7424810 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Freepage List

Comments

Favorite Blog

岡山駅構内と山陽本… New! 隠居人はせじぃさん

東海道まち歩き (2)… New! オジン0523さん

【100円ショップのピ… Gママさん

バイクのシートが裂… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Headline News

Archives

Calendar

2022.04.27
XML
カテゴリ:茅ヶ崎市歴史散歩
​【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次

「柳島海岸」交差点を過ぎ「大貫釣具店」の先に小さな石仏が三体納められた
小さな祠・「柳島海岸の地蔵」があった。



そしてその先、松林の中に様々な石碑が立っていた。
まずは「湘南道路之碑」。



「湘南遊歩道路複工記念式
湘南大橋の柳島海岸側に建てられた湘南路の碑。
前列左からニ人目が、湘南開発期成同盟会長として、道路速成運動をくり広げた元茅ヶ崎町長
新田信。
茅ヶ崎市所蔵」


     【https://www.ys-park.jp/process/2016/07/25/710/】より

その先にあったのが
「善行者之碑」。



裏面の碑文には
「内藤亀太郎表彰碑文
君は資性剛直にして寸蒙も不正を許さず、終始之を生活の真情としていました。
偶々市内県有林の保護を命じられるや、終戦来頻発する盗伐監視に挺身して、海岸の美観を保ち
国土の保全に努力し昭和23年3月1日、27年5月、2回に亘って知事の表彰を受けま した。
誠に徳のいたしたるもので、ここに碑を建てて君の功績 を後世までたたえるものであり ます。
昭和28年3月31日  前懸會議長  添田良信 書」とあった。



湘南道路の碑
昭和の初期、神奈川県は湘南海岸一帯を観光地・住宅地として開発するために、今の藤沢市の
片瀬から大磯町までの海岸に「湘南遊歩道路」を造る計画を立てました。その頃日本は不況の
時代で、この工事には失業者対策としての意味もありました。工事は昭和6年から始まり十年には
ほぼ完成し、この道路に湘南の発展が期待されていたことが碑文から伝わってきます。
相州砲術場と柳島湊跡の碑
江戸時代、柳島の河口に湊があり、四百石船を駆使して江戸や伊豆へと往来する廻船業が
営まれていたこと。その東側海岸部には「地頭林」があって、徳川幕府はここを西端として
(藤沢市)片瀬村にいたる範囲に海陸両用の砲術調練場(鉄砲場)を設置していたことを後世に
伝えるために、昭和44年地元有志によってこの碑は建てられました。碑文からは、熱心な
郷土愛が読みとれます。
善行者之碑
湘南遊歩道の両脇には、飛び砂を防ぐために松の木が植えられていましたが、この砂防保安林は
強い海風を直接受けるため常に監視をしておく必要がありました。柳島の内藤亀太郎さんは、
この保安林の監視をしていました。終戦直後、いろいろな物資が不足した時、燃料にするために
保安林の松がよく盗まれました。彼はこの時、とくに熱心に保安林を守りぬいたことによって、
当時の県知事から二度も表彰を受けました。この碑は、彼の努力をたたえて建てられた
ものです。」



