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JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.11.12
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カテゴリ:海老名市歴史散歩
【海老名市歴史散歩】 目次

「土浦城跡」の散策を終え、国道125号を北上し次の目的地の「笠間城跡」に向かって進む。



国道6号、県道138号を利用して進み石岡市に入り、前方の「府中橋北」交差点を
左折し国道355号を進む。



「日本プロゴルフシニア選手権大会」観戦用の駐車場案内板。
ここ茨城県石岡市にある「サミットゴルフクラブ」でこの日の翌日の10月7日から
開催されるのであった。



石岡市内を通過。



ひたすら走り北関東自動車道「友部I.C入口」交差点を通過。



常磐線・上野東京ラインの踏切を渡る。



「笠間市役所」前を通過。



「芸術のかおるまち かさま」案内板。



そして駐車場のある「かさま歴史交流館 井筒屋」に到着。



この日の笠間市内の散策ルート。



「かさま歴史交流館 井筒屋」・旧井筒屋本館は、正月の初詣や菊まつりをはじめ多くの
観光客で賑わうこのまちのシンボルとして、長年にわたり市民に愛されてきた明治中期建築の
木造3階建ての建物。
東日本大震災により被害を受けたこの建物は、建築当時の雰囲気を残しつつリノベーションが
施され、笠間の歴史や観光情報の発信、市民や観光客の交流の拠点、「かさま歴史交流館 井筒屋」
として生まれ変わった と。



建物1階は、観光インフォメーション、続100名城112番笠間城スタンプ設置場所、
井筒屋カフェを併設。
2階は、笠間市生涯学習課による歴史展示コーナーを常設。
3階は、貸会議室2部屋があり、市内外に限らず予約申し込みで利用できると。



裏は芝生の公園になっていた。



人力車が展示?されていた。



1階の観光インフォメーションコーナー。
「井筒屋から笠間城跡までの道順」が写真入りで丁寧に説明されていた。



「日本100名城・続日本100名城 スタンプラリーについてのお願い」。



そして歌手「坂本九」が「笠間稲荷神社にて結婚式」を上げた時の写真が。
「戦争中の1943年10月26日に発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、多数の犠牲者を
出した車両に、疎開のために母の実家のある茨城県笠間市に向かっていた坂本九は母と
乗り合わせていた。ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。
成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」
として、終生信仰していたという。後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げる。
そして、日航機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する
決め手となった」とウィキペディアより。



「「上をむいて歩こう」の人気歌手 坂本 九(1941~1985)」
歌手「坂本九」の誕生
坂本九は、神奈川県川崎市で昭和16年(1941) 12月10日、港湾土木業の社長、坂元寛と
笠間町大町生まれの妻いくの3人目の子として生まれました。いくは後妻で、すでに先妻の子が
6人いましたが、9人の子を分け隔てなく育てたといわれています。「九」は本名で「ひさし」
と読みます。
九が誕生する2日前の12月8日太平洋戦争に突入。やがて戦争は厳しさを増し、ついに
アメリカ空軍が市街地を空襲するようになりました。両親は、母いくの実家がある
笠間へ疎開することにしました。佐白山の山裾の地に木造平屋建ての一軒家を急いで作り、
九が2才のころに移住。終戦後しばらくは、笠間幼稚園に通い、昭和23(1948)笠間小学校へ入学。
子供ながら家のために働きました。数年後、川崎へ一家で引き上げました。青年になった九は
ジャズ喫茶で歌っていたところを見出され、昭和33年(1958)ダニー池田とパラダイスキングの
メンバーとして、坂本九の芸名でプロデビュー。その後ソロ歌手となり、昭和36年NHKの
バラエティー番組で歌った「上を向いて歩こう」(作詞・永六輔、作曲・中材八大)が大ヒットし、
人気を不動のものとしました。
郷土笠間に残した功績
九は、歌手だけでなくテレビの司会・映画・舞台と多方面で活躍、ボランティア活動にも熱心に
参加しました。特に昭和51年(1976)から9年間、北海道各地の福祉施設を訪ねて障害者に話を
聞く札幌テレビの番組で司会者を務め、亡くなるまで5000人以上の人と会って自分の言葉で
語りかけました。
コンサートで手話を使って歌うことも坂本九がはじまりだといわれています。
「笠間は第二のふるさとです」が口ぐせだった九は、笠間幼稚園にピアノを寄贈したり、
笠間市役所の建設に協力するため歌謡ショーを開催したりと、笠間のために貢献しました。
昭和46年(1971)12月8日女優の柏木由紀子との結婚式を笠間稲荷神社で挙げて市内を
パレードし、郷土を大いに盛り上げました。市は感謝して、市庁舎の完成した昭和4 0年
(1965)4月1日にあわせて「坂本九歌碑」の除幕式を行いました。
昭和60年(1985)8月1 2日、日本航空ジャンボ機が、群馬県上野村の御巣鷹山に墜落、520人の
犠牲者の中に坂本九がいました。
43年の生涯でした。笠間では正午の時報に「上を向いてあるこう」、夕方5時に
「見上げてごらん夜の星を】の曲を流し、坂本九を偲んでいます。」



2階は笠間の歴史を知る「歴史展示コーナー」になっており、笠間城をメインテーマとしており、
絵図や復元模型のほか、パネル展示などで笠間城の歴史や昔の姿を紹介。
そして笠間市の政治や経済、産業、文化などの分野で大きな業績をあげた先人たちを
「かがやく!笠間の先人たち」として紹介されていた。





「笠間藩初代の藩主 松平康重(1568~1640)」
家康覇権の先兵
松平康重は、永禄11年(1568)三河国吉良(愛知県)の東条城で生まれました。
慶長6年(1601)、「関ヶ原の戦い」の翌年に、武蔵国騎西(埼玉県)城主であった松平康重が
3万石の笠間城主になりました。翌年5月、徳川軍に味方しなかった水戸城主佐竹義宣は、突然
秋田(秋田県)に領地がえになりました。康重は、留守になった水戸城のニの丸の守りを命ぜられ、
兵士を引き連れ水戸へ出発しました。
佐竹氏転封の後始末
徳川氏の使いへ城の引渡しが済むと、康重の役目も終わり、一時笠間へ戻りました。
ところが水戸ではその留守に、佐竹氏の元の家臣車丹波(くるまたんば)らが水戸城を奪い
返そうとする企てがあるとの知らせが康重の耳に届きました。
そこで軍を引きつれて急いで水戸へ引き返し、水戸城に駆け付けました。このとき笠間の町人も、
武器を持って加勢しました。こうした康重軍と笠間勢の働きで、車丹波らが行動を起こす前に
騒動を治め、水戸城を守ることができました。徳川氏は笠間町人のすばやい行動と協力に
大変感心し、褒美として笠間城下町のすべての町人が土地の年貢(税金)を納めなくてもよいことに
しました。笠間の町人は、その後笠間城主が代わても、この約束を守るよう文書で取り交わして
笠間城下町の誉れにしました。
幕府の字固めに尽力
慶長8年(1603)、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸に幕府を開きました。この時笠間藩として
たまわった3万石の領地は、旧笠間市の大部分、城里町の旧七会村の南半分、桜川市の旧岩瀬村の
大部分でした。この笠間藩の領地は、江戸時代終わりまで「笠間の城つき3万石」として扱われ
ました。
康重は、笠間藩主になって8年目の慶長13年(1608) 9月に丹波国篠山(兵庫県)へ5万石で領地がえ
になりました。ここは、幕府が西国をおさえる重要な所です。家康は、多くの大名に命じて
篠山城を作らせ、康重を城主にしたのです。康重は、徳川家康を支える大切な武将でした。
江戸時代初めに徳川家康の武将である松平康重が藩主になったことから、その後江戸時代を通して
笠間藩が続いていきました。康重は笠間の歴史を作った重要な先人と言えるでしよう。」



