 兩笠煙蓑了晩途

漠々たる平田、縁蕪に接す
春鴻落つるところ 秩はじめて敷く
誰によってか ニ三頃を乞い与えられなば、
雨傘煙蓑 晩途をおえん


果てしなく広がる、天平の昔を偲ぶ一帯の水田は緑の森につづいている。
春になると雁がねが田に下り立つと田仕事がはじまるのである。誰か私に二三頃の田をくれる人が
あれば、私は雨の日も蓑笠を着て耕作に従事し晩年をおえようが、まさかそんな人もあるまいて。



「鴨沢の瞑煙」。



石には「雁」の姿が。



「鴨沢の瞑煙 
鳴澤渺茫沙路脩 夕陽瞑色一堆愁 
曾從圓位遺歌詠 千古令人傷素秋

鴫(立)沢渺范として沙路ながし
タ陽瞑色一堆の愁
かって円位の歌をのこせしより
千古人をして素秋をいたましむ


鴨立沢は遥か霧の彼方に薄れて定かにはわからないが、そこに向かうらしい砂浜の道が
一すじ長く見える。
夕日が沈むにつれて景色はほのぐらくなって秋のかなしびが胸にしみる。
昔、西行法師が「心なき身にもあはれば知られけり鳴き立つ沢の秋の夕ぐれ」と和歌を
残してから、後世いつまでも俗人の心にまで秋を悲しませている。」



「菅社の秋月」。



石には「三日月」が。



「菅社の秋月
海嶽雲收轉桂輪 上方秋色最清新
欲求佳句寫幽賞 蘋潦先羞菅姓神

海獄雲おさまって桂輪転ず、上方秋色もっとも清新、
佳句を求め幽賞を写さんと欲し、蘋潦まずすすむ菅姓の神に。


海上の彼方の雲も山のべの雲もすっかり消えうせて、まん丸い月のみ中天に輝く、
まことに秋の中空は清新そのものだ。
よい句を作ろうとこの月夜の幽賞をほしいままにする道すがら、私はこの天神様まで
来てしまった。それでまず浮き草やにごり酒といった粗末な供物を捧げてどうか
よい句が出来ますようにとお祈りをする。」



「清水の鐘声」。





「清水の鐘声
清水樓臺遠近晴 隔山聽得□華鯨
何人能解發深省 送盡百年是此聲

清水(寺)の楼台、遠近晴れ
山を隔てて聴き得たり□華鯨(華鯨を鏗くを)
なに人をかよく解し深省を発する
送りつくす百年、これこの声。

清水寺水堂観音の堂宇のあるあたりは遠く近くよく晴れて、この竜峰寺からは一山隔てているが
その梵鐘の音に耳をかたむけることが出来る。この鐘の音で多くの人々が深い反省を以て
信心の念をいだいていたことであろう。まことにこの鐘の声はもう百年も鳴り続いて
いるのである。(さぞ多くの人々を度脱させたことだろう)」。



「湘浦の渡船
」。



湘浦の渡船
溶漾滄​□​​水拍天 行人幾度渉湘川​

早知世路風波嶮 來往可愛艶預船

溶漾たる滄ロ 水 天をうつ
行人いくたびか 湘川を渡りし
つとに知る 世路風波の嶮なるを
来往 愛すべし艶預船


これは夏の景であろう。相模川は水かさも増し、天を打つ程に流れは激しい。旅人達は
さぞ幾度かこの川を渡渉したことであろう。
この川をかち渡りするのを思うにつけても、世の中をわたる道のまことに風波けわしい
ことが思いやられるのである。しかし今は幸いに渡し船があって行くも来るもエンヨエンヨ
とこの急流を難なくおし渡ってくれる。まことに愛すべき存在だ。」



「土峯の晴雪





土峯の晴雪
西嶺千秋積雪繁 雲間湧出到銀盆
無涯景況一清絶 倚遍欄干占暁昏

西嶺千秋積雪しげく
雲閭に湧出しては 齦盆に至らん
かぎりなきの景況 いつに清絶なり
欄千に倚偏して 暁昏を占む


これは冬晴の早朝の富士の眺めである。

西の峯のいただきには千年の雪が降りつもり、その純白の峯は雲の間を抜け出して
丸いお月様にまで届きそう。さえぎるものとてないその景色はまことに清絶の一語に
つきる。寺の欄干によりそうて暁の暗さの中にくっきりと浮かび上がっているその姿。






祇林の緑樹」。
 


「祇林の緑樹
鬱密幽叢祇樹林 薫風殿閣滴清陰
區々紫陌紅塵外 來此應須洗客心

うつみつたる幽叢 祇林の林
薫風殿閣 清陰したたる
區々たる紫陌 紅塵の外
ここに来たりて まさにすべからく 客心をあらふべし。


うっそうと緑樹におおわれた聖域。今やさつきの快い風が寺の建物を包んで木陰も清く緑したたる
ばかり。市街地の紅塵万丈の雑踏から遠く隔たったこの境内こそ、ここに来ればきっと旅に
けがれた心もすっかり洗い落とされることであろう。」