朱の鳥居の先に石祠があった。



扁額「八大龍王」。



「八大龍王神」の石祠。



最奥にあったのが
「相州砲術場竝柳島湊跡の碑」。



「相州砲術場竝柳島湊跡之碑」。



「ここ柳島は湘央海岸に位置し風光明媚の地なり 東方江の島三浦房總西半島の高山遠近に眺望し
西方遠く富嶽を望みつつ雨降丹沢足柄箱根を連ぬる山塊蜿々起伏して天城山系を連ね其海上延びる
ところ真鶴岬となる 南は蒼海渺泡として天に流れるたりに大島を浮かべ 陸に接するところは
優雅な弧を描いて湘南州砂帯を形成する そのほぼ中央を縦断し相模野を東西に両半して南流する
相模川がある 落ち口の東は往時の柳島湊で西河口須賀と相対し相模中部の海港として四百石を
盛る廻漕船等七艘を常備し東は江戸西は伊豆地方に船脚を伸ばしたその東に地頭林が現存する
これは世に云う砲術場の西極点西百町場の名残りである 相模砲術場は亨保十三年徳川幕府が
海陸両様の調練場として設置し 初め鎌倉郡片瀬駒立山上に下げ矢場を江の島海上に◯打矢場を
定め 天明六年打小屋を高座郡辻堂引地川岸に移したが調練場の規模は駒立山より柳島地頭まで
幅員約一粁帯状の海岸一帯を包合した 幕府はその隣村に鉄砲場見廻役を課して常時監視
させ随時ここに大筒役以下七卒派遣して砲術調練を行わせた これは常時の海岸警備を
有事国防に備えたものである 江戸時代鎖国の間は僅かに長崎出島を通して海外先進文化に
接したにすぎなかったが 蘭学から学び得た西洋科学は 和蘭医学と砲術に表現された 
その砲術調練が行われたこの地点にわが国科学史の上に永久記念さるべきものである 
然るに現今社会の急激な変様はその史蹟を殆んど潰滅せしめ僅かに鉄砲道の名稱と柳島
地頭林に旧貌を留むるにすぎない この時に當り茅ヶ崎市有志相語りて碑を立てこれを
後世に傳え遺さんとする まことに意義ある企図として稱讃さるべきである この前に
佇むもの右建碑の趣旨を銘記されんことを希んでやまない
昭和四十四年四月 文学博士 服部◯道 撰」



松林から出て少し戻り、海岸に向かって進んで行った。



「しおさいの森案内図」。



「湘南海岸砂防林」。



防ネットが続く。



「湘
南海岸は、たくさんの人で賑わう海岸の一つですが、都市化に伴い侵食が進んでいます。
その対策として、侵食が進む箇所に士砂を投入する養浜を実施するために、
相模ダムなどから土砂を運搬し、柳島海岸で一時的に保管しております。
この場所を利用されている方々には、大変御迷惑をおかけいたしますかが
ご協力をお願い申し上げます。」



そして「相模湾」が現れた。



茅ヶ崎西浜海岸の先端にある白き「茅ヶ崎港南防波堤灯台」の先に「江の島」の姿が。



して「烏帽子岩(姥島)」をズームして。



東側の「茅ヶ崎海岸」方向を望む。



海岸から国道134号に出て歩道橋を渡り江の島方向を見る。



平塚方向を見る。



茅ヶ崎市柳島海岸の住宅地内を北に向かって進む。



そして「柳島嚴島神社」を訪ねた。
神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸13−40。



「柳島嚴島神社」の社殿。
御祭神:市杵島姫命   ( いちきしまひめのみこと )
例祭 :4月5日。



扁額「嚴島大神」。



「柳島自治会 柳島海岸集会所」。



こちらは「境内社」の「半僧坊」と。



鳥居の扁額「半僧坊」。



「半僧坊」の社殿。



中央に「板駒型庚申塔」が。
 延享4年(1747)4月28日
 日月(手持)・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿
 正面右側「延享四丁庚天」
  〃左側「四月廿八日」
左に「猿田彦大神」碑。



右に「川崎大明神」。
正面に「川崎大明神 白龍大明神 青龍大明神」の文字と蛇のような龍が彫られていた。
龍は想像上の動物で蛇が年功を経て龍となり雲を呼んで天に昇るといわれる。
海、池、沼などに棲み雨を降らせる霊力をもつもので雨乞いに全国各地で龍神として祀られる
ことが多い。この石塔右面には明治三十一年四月廿七日午前三時ノ出現とある。
左面には「触光柔軟 弥陀佛二千玉」、裏には、「八大龍王」と。
「八大龍王」とは仏法を守る八体の龍王のことで、海上の守護神・漁業の神として漁業関係者に
祀られているとのこと。



石祠。



石祠内の石仏。



「道祖神」碑。



道の奥にあった小さな社。
神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸18。



「柳島嚴島神社」から戻ると民家の庭のユキヤナギが。



「柳島自治会 柳島海岸集会所」を表側から。



再び国道134号に向かって防砂林の中を戻る。



国道134号に戻り再び江の島方向に進む。



右手の国道脇にあったのが「南湖の地蔵」。
神奈川県茅ヶ崎市南湖7丁目。



「西浜中学校前」交差点を左折する。



右手にあったのが「茅ヶ崎市立西浜中学校」。
神奈川県茅ヶ崎市南湖6丁目15−3。



茅ヶ崎市南湖6丁目周辺の「住居表示街区案内図」。



この後に訪ねた「茅ヶ崎 太陽の郷」の建物であったか?