「徳川斉昭から名を与えられた鉄砲鍛冶 阪場志業(さかばむねなり 1833~1911)」
鉄砲師になり、水戸徳川家の家臣に
江戸時代の後期天保のころ、外国の船がたびたび日本へ来るようになり騒がしくなっていました。
水戸藩9代藩主徳川斉昭(烈公)は、海岸沿いの守りを固めるために大砲や鉄砲などを鋳造しました。
鉄砲は主に斉昭が駿府(静岡県)から招いた鉄砲師、国友尚志一門の手で製造されていました。
鉄砲製造は精巧な仕上がりが求められ、一人前の鉄砲鍛冶になるには、奥儀を修得しなければ
なりませんでした。そのひとりに阪場志業がいました。弘化3年(1846)、1 3歳になった志業は、
志を立て国友尚志の門に入りました。入門した志業は鉄砲について熱心に学び、数年のうちに
鉄砲を製造する高い技術を身につけました。19歳のころには、国友流鉄砲のロ伝秘技を習得
しました。一人前の鉄砲鍛冶になった志業は、水戸藩の武芸訓練所である神勢館の鉄砲師に
迎えられ、家臣として扶持(俸禄)をもらうようになりました。」
宍戸に移り鉄砲製造の継続
ある日、志業は水戸藩主の斉昭に自作の鉄砲を献上しました。
それがよい山来だったため、斉昭から「志業」名が与えられました。
元治元年(1864)、水戸藩内の争いが起こり、鉄砲を作ることができなくなってしまいました。
そこで水戸藩分家の宍戸藩松平頼位の招きで、志業は家族と共に明治3年4月、水戸をはなれて
宍戸(笠間市)へ移り住みました。まず、猟銃の修理を始め、やがて猟銃の製造が認められると、
再び製造を始めました。
明治後期になると、発動機を動力源に使えるようになり生産は急激に伸びました。製造する銃は、
元折単発猟銃、西洋式散弾銃、元折ニ連銃の他にピストルや空気銃・捕鯨銃も作りました。
鉄砲に命をかけた志業は、同44年10月6日に78歳の生涯を閉じました。亡くなる直前まで、
鉄砲を作る手を安めなかったといいます。鉄砲鍛冶として生きた年月は、実に65年に及びました。
志業は「幼い頃より仕事一筋に打ち込むことが、真の職人になれる道だ」という考えをもって
いました。徹底して技を身にけることが、次の代に引き継がれていくことになります。」



「世界に広まった合気道の創始者 植芝盛平(1883~1969)」

盛平の修行時代
植芝盛平は明治16年(1883)現在の和歌山県田辺市元町に生まれました。幼いころは体が弱く、
本の好きな子どもでしたが、18歳の時、東京へ出て仕事をしながら様々な武道を学び、
精神修行に励んで立派な青年に成長しました。大阪の軍隊へ入った時も、隊内一番の銃剣術
使い手として「兵隊の神様」と呼ばれるようになりました。
同45年、紋別郡白滝村(北海道)へ開拓民として移住しました。そこでも盛平は強靭な精神力を
発揮して、新たな村づくりに奮闘し立派にその目的を果たし、村人は盛平を「白滝王」と呼び
尊敬しました。
そんな折、宗教家の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)と出会い、人間の生と死、人間の
生きる道についてて教えられました。この出会いを機会に自分の生きる道を「武道一筋」と心に
決め、王仁三郎のいる京都府綾部市の地で「植芝塾」道場を開き、ひたすら武道の修業に励み、
自らの武術を「合気武術」として指導しました。時に盛平37歳、大正9年(1920)のことでした。
合気道世界へ翔く
昭和元年(1926)、厚生省から「財団法人皇武会」として認可され、柔道、剣道と並んで広く
世に認められるようになりました。
昭和17年(1942)、盛平は60歳のとき、「合気武道」を改め、初めて正式に「合気道」と
名乗るようになりました。「合気道を守り伝えなければならない」と考え、かねてから少しずつ
土地を手に入れていた岩間町(笠間市)に新たな合気の奥ノ院(神聖な場所)を作ろうと住まいを
構えました。盛平はこの岩間の地で、門人たちと合気道の真髄を極め続けました。盛平は
このころから世界に目を向けるようになりました。70歳をこえた盛平でしたが武道を通して
世界の人々が仲良くなることを最後の活動としようと精力的に普及に励みました。このような
活動が認められ同35年(1960)、盛平は紫綬褒章を受章など多くの勲章が贈られました。
そして86歳で東京の自宅にて安らかに息を引さ取りました。


「笠間藩政の資料をまとめた寺社町奉行 高橋義方(生年不明~1780)」
山外郷百姓一揆を収拾
高橋義方は、望月家(他藩の家臣)の次男で、丹治(たんじ)と名乗っていました。享保5年(1720)、
延岡(宮崎県)藩主牧野貞通家臣であった高橋義陳の養子になり、延享4年(1747)主君が笠間藩主に
なるのに伴って笠間に移りました。翌年に義方は寺社町奉行の役に就きました。
笠間に移って3年目の寛延2年(1749)、領内で百姓一揆が起こりました。この年は天候不順の
ために不作で、農民はいつものような年貢を納めることが出来なかったのです。山外郷(桜川市
旧岩瀬町の笠間藩領地) 42か村の内、27か村・約1000人の農民が年貢を減らしてもらおうと
城下町へ押し寄せました。しかし、このとき藩主の牧野貞通が、亡くなったばかりのうえ、
京都所司代という幕府の重要な役についていたので、勤務地である京都から出棺、葬式、法要を
行わねばならず、牧野家にとっては大変な時でした。次の藩主貞長が家督を相続すると、幕府の
勘定奉行の指導の下、義方を中心とした藩の役人は、一揆の中心者の取り調べを始めました。
14日間の厳しい調べの結果、掟を破った名主ら3名を死罪にし、その家族を領内より追放して、
田畑や家財を取り上げました。また、村々に一揆の知らせをした農民に10日から15日の入牢を
申しわたしましたが、村役人や一揆に参加した農民への責任はなしとして、罰をあたえません
でした。
聞訟礎石集の編纂
義方は、裁判をえこひいきなくより公平に判断しようと、幕府や藩、あるいは前の藩主の笠間の
政治に関することなどを調べて『聞訟礎石集』17巻にまとめました。内容を見ると、訴え状、
裁判の判決、刑法など裁判に関すること、村方の行政、領内の事情、証文、農政関係など幅広く
記録されています。この書は江戸時代中ごろの笠間の様子を知る誠によい資料です。
この書の序文で、義方は「寝ても鴬めても裁判のことに身を置き、えこひいきや秘密の打ち合わせ
や賄賂をなくし、人間として正しい道を歩むことに心掛けるために」と記しています。よこしまな
道に走らず、正しい道を行う役人として忠実に勤めを果たした藩士でした。
牧野家が新しい領地に移り、百姓一揆が起るとい最大の危機に誠心誠意職務を行ない、また正しい
裁判を進めるために記録をまとめて、藩政の基を築いた先人です。