次に訪ねたのが「尼の泣き水跡」であったが、その場所は綺麗に整地されていた。
[朝日さし 夕日輝く 国分寺 いつも絶えせぬ 尼の泣水]誰が歌ったものかは
わかりませんが、この歌とともに「尼の泣き水」伝説が語り継がれています。
天平13(741)年、聖武天皇は人々の平和な生活を願って、国ごとに国分寺と国分尼寺を
建てるように命じました。相模国では、風光明媚な土地である海老名の地に建てられることに
なりました。やがて天をつくような七重塔がある国分寺が建てられ、そこから北に500mほど
離れた場所に国分尼寺も建てられました。その頃、国分寺の下を流れる相模川で、魚を取って
暮らしていた若い漁師がいました。その漁師はいつしか国分尼寺の尼さんと知り合い、たがいに
愛し合うようになりました。尼さんは結婚が禁じられていましたので、2人は人目を忍んで逢瀬を
重ねていました。ある日のこと、若者が困った顔をしているので尼さんは何か心配事がある
のですか、とたずねました。若者はなかなか口を開かなかったのですが、やがて決心し、
七重の塔を含めた屋根の飾りがあまりにまぶしく輝くので魚が逃げてしまい、漁をしても魚が
取れないと話しました。尼さんはどうすることもできないので、だまってしまい、2人は
さびしそうにその場は別れていきました。その夜のことです。
「火事だー。火事だー。国分寺が燃えているぞー」漁師のことを思うあまりに尼さんが国分寺に
火をつけたのです。一度燃え始めた国分寺は、消すこともできず、一晩のうちに焼けて
なくなりました。尼さんは捕らえられ丘の上に生き埋めにされ、竹のこぎり引きの刑に処せられて
しまいました。その後、不思議なことに、その場所から一滴二滴と湧き水が流れ出ました。
村人は尼さんが罪をわびて流している涙といって、その湧き水を「尼の泣き水」と呼びました。
尼の泣き水は海老名小学校の上の台地にあって、昭和40年代頃まで清水が湧きでていましたが、
いつとなく枯れてしまいました。またこの場所に供養塔が建てられましたが、薬師堂(現国分寺)
境内に移されています とネットから。
海老名市国分南1-25-38。



書きながら思い出したが、先程訪ねた「相模国分寺」境内にあった、「​尼の泣き水​」👈リンクと
言われる如意輪観音と尼の供養塔が祀られている四阿(下の写真)が、以前はこの場所にあったが、
移されたのであろう。



尼の供養塔」。



元に戻って、整地された場所の奥には墓石が並んでいた。



墓地の左側。



墓地の右側。



更に南下していくと右手に高さ108.7mの「海老名プライムタワー」が現れた。
1995年6月竣工で、地上25階、塔屋1階、地下1階建ての高層オフィスビル。



「海老名市立海老名中学校」手前の右手角にあった石碑群。



道祖神を含む3基の石塔。



そしてその先にあったのが「龍峰寺跡」。
龍峰寺自体は先程訪ねた国分北に移転しており、現在は墓地のみがこの場所にあるのであった。
海老名市国分南3丁目10。



墓地への参拝者用の駐車場の奥には石仏群と石祠が。



石鳥居の奥に「大六天社」があった。



「六地蔵」が刻まれていた石碑。



こちらにも「六地蔵」が並んでいた。その左にも石仏が。
この裏の墓地周辺が「龍峰寺跡」であった。



そして「海老名市立海老名中学校」の校舎とグランドの間の道を北上した。
このグランドのある場所が「真福寺跡」であると。



「真福寺」についてネットで調べたが不明。



グランドの広さから大きな寺であったことは想像できたが。



Googleマップではこの方向が「幻想城」であるが・・・。
「幻想城」とは??



「海老名市立海老名中学校」の校門。



「吹奏楽部」が活躍中である様子。



そして引き返し「海老名中学校入口」交差点を左折して坂道を上って行った。
「海老名中学校」バス停を通過。



「南原隧道」を歩く。
上部は公園になっているようであった。



「南原隧道」を抜けて石段を上る。



「自然と歴史のさんぽみち」
次の目的地の「瓢箪塚古墳」まで120mを確認。



「海老名キリスト教会」に寄り道し教会前を通過。



「四十坂」を上って行った。



「四十坂」の案内柱を探したが・・・。
古東海道にかかる坂で、相模国分寺志という書に「古老の伝ふる所によれば、往昔はここに
関門の設があって銭四十文を徴し、人馬の通行を許したといふ とネットから。




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.05.18 18:49:49
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