神奈川県営水道のマンホール蓋。
中央に県の花:ヤマユリが 県の木:イチョウ そして県の鳥:カモメをデザイン。



「茅ヶ崎 太陽の郷」は広域避難場所になっているようであった。
「太陽の郷」は、明治32年に創設され、東洋一と謳われたサナトリウム「南湖院」
(明治32年~昭和20年)の跡地に建てられた住宅型有料老人ホーム。
温暖な気候に恵まれた湘南茅ヶ崎の海辺近く、約30,000㎡の緑豊かな広大な敷地に
昭和54年1月(1979年)に、創設されたとのこと。



「太陽の郷」入口に到着。



「太陽の郷」の敷地の中に入って行った。
建物の裏の温室の如き建物はプールのようであった。



そして目的の「南湖院」が前方に。
名称は地名の南湖(ナンゴ)に拠るが、濁音を嫌った設立者の高田畊安(こうあん)によって
「ナンコイン」と称されたのだと。



「南湖院」はかつて東洋一のサナトリウム(結核療養施設)と謳われていたのであったと。



「南湖院 第一病舎」と。



「国登録有形文化財(建造物) 旧南湖院第一病舎
明治三十ニ(一八九九)年、医師・高田畊安(こうあん)によって設立された結核療養所
「南湖院」。母の名を冠して竹子室と命名された第一病舎から始まり、最盛期には約五万坪の
敷地の中に十四の病舎や測候所などが点在し、「東洋一のサナトリウム」と謳われました。
最初の入院患者の勝海舟夫人や国木田独歩、八木重吉らが療養するなど、多くの著名人が療養や
見舞いに訪れています。
その後、昭和ニ十(一九四五)年、米軍の茅ヶ崎海岸上陸を想定した日本海軍の接収により、
南湖院は、結核療養所としての歴史に幕を閉ざすこととなりました。翌年、米軍に接収され
キャンプ・チガサキとなり、接収解除後は海水浴客のキャンプ場などとして利用されながら
今日まで受け継がれてきました。
第一病舎の建物は、採光通風に配慮されており、北面に切妻屋根の玄関、西面に階段室が
設けられています。明治建築らしい下見板張(したみいたばり)塗装仕上げで、縦長の上下窓と
三角ペディメント、胴蛇腹がアクセントとなり、風格ある外観を構成しています。療養地として
著名な湘南に残る貴重な建物で、平成三十(ニ〇一八)年三月ニ十七日、国登録有形文化財(建造物)に
登録されました。」



銘板「登録有形文化財 第14-0256号
この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」と。



縦長の上下窓と2階の三角ペディメントが美しい「​旧南湖院第一病舎​」👈リンク
の建物であった。
入院患者には、国木田独歩(1908年)、八木重吉(1926年)らの文学者も多く、見舞いの文人を
交えた文学交流が展開された場としても南湖院は有名であったと。



「​旧南湖院第一病舎​」👈
リンク 前から南側を望む。
広大な敷地に驚いたのであった。



「「太平洋戦争」がはじまると物資が不足し、「南湖院」でも十分な治療や療養ができなくなって
いった。戦後は米軍に接収され、療養所としての使命を終えた。
現在跡地には、高齢者の集合住宅「太陽の郷」、「茅ヶ崎市立西浜中学校」、「神奈川県立
茅ヶ崎西浜高等学校」などが建っている。
この写真の奥には唯一昔の姿を残す「旧南湖院第一病舎」(国登録有形文化財)がある。」と
ネットより。


   【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p02.html】より

そして更に北に進みむと「日本基督教団茅ヶ崎南湖教会」があった。



茅ヶ崎教会(中海岸4丁目。1927年創立)の開拓伝道によって1993年に建てられた
プロテスタント教会。
この教会が立つ南湖の地は、かつて明治、大正、昭和にかけて東洋一の結核療養所と云われた
「南湖院」がありキリスト教信仰に立った医療をなされたことから、この地が茅ヶ崎の
キリスト教発祥の地との思いを深くし、ここに教会を建てたいとの祈りによってできた
教会である と。



                              
                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.05.21 18:22:38
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.