「笠間藩の改革や飢餓対策を記録した藩士 手塚躬保(1777~1852)」
藩政改革の記録「十五年来眼目集」
手塚躬保(もとやす)は、安永6年(1777)に手塚芳躬(よしもと)の長男として江戸で
生まれました。躬保が15歳の寛政3年(1791)に父が病に倒れたので、家督を相続し、藩主
牧野貞長の世継ぎだった貞喜は近習役に就きました。このころの農民は重い年貢を納めなければ
ならず、暮らしは大変貧しく、村を離れたり、子供を養育出来ないために生まれたばかりの子を
殺したりする農家もありました。また、年貢に頼る藩の財政は大変厳しいものでした。
藩主になった貞喜は、これまでの政治を見直して、藩の政治を改革することにしました。この時
34歳の躬保は目付の役につき、改革政治がどのように進められたか調べて度々藩主に報告
しました。さらに躬保は改革について自分の考えを述べるなど、より良い政治を目指しました。
改革政治は文政7年(1824)まで実に16年間すすめられ、次第に農民の暮らしも良い方向に
向かいました。躬保はこの間の事情を後世に伝えようと藩政の記録を調べ、『十五年来眼目集』
(4巻)にまとめました。
天保飢饉の施策「救民記」
その後、天保3年(1832 )には24年間勤めた郡奉行の職の覚書として、主君牧野家の領地や幕府
から受けた朱印状や村々の石高などが記載された「郡官日省録(ぐんかんにっしょうろく)」を
まとめました。
天保4年と同7年は、全国的に天候が不順のた農作物が不作で、食料が不足となる大飢饉に
なりました。笠間藩はいち早く対応し、その中心的な働きをしたのが躬保です。農民の生活の
様子を調べ救済米を渡し、米を笠間藩領外へ出すことを禁止し、米の買い付け、飢饉食の指導
など次々と対策を施しました。同8年には躬保自ら東北の藩領を訪れ、飢饉の様子を詳しく調べ、
対策へ反映させました。
その結果領内の被害は少なかったと伝えられています。この飢饉のために行たことを記録したのが
『救民記』です。天保4年の『癸巳救民記』が2巻、同7年の『丙申救民記』が5巻、『救民記附録』
が1巻で全部で8巻950べージにものぼる大量な記録です。67歳の天保14年に記録が終り嘉水4年
(1851)の75歳の時に清書し、藩の役所に提出しました。その翌年、嘉永5年12月16日76歳で亡く
なりました。61年間に仕えた藩主は実に6人、その間農政に全力をささげた一生でした。その勤務
を後世に役立てようと、根気強く文書を調べて記録した生き様は、まさに家臣の手本と
言えましょう。


「薩摩藩の和算の指導者 甲斐駒蔵(1810~1861)」
師弟で「量地図説」を出版
甲斐駒蔵(かいこまぞう)は、文化7年(1810)に甲斐広盛の子として生まれました。
笠間藩士の和算(日本独自に発達した算数・数学)の教師松本英映(ひであき)にその手ほどきを
受け、恩師が亡くなた後は駒蔵がその跡継ぎとして笠間藩の和算の指導者となりました。
一方、江戸の和算の大家の長谷川寛(ひろむ)や長谷川弘の門弟となり、和算の実力を一層
高めていきました。
4 3歳の嘉永5年(1852)1月に『量地図説』を執筆、編さんして江戸の文会堂・山静堂から
上巻下巻を刊行しました。この書は手作りの簡単な測定器を用いて、田や畑・山や川などの
地形を測量することができる手引き書です。出版にあたり監修に師の長谷川弘、校正したのは
門弟の小野友五郎、序文は長谷川門下生の仙台の安倍勘司安円(あべかんじやすのぶ)、
あとがきは駒蔵門人の冨田彦蔵保敬、挿し絵は葛飾北斎の弟子の葛飾為斎(いさい)が受け持ち、
多くの人に支えられて見事に完成しました。
和算の才能を存分に発揮した刊行書
当時は外国船が日本近海にしばしば現れたため、国内では海岸沿いを外国から守る海防が
重大問題で、地図の作成が必要になっていました。発刊の翌年、アメリカの艦隊が浦賀に人港して
開国を要求したため、多くの関係者が測量の手引書とて『量地図説』を買い求め、今で言う
べストセラーとなりました。
ほかに『算法通解」という数学の書を編さんしました。この書は長谷川算学道場の発刊書の
一つで、和算の新しい問題や色々な和算の解説を10巻にまとめたものです。また、測量の計測を
和算で求める方法をまとめた書『算法量地大成』の編さんも行っており、駒蔵が和算の才能を
存分に発揮したことがよく分かります.
文久元年(1861)駒蔵は、52歳で亡くなり、桂町の玄勝院の墓地に葬られました。駒蔵は
すぐれた理数の才能を生かし、指導者として小野友五郎等多くの人材を育て、日本の和算の発展に
大きな足跡を残した笠間藩士でした。



「幕末の湜乱した笠間藩をまとめた藩主 牧野正倫(1843~1923)」
混乱した藩の沈静化に尽力
牧野正倫(まさとも)は、天保14年(1843) 5月11日、笠間藩用人の牧野正喬の次男として生まれ、
22歳で藩役所の番頭役に就きました。
元治元年(1864)3月に天狗党の乱が起こり、尊皇攘夷を目指す人々は、幕府の開国に反対し兵を
挙げました。幕府はこれを抑えるため多くの藩に出兵を命じ、江戸に居た笠間藩主
牧野貞直(さだなが)もこの命により、笠間へ向かいました。番頭役の正倫は藩主を迎えるために
府中(石岡市)まで進みましたが、天狗党に通行を妨げられてしまいました。天狗党に談判の末、
なんとか通行が出来るようになりましたが、国元からの伝令により笠間へ引き返しました。
笠間に着いた正倫は、藩主の所在や安否を確認するため、供一人をつれて笠間を再び出立しました。
そして、土浦城下で足止めされていた藩主一団を探し出し、それまでの事情を報告しました。
藩主貞直はその行動と武勇を褒め讃え、正倫を用人見習の重職に就かせました。
初代郡長として県政・郡に尽力
明治2年(1869)に正倫は執政(家老の職)となり、翌年9月には大参事に就任し、笠間藩の政治を
行う最高の責任ある立場になりました。
明治4年(1871)7月に「廃藩置県」が行われ、藩が廃止され県が置かれると、正倫は笠間県の
最高職の大参事になりました。茨城県に統合されてからも、県役所の笠間山張所の責任者として
職務にあたりました。
明治11年(1878)に西茨城郡が成立すると初代郡長として郡役所(当初は笠間小学校前)に務め、
その後久慈郡、真壁郡の郡長に転じますが、同19年に再び西茨城郡長となり、同30年まで郡の
政治に関わりました。
正倫は、幕末の混乱した笠間藩を武勇と知恵でまとめあげ、明治の新制度のもとで20年間郡の
責任者として郡政に尽くし、大正12年(1923)81歳でその生涯を閉じました。



「笠間城の歴代城主」
笠間城の歴代城主は、笠間時朝から天正18年(1590)までは笠間氏が代々城主を務めていました。
笠間氏の没落後、守都宮氏家臣の玉生(たまにゅう)高宗が、慶長2年(1597)に宇都宮氏が
改易になるまで笠間城主を務め、翌慶長3年には、浦生郷成(さとなり)が城主となります。
関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601)に松平康重が初代笠間藩主となりますが、江戸時代中期までは
頻繁に笠間藩主が入れ替わり、小笠原家、戸田松平家、永井家、浅野家、井上家、本庄家そして
井上家が2度目の笠間藩主を務めます。延第4年(1747)に延岡藩から牧野家が移封されると、
牧野家が藩主のまま明治維新を迎えることになります。



「歴代の笠間城主」。※ 中世は城主、近世は笠間藩主



「笠間氏 城主:笠間時朝、泰朝、家朝、高広、幹綱、綱家など」
鎌倉時代から天正18年(1590)まで、約380年に渡り笠間城主を務めたのは、笠間氏です。
笠間氏は、宇都宮頼綱の兄弟である塩谷朝業(ともなり)の子、時朝を祖とします。
笠間時朝は、鎌倉幕府の御家人として、『吾妻鏡』の嘉禎5年(1235) 6月29日の条に初めて
見られます。仁治元年(1241)には検非違使に任じられ、後に長門守になります。時朝は御家人
としての活動だけでなく、楞嚴寺(りょうごんじ)の木造千手観音立像、岩谷寺の
木造薬師如来立像、弥勒教会の木造弥勒仏立像、京都蓮華王院へ千手観音像2躯など、多くの
仏像を寄進しています。また、鹿島神宮に「唐本一切経」を奉納しています。和歌にも長けており、
『新和歌集』や私選集『前長門守時朝入京田舎打聞集』の編纂に携わっています。
御家人・歌人・仏像寄進、色々な側面が見える時朝は、高度な教養人でした。
時朝以後の笠間氏の動向については、断片的に追うことが出来ます。建武4年(1337)、
北朝方の佐竹義春は、烟田(かまた)時幹を率いて笠間城を攻めていることが
「烟田時幹軍忠状写」に見られ、笠間氏が南朝方であったことが分かります。
笠間家朝は応永4年(1397)、一円知行の安堵を受けていた笠間郡12郷と石井郷半分について、
鎌倉の宝戒寺子院三聚院による当知行をやめさせ、元のように知行出来るよう訴え出ていることが
「笠間家朝訴状案」に見られます。戦国時代の笠間氏は、宗家である宇都宮氏に属して行動を
しています。天文18年(1549)、宇都宮尚編と那須高資が衝突した喜連川早乙女坂の戦い
(栃木県さくら市)では、笠間高広が参戦していることが戦記物に見られます。笠間幹綱は、
同じく宇都宮氏に属していた益子重綱と領地境界のことで度々争っており、江戸時代後期から
編さんされた「新編常陸国誌」には、笠間氏と益子氏の戦いについての記載があります。
天正18年、笠間綱家は宗家宇都宮氏に攻められる事により笠間氏は没落しますが、その理由は、
綱家が小田原北条氏に与した事や過去の宇都宮氏への敵対行為を口実に討たれたのではないかと
いわれています。
笠間氏の動向は、不明な事も多いのですが、市内には笠間氏が創建に関わった寺社や寄進した
仏像などが見られ、領主としての笠間氏の一端を見ることが出きます。



「蒲生氏 城主:蒲生郷成」
慶長3年(1598)から慶長6年まで、笠間城主を務めたのが、蒲生郷成(がもうさとなり)です。
郷成は、初めは坂源次郎と名乗っており、柴田勝家に仕えていました。天正11年(1853)に
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が減ぶと浪人になり、蒲生氏郷を慕って仕官しています。
豊臣秀吉の九州征伐の際に、源次郎は岩石城(福岡県田川郡添田町)攻略の戦功を挙げるなど
めざましい活躍をしたことから、蒲生姓を名乗ることを許され、蒲生郷成と名乗るように
なりました。以後、蒲生氏の重臣として活動しています。天正18年(1590)、蒲生氏郷は
会津へ入封すると、郷成は阿子ヶ島(あこがしま)城(福島県郡山市)や二本松城(福島県二本松市)
に配置されます。葛西・大崎一揆や九戸(くのへ)政実決起の鎖圧において、郷成は氏郷軍の
一番先手として出陣しています。氏郷の跡を継いだ秀行は、慶長8年に家臣の対立の処遇が
不十分であることを理由に宇都宮へ移封させられます。この時、支城の一つであった笠間城に
郷成が配される事になります。
郷成が笠間城主の時代にも、登城路の改修や城下町の整備などが行われています。水田や湿地で
あった場所の埋め立てを行い、大町通りから弁才天社へ抜ける登城路を新設し、脇に武家屋敷地
を新設しました。現在の田町周辺です。また、城下町の防火、生活用水、灌漑用水として使用する
ため、涸沼川から分水し、また涸沼川へ戻す用水路を創設しました。この時改められた登城路は、
江戸時代を通じて使用され、用水路は一部暗渠化しながらも現存し蒲生用水とも呼ばれています。
郷成は笠間城の天守曲輸の整備を行っています。『笠間城記』以下『城記』には「重楼を阿武山に
営む」と記載されており(阿武山は佐白山頂の別名)、郷成が櫓を築いたことが、天守曲輪の整備を
行ったという解釈になります。この櫓は板造りであることが、後の藩主井上正利が板造りから
白壁造り改修している事からわかります。天守曲輸の石垣構築について『城記』には記載が
ありません。しかし、蒲生氏郷が会津に入封した際に、支城の多くに石垣を構築しており、
蒲生氏の出自である近江国出身の石垣技能集団「穴太衆(あのうしゅう)」を動員出来たことを
考慮すると、郷成によって石垣が構築されたと言えるでしよう。
蒲生郷成が城主を務めた時代は、近世城下町の整備が進みました。また、笠間城は近世城郭
として変貌する大きな画期であったと言えます。



「永井家 藩主:永井直勝」
元和3年(1617)から元和8年(1622)まで笠間藩主を務めたのが永井直勝です。
直勝は永禄6年(1563)、家康の父松平忠広に仕えていた長田重元の子として生まれました。
三河国碧海郡大浜郷(愛知県碧南市)の出身です。直勝が14歳の時に、家康の嫡男信康に仕えたが、
信康の死後は大浜に帰りました。天正8年(1580)に浜松の家康に仕え、30貫の地を賜り、
永井姓になりました。天正12年の小牧長久手の戦いに出陣し、羽柴秀吉の配下である池田恒興を
討ち取り、その功績により三河国内に1000貫の地を与えられました。小田原征伐の後、家康の
関東入国に伴い、相模国田倉、上総国市原、武射三郡の内、5000石の地を賜りました。
関ヶ原の戦いでは、家康の近辺を守衛し、戦後には近江国(滋賀県)の内、野州、栗太、蒲生、
甲賀の4郡で2000石が加増され、7000石となりました。大坂の役でも家康の近辺守護を務めて
います。家康没後は秀忠に仕えることになり、元和2年(1616)6月に上野国小幡藩
(群馬県甘楽郡甘楽町) 1万7000石に封ぜられ、翌元和3年に3万2000石で笠間藩に
封ぜられました。
幕臣としての直勝は、幕府体制の足固めの為に下働きに任じました。幕府の使者として、多くの
大名取りつぶしの後始末を行いました。例えば、元和5年(1619)に有力な外様大名である広島藩
の福島正則の改易の際には幕府の上使として城の明け渡しの交渉を行っております。また出羽国
山形藩の最上義俊の改易の際にも宇都宮城主である本多正純と共に正使としてその任にあたり
ました。そして、宇都宮藩本多正純の改易の際には、所領没収の申渡しをする役目を果たして
います。
笠間藩政としては、元和6年(1620)前後に領内の検地を行いました。慶長2年(1597)と同13年
(1608)に続いて3度目となりますが、その記録については、笠間市内には現存しておらず、
旧岩瀬町(現桜川市)犬田にわずか1部が残るのみです。また、天正慶長期に武功のあった諸士を
取り立て、領内境界地の守護に当たらせました。笠間藩移封時にはすでに没していた妻の菩提寺
として、盛岸院を建立しました。現在、盛岸院の墓地には永井家に関わる墓石などは現存して
おりません。
直勝は元和8年12月に、下総国古河城7万2000石で移封しました。笠間藩主を務めたのは
6年間でした。



「浅野家 藩主:浅野長重、長直」
元和8年(1622)から正保2年(1645)まで笠間藩主を務めたのが浅野長重・長直父子です。
浅野家は、清和源氏頼光流土岐市の庶流の光時を始祖とし、戦国期の浅野長政は豊臣政権で
五奉行を務めています。関ケ原の戦いで家康に従っており、慶長11年(1606)に隠居領として
常陸国真壁・筑波両郡の内5万石が与えられ、真壁藩が成立します。長政の嫡子幸長は、紀州藩
37万6000石で封ぜられたが、嗣子なく死去したため、長政の次子長晟が宗家を継ぎ、後に
広島藩に移封します。下野国真岡2万石の真岡藩主となり、慶長16年に父長政が死去すると
真壁藩5万石を継ぎました。長重は大坂の陣の活躍、江戸城半蔵門の修復、本多正純の所領
没収時には宇都宮城守衛と古河城の守衛などの功績があり、加増転封の話がありましたが
父の所領である真壁の領有を望むと、元和8年(1622)12月7日、真壁領の一部を含めた笠間藩に
移封となります。寛永9年(1632)に死去すると長政と同様に伝正寺(桜川市真壁)に
葬られました
長重を継いだのは嫡子の長直です。長直は慶長15年(1610)の生まれであり、笠間藩主就任の
前年に内匠頭に任じられています。
長直の時代に、笠間城下町が完成し、この時につくられた区割りや道路は、現在の笠間地区の
市街地の基となります。大町の西側に新町を新設し、町人町の「五か町」が完成します。
山居は上中級武家屋敷にし、法華町にあった真浄寺を現在地に移して鷹匠町を作るなど、
武家町も新設しています。浅野家時代の城下の様子は「常陸国笠間之城絵図」(正保城絵図・
国立公文書館)に見られます。また笠間城整備の一環として、下屋敷を新設しました。
笠間城は山城のため、政治を行うには不便なこともあったため、山城部分を残したまま、
現在の山ろく公園に屋敷を建設しました。浅野家以後、この下屋敷において政務が行われ
ました。正保2年に浅野家は赤穂藩に転封となり、長重・長直父子23年間の治世が終了します。



「浅野家系譜」。
浅野家の始祖
 浅野弾正少弼長政(1545~1573.9.26)は秀吉の天下統一後、論功により甲斐国甲府に築城し
 二十四万石の大名となる。
 秀吉の没後、石田三成と不仲から関ヶ原の戦いでは長男幸長と共に徳川方につき参戦。
長男 幸長
 関ヶ原戦の論功で紀伊国三十六万六千五百石の大名になるが後継がいなかった。
次男 長晟(ながあきら)
 大坂夏と冬の陣で武勲を立て、幸長の後を継ぎ紀伊国藩主を経て、安芸国と備後半分の
 四十二万六千五百石の広島城主となり明治まで続く。
三男 長重
 二代将軍秀忠の人質として江戸に住み小姓として仕えて寵愛され、慶長六年(1601)に
 下野国真岡に二万石を賜り大名となる。
 慶長十一年(1606)には隠居して常陸真壁五万石を賜るが元和八年(1622)に病没。
 嫡男の長直が常陸笠間領主を継ぐ。
■赤穂藩浅野家初代藩主 長直

 名君と謳われる。
   常陸笠間領主から正保元年(1644)一月十一日、赤穂五万三千石に転封となり赤穂浅野家が
   誕生する。
 長直の功績

  • 赤穂城の築城「一国一城令」発布後に許可を得て十三年かけて築城
  • 新田の開墾 新田を開墾して新田村をつくり、米を増産する
  • 塩田の拡張 江戸に於ける塩市場を独占する生産体制を確立する
  • 上水道の整備 江戸や福山と並ぶ日本三大上水道を造り上げる
  • 山鹿素行を家老待遇(1000石)で招き藩士の資質向上に努める
浅野内匠頭長矩 | その生涯と赤穂藩浅野家の一部始終
   【https://akoinfo.com/akogisi/asanotosiro/asanoke.html】より

「本庄家 藩主:本庄宗資、資俊」
元禄5年(1692)から元禄15年(1702)まで笠間藩主を務めたのが本庄家です。
本庄宗資は、寛永6年(1629)に摂関家の1つ二条家の家司本庄正宗の子として生まれます。
異父姉の「お玉」(桂昌院)は、3代将軍家光の乳母「春日局」の部屋子となっており、
5代将軍綱吉の生母です。宗資は綱吉に仕え、綱吉が館林藩主になると、家老次席になります。
延宝5年(1680)に綱吉が将軍になると、宗資も江戸城に入り、元禄元年(1688)には、60歳で
1万石の大名になります。異父姉が将軍の生母という縁もあり、大名に昇進してからわずか5年で
城持ちとなり、元禄5年に笠間藩主になります。
宗資の笠間藩における事積については、領内の寺社の保護が挙げられます。元禄8年、明暦の大火
以後、笠間城内の寺院の失火や火災を恐れて禁止していた佐白山正福寺の参拝を37年ぶりに
再開し50両を寄進して宝塔を修復させました。他にも、福田村の不動堂と阿弥陀堂を金30両寄進
して修復させ、岩屋寺にも金30両を寄進して薬師堂を補修させ、大般若経を奉納しました。
また、三所神社の社殿の再建を行っており、領民の信仰を高めようとしています。藩政の一環
として、孝行を重視しました。領内の孝行者を調べて、表彰することで、領民に考養(親に孝行を
つくすこと)を高めさせようとしました。宗資の子である資俊は、万治元年(1658)生まれで、
延宝7年(1679)に館林城時代の綱吉に召されており、翌年綱吉が将軍に就任すると、父とともに
江戸域に人ります。元禄12年に没した宗資の遺領を継ぎました。
在封期間が短いため、資俊の藩政に関する記録については残されていません。
家資の異父姉が将軍綱吉の生母であった事から、宗資は叔父、資俊はいとこにあたります。
宗資の時代には、将軍の御成(将軍が臣下の邸宅に訪問すること)が度々あり、大変名誉な
ことでありました。資俊も将軍綱吉と桂昌院の御成もありました。また、家資が没した際には
綱吉は2日間、江戸中の鳴り物を禁止し自らも3日間、喪に服していました。小大名に対する
ものとしては異例の事であり、綱吉と宗資の関係を物語っています。



「牧野家 藩主:貞通、貞長、貞喜、貞幹、貞一、貞勝、貞久、貞直、貞寧」
延享4年(1747)から明治4年(1871)の廃藩置県まで笠間藩主を務めたのが牧野家です。
近世大名の牧野家は、宗家の越後国長岡藩、常陸国笠間藩などがあり笠間藩牧野家は、
5代将軍綱吉の側用人となった牧野成貞の後裔であり、下総関宿藩、三河吉田藩、日向延岡藩を
経て、笠間藩主になります。
笠間藩牧野家の初代貞通、延岡藩時代に幕閣の一員として享保の改革に関わり、後に京都所司代
となっています。貞長は大阪城代や京都所司代となっています。貞長は大阪城代や京都所司代を
務めた後、老中になっています。寛延2年(1749)、山外郷百姓一揆(旧岩瀬町)が起こり、農民
約千名が笠間城下町へ押し寄せています。藩政は次第に衰えていき、人口や米の生産高が減少し、
上方の豪商や領内の有力農民、商人から調達金を出させて凌いでいましたが、加賀藩との対立が
予測されたので、良水は責任をとって自刃します。文化6年(1809)、藩政改革を実施しました。
農民を保護する政策を実施し、倹約令と取締りを行い、家臣の俸禄を削減し質素倹約を
させました。
文化14年(1817)、人材育成の場として家臣の秋元純一郎の家塾「欽占塾」を昇格し、藩校
「時習館」を創設します。貞幹は、父貞喜の藩政改革を引き継ぎます。藩校時習館を整備し、
藩医長谷川宗仙の屋敷を医学所「博采館」として、武術の修行の場として「講武館」を
創設します。
貞勝の急逝後の天保12年(1842)、貞久を推す門閥派と、貞喜4男の布施重正の子舗三郎を
擁立する改革派で相続争いが生じます。貞久は7歳で家督を継ぐと、改革旅は後見役に重正を
すえて藩政を改革しようと、儒学者加藤桜老が中立派家老の牧野光保に直訴します。光保は
門閥旅の解任と自身も藩政の混乱を招いたとして自刃しました。
貞久は16歳で死去したため、舗三郎が養子になり、牧野貞明(後に貞直)として藩主になります。
安政6年(1859)、現在の笠間小学校の敷地に「時習館」、「講武館」、「博采館」を統合
した藩校「時習館」が開館します。貞寧は版籍奉還後に笠間藩知事に任命され、廃藩置県に
なると免ぜられました。



「小野友五郎と咸臨丸」。
安政2年(1855年)8月、測量・航海術および蘭語への精通を買われ、老中阿部正弘からの
直命により、長崎に設置された幕府の海軍伝習所に入学した。測量術の実践を16箇月の間学び
修了後、江戸へ戻り築地の軍艦操練所教授方となる。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節派遣が決定されたが、
その護衛および航海訓練として軍艦奉行木村芥舟を提督とする咸臨丸も派遣されることになった。
小野も同僚で海軍伝習所の同窓生であった艦長勝麟太郎(海舟)を補佐する測量方兼運用方
(航海長)となって、アメリカへ航海する。同乗した米国海軍の測量士官ジョン・ブルック大尉
は小野の測量術の練達ぶりに感心し、以後親交を結ぶようになった。



「​小野友五郎年譜​」👈リンク




「小野友五郎(51歳) 1867年ワシントンにて」。



「咸臨丸」のミニチュア。



「小野使節団」
幕末期の徳川幕府が海軍力を増強するため南北戦争直後のアメリカに軍艦や兵器を購入するため
小野友五郎を正史とする使節団をアメリカに派遣した。
使節団の顔触れは次の十名であった。
正 使  勘定吟味役      小野友五郎
副 使  開成所頭取並     松本寿太夫
外国方  調役次席・翻訳御用  福沢諭吉
     通弁御用出役     津田仙弥
     通弁御用御蔵     尺(せき)振八
海軍方 小十人格軍艦組一等   小笠原賢蔵
        同       岩田平作
勘定吟味方 下役        神野信之丞
小野の従者           関某、石川某



「友五郎使節団」。



「小野使節団航路図」
小野使節団行程(旧暦表示)
慶応3年 1月23日 横浜発(米船コロラド号)
      2月26日   サンフランシスコ着
      3月19日 ニューヨーク着
      3月22日 ワシントン着  
      5月10日 ニューヨーク発
      6月5日   サンフランシスコ発
      6月26日 横浜着  



「小野友五郎と和算」
小野友五郎は十六歳の時に笠間藩算術世話役の甲斐駒蔵に師事し猛烈に一般算術・量地術を学び、
その実力を認められて江戸表に転勤を命ぜられ、益々算術に磨きをかけた。
友五郎は数年独学で勉強して甲斐駒蔵の勧めもあり関流の一派である長谷川算学道場へ入門する。
入門後も算術の進化は目覚ましいもので師の駒蔵と並ぶ伏題になる。ここで駒蔵とともに
量地図説という測量の本を刊行する。その後、幕府天文方勤めを命じられる。
こでは暦の編集や冬至・夏至・日蝕・月蝕などの天体観測を行う。
ここで西洋数学をも学んでいる。この頃、友五郎の住む笠間藩下屋敷の近くに住んでいた
江川担庵(太郎左衛門)に砲術や砲台の建設も学んでいた。友五郎は明治維新後も長谷川道場に
籍を置き、斎長という最高位に挙げられている。この社有列名には甲斐駒蔵・小野友五郎の外に
笠間藩士の富田彦蔵・黒木隆蔵・本郷興助の名前が見える。



「(A.ジョンソン)大統領からの口上書
小野友五郎松本寿太夫余は足下(資下より上の敬語)等の合衆国政府へ来れるを信実に喜び、
且つ大君殿下が安全を祝し我が国民の幸福を祈るとの趣下より述べしは余(大統領)が感謝する
所なれば其の意を大君殿下へ報告せらるべし、小野友五郎・本寿太夫合衆国と日本との間に
親睦の交わりあらん事を貴国政府において信はますます信を固くし嫉妬は常に疑心より生る
ものなり、合衆国と日本とは強い友人たらさるを得んや、この両国の間は彼の所有を此れより
羨むの理なく徒に事を起こして彼此相害するの趣意なし これ両国の相遠隔せる所なり余は
当初に於いて日本国の名代人へ面会するを喜び明次件を告ぐ余が今言う所のことは遠く世界中に
達して差し支え無きものなり
合衆国の初めて日本へ入るを許されし時より余輩は双方の使を顧す足下の用向きは便利を計りて
外国事務執政(国務省高官)へ談判すべし然る上は我が政府に於いては幸いに親友の国へ対する
如く意を用い、礼を尽くして其の志願を達する様周旋すべし、且っ又我が政府の能する所にて
事柄に差し支えなくば足下へ忠告し足下と相談し足下を扶助するは快とする所なり。」



「漢字制限建言書
日本では難しい漢字が多く子供の教育発展に支障を与えているので漢字数を制限
しようとする建言書を明治ニ十三年十一月に栗本鋤雲とともに貴族院議長の蜂須賀茂韶に
提言した。このことで明治三十三年文部省が漢字制限に着手した。」
「小笠原群島実測測量
小笠原群島実測し測量図を完成小笠原群島の領有権が英米の間で騒がれ始めたため、幕府は
咸臨丸艦長として友五郎に小笠原群島の測量を命じ経緯度天測・海岸線測量・水深測量などで
正確な実測図を作成した。
このことが現在も日本の領土として残ったわけである。」



「小野友五郎と鉄道
友五郎はニ度にわたる訪米の際、蒸気列車を見てこれからの日本の富国殖産振興には鉄道が
必須であると考えていた。明治新政府の民部省に移った友五郎は日本で最初の東京と横浜間の
鉄道建設に際し、横浜と六郷川間の測量技師長として活躍した。
その後、東海道線と中仙道線の調査測量を佐藤政養と共に行い、東海道線案が採用されている。
東京青森間・九州炭鉱鉄道の調査測量も実施している。
日本の鉄道史では友五郎を抜きには語れない。」
左:東京青森間 { 東北本線 } の調査測量出仕命令書   壬申十一年二日   工務省
右:中山鉄道建設調査測量出仕命令書         明治六年三月廿九日 工部省
友五郎は東海道線も調査測量し東海道線案が採用された。



「長崎海軍伝習所・咸臨丸
幕府天文方から出来たばかりの長崎海軍伝習所一期生として派遣を命ぜられ39名の一人として
学ぶことになる。ここでは航海術・造船術・機関術などの技術と西洋数学・物理学・天文学を
学ぶ同期生には矢田堀景蔵や勝海舟など優秀な人材が多く明治になって活躍した者が多かった。
伝習所を終えて幕府所有の蒸気艦観光丸で日本人のみの操船で江戸に戻る。友五郎は築地海軍
操練所の8名の教授方になる。その中にはジョン万次郎もいた。
1858年日米修好通商条約を締結する使節団を乗せる米艦ポウハタン号の護衛と幕府海軍の実施
訓練を兼ね咸臨丸航海長として乗り組み真冬の荒れ狂う太平洋をセキスタント(六分儀)で天測
しながら太平洋を横断する。帰国後、友五郎の活躍を知った将軍家茂は艦長の勝海舟を差置き
単独で謁見し特別褒章を授ける。将軍へのアメリカ土産は皮の財布とカメラであった。
この年友五郎は幕臣となる。
咸臨丸乗り組員と荷物
軍鑑事行 木村摂津の守喜毅
艦長   勝第太郎
教授方  佐々倉構太郎
 ″     浜口興右衛門
測量方      小野友五郎
蒸気方      肥田浜五郎
   ″           山元金次郎、
通弁主務   中浜万次郎(ジョン万次郎)
右の外、日本人九六名
アメリカ海軍大尉 j・ブルック他十一名
積み荷は米十一・四トン、醤油四一四リットル、味増六樽、漬物六樽、茶三十kg 砂轤七樽、
鰹節一五百本、梅干四嚢 豚ニ匹、鶏三十羽、あひるニ十羽、石炭五十トン、石油一八〇リットル
ろうそく千本、炭ニ百俵、薪一三五〇束、西之内和紙三百枚、半紙七百枚、美濃紙三百枚、」



「笠間城の絵図
笠間城について描かれた絵図が多数残されています。大別すると、①笠間城とその城下を
含めて描かれているもの、②自然災害によって被害を受けた破損箇所の修復のために幕府へ
提出された絵図です。①で代表的なものは、正保城絵図にある「常陸国笠間之城絵図」です。
この絵図には、城郭内の建造物や堀などの城郭各部の情報や城下の町割り、山川の形が描か
れています。現在の地形測量図と絵図内の笠間城の曲輪の形状は、一致するところが多くみ
られます。また、江戸時代中期になると、城下まで含まれた笠間城の絵図がつくられていま
す。②では、被害状況、修復箇所について記載されており、江戸時代中期の笠間城の姿が見
て取れます。特に天守曲輪の石垣の配置については、現況と一致する所もあります。その他
にも、岡山大学池田家文庫に所蔵される絵図や『從行日記』内の笠間城市略図に描かれたも
のも、笠間城を理解する上で重要なものと言えるでしよう。



「常陸國笠間城」。



「日本古城絵図 常州笠間城初」。



「日本古城絵図 常州笠間城初」
国立国会図書館蔵
年代:寛文年間~元禄年間頃
寸法: 78cm X81cm
松平康重が笠間藩主を務めていた時代の笠間城の姿を描いたとされる絵図。
旧鳥羽藩主稲垣家旧蔵の城郭絵図集の中の一つであり、笠間城初は松井松平家
文書中にある慶長年間の笠間城絵図の精巧な写しと考えられる。笠間城が近世
域郭として整備された当初の蒲生郷成時代から松平康重時代の笠間城の姿を
うかがわせるものである。曲輸の規模が記載されており、大手口の向かいには正福寺が
描かれている」



「常陸国笠間之城絵図」。



「常陸国笠間之城絵図
国立公文書館蔵
年代:正保年間
寸法: 270cmX278cm (原寸)
笠間城と域下町の様子が描かれている絵図。正保元年(1644)幕府が諸藩に命じて作成させた
城と城下町の地図。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深など城郭各部の情報や、城下の
町割・山川の位置、影が詳細に記載されている。絵図は上書きに「域主井上河内守」とあり
正保2年に浅野家に代わって笠間藩主となった井上正利の時代に提出されたことがわかる。
この絵図には、本丸南東に櫓があったことが描かれている。」



「笠間城」のジオラマ。



「笠間城の縄張り①
笠間城の縄張りについては、近世の絵図からその範囲をうかがうことが出来ます。絵図から、
笠間城の縄張りは佐白山山頂周辺に展開することが見て取れます。
①天守曲輸:蒲生郷成によって整備されたといわれる天守曲輪では、残存状況の良い石垣が見られ、
山頂には櫓を転用した佐志能神社が鎖座します。北東斜面には腰曲輪、南西斜面には腰曲輪と
竪堀が見られます。
②本丸:南西側に土塁が配され、特に鍵型に残存する土塁は大規模な高土塁です。土塁上に
八幡台櫓の土台となった礎石が残り、玄関門跡にも礎石があります。
③二の丸:本丸北側に位置する二の丸は、南北約70m、東西約50mの空間です。西側に土塁が
みられ、北東側が窪むような地形は「常陸国笠間之城絵図」と一致します。
④帯曲輪 :ニの丸の北西から北側斜面には、帯曲輪が展開します。残されている絵図と比較すると、
北側の帯曲輪は道路により一部破壊されていることがうかがえます。
⑤大手門辺:笠間城の大手口は、枡形を構築するように土塁が配されています。山城域とは、
大規模な堀によって区画されており、木橋か土橋によって渡っていたものと考えられます。
周辺には石垣が見られます。
⑥的場丸(千人溜):大手門の北東側には的場丸という広大な空間が展開します。軍勢などを
集めるための空間であったことが推測され、現在は駐車場として使用されています」



「笠間城の縄張り②
近世に城郭として把握されていた笠間城の範囲以外に、的場丸北東側や帯曲輪北西側にも
城郭遺構らしきものが見られます。
⑦笠間城跡北西側遺構
二の丸斜面帯曲輪の北西側の尾根筋を利用した曲輪が展開します。一番北西側の曲輪には、
土塁と空堀がみられ、虎ロらしき遺構も見られます。この場所は侍屋敷地として絵図に描かれて
いることから、中世の城郭遺構を引き継ぎつつ利用されたものと考えられます。
⑧正福寺跡
的場丸より道路を挟んだ北側のピークには正福寺があり、絵図上にも見られます。正福寺跡を
取り囲む堀跡は、明らかに防御施設として捉えられるものです。
⑨正福寺跡東側の遺構ー
正福寺跡の東側にも城郭遺構らしきものが見られます。ピークの平場にはわずかですが土塁跡が
確認され、複数の腰曲輸は配置されています。⑦同様に、近世には侍屋敷地として把握されて
いることから、中世以来の遺構を引き継ぎながら使用されていたものと考えられます」



「笠間城の石垣
笠間城の特徴の一つとして石垣があげられます。現在、笠間城跡では11ヶ所で石垣が見られます。
天守曲輪では頂上の佐志能神社に至るまでに三段の石垣が見られ、笠間城で見られる石垣の
中では一番整っています。東日本大震災により一部が崩落する被害に見舞われましたが、現在は
応急処置を施しています。また、天守曲輪以外にも、本丸玄関門手前や大手門周辺などにも
みられ、積み石の大きさや積み方等の違いから、構築された年代や用途の違いが推測されます。
①天守曲輪の石垣
笠間城の中で一番整っている石垣。
上・中・下の三段があり、下段の隅角部(折れ曲がっている部分)では算木積という石垣の技法が
見られます。
②玄関門手前の石垣
玄関門へ通じる通路にある石垣。切石を隙間なく積んでいることから、天守曲輪の石垣より
時代が下るものと推測されるが、用途の違いによる可能性もあります。
③大手門裏手の石垣
高さ4m以上あり、比較的大きめな石を積んでおり、間詰め石を使用しています。笠間城内の
石垣では古いものの一つと考えられます。
④帯曲輪西に築かれた石垣
敵が侵入のしやすい谷状地形を寸断し、防御するために築かれたと考えられる石垣。
天守曲輪下段や大手門裏手の石垣の積み方と似ています。」


「笠間城絵図」の複製展示品。



「常陸笠間城之図(複製)」。



発掘された「笠間城の瓦」。



「木造弥勒仏立像 弥勒教会蔵」。



「木造弥勒仏立像(国指定重要文化財)
弥勒教会蔵
年代:宝治元年(1247) 像高: 175.2cm
指定:大正9年8月16日
弥勒教会に伝わる弥勒仏立像。ヒノキ材の寄木造で、漆箔が施され、玉眼嵌入である。
螺髪は各粒を大きめにつくり、各々に旋毛を彫出する。肉髻は低くて地髪の鉢が張り、
その髪際はゆるい波形となっている。衲衣の衣文は複雑であり、この時代に流行した
中国宋朝の様式と鎌倉彫刻の様式が確立された13世紀中頃の一典型である。光背は
二重円光で頭光心八葉、台座は蓮肉一材で蓮弁は打付け、敷茄子は二枚矧であり、
光背、台座ともに造立当時のものであるとされる。像内墨書銘より、造立の願主として
笠間時朝の名前がみられ、右足柄の内側には「ロ時朝同身之弥勒」とあり、時朝と同じ
背丈であることがわかる。」



「笠間城跡の立地
茨城県笠間市は、県の中央部に位置し、首都圏から約100km、県都水戸市に隣接します。
笠間城跡は笠間市の北部、笠間盆地を東側から見下ろす標高207mの佐白山頂付近に立地し、
独立丘陵の西端部の複雑に入り込む侵食谷により形成される尾根のピークを巧みに使用した
山城です。北西には毎年5月に開催されるつつじまつりの会場となるつつじ山公園があります。
笠間城は、中世にその起源を持ち、近世は笠間藩主の居城として機能した城郭です。中世、特に
戦国時代は、多くの山城が機能していました。しかし近世になると、山城を廃棄して新たに平地に
城郭を築くことが一般的であり、笠間城のように山城を使い続けることはまれなことです。
笠間日動美術館の近くにある佐白山ろく公園は、かっての笠間城の下屋敷跡であり、笠間藩の
政務はこちらで行われていました。笠間城の北側に位置する坂尾には、食い違いの土塁が残って
おり、坂尾の出入り口を守る虎口になっています。
旧城下町は、佐白山の西麓、標高40 ~ 50mの涸沼川左岸に展開していました。
現在は笠間稲荷神社の門前を中心とした市街地になっており、城下町の風情をわずかに残します。
「五か町」と呼ばれる町人町については、旧町名などで確認することが出来ます。
笠間稲荷神社の北側には、笠間時朝が居を構えたといわれる麓城のものと思われる土塁が
わずかに残っています。
中世・近世にわたって使用・維持された笠間城ではありますが、時代が経るにつれてその姿を
変貌したと考えられます。」。



「笠間城の歴史
笠間城については正徳元年( 1711 )に井上氏の家臣久保整伯によって編纂された「笠間城記』
(以下「城記』と省略)に記載されている事項が基礎情報となります。この『城記』に記載された
情報を参考にしつつ、笠間城の歴史について見ていきます。
笠間城は、承久元年( 1 219 )に築城が開始されたといわれています。
築城者として伝わる笠間時朝は、宇都宮一族塩谷氏の出身です。築城以前の佐白山には、
佐志能神社や正福寺などがあり、宗教的空間が展開していました。『城記」には、正福寺と
徳蔵寺(東茨城郡城里町)との寺院抗争の際に、正福寺の生田坊は宇都宮頼綱に助力を請い、
頼綱は甥の時朝を大将として軍勢を送り、時朝は徳蔵寺衆徒の制圧後に佐白山に取って返し、
正福寺の伽藍を破却したとあります(築城後に六坊を再建)。同時に佐志能神社も遷座しています。
このようにして笠間城の築城に取り掛かったとされ、嘉禎元年(1235)に完了しました。
西麓には麓城と呼ばれる居館を構え、笠間氏の拠点となったと考えられます。
南北朝争乱期の建武4年(1337)の「烟田時幹軍忠状写」に「笠間城」の文言が見られ、史料上で
笠間城の存在が確認できます。実際に山上に城郭を築き始めたのはこの頃と考えられます。
天正18年(1590)に笠間氏が没落するまで、笠間氏が城主を務めていたことから、笠間城は
長期間にわたって整備・拡張されたものと推測できます。天正18年以後の城主玉生氏は、
登城路の整備と町場の建設を行っています。慶長3年( 1598 )の蒲生秀行の宇都宮移封に伴い、
蒲生郷成が笠間城主になると、佐白山頂付近の天守曲輪や登城路などの整備を行っています。
関ヶ原の合戦後、徳川氏譜代の松平康重が初代笠間藩主となります。江戸時代中期までは
藩主が度々入れ替わりますが、延享4年(1747)に牧野氏が藩主となると、牧野氏の下で
明治維新を迎えます。元和8年(1622)から正保2年(1645)に藩主を務めた浅野氏の時代に、
笠間城下屋敖を建設し、現在の町割の基となる城下町が完成されました。井上氏の時代に、
天守櫓が改修されており、牧野氏の時代には、風雨によって崩落した石垣・堀の修復が
行われています。
明治3年(1871)、政府に笠間城の破却を願い出て許可されることにより、破却・廃城と
なりました。」



来館者の「学習机」であろうか。



「続日本100名城 笠間城」のスタンプを頂きました。



この日は、このブログに各種説明書きを転記しながら、「笠間の歴史」「笠間の先人たち」、
「笠間城」について多くを、頭から溢れ出しながらも学んだのであった。

                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.05.18 18:44:41
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