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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.05.22
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カテゴリ:茅ヶ崎市歴史散歩
​【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次

次に訪ねたのが江戸時代の奉行・大岡忠相(おおおかただすけ・大岡越前守)をはじめとする
大岡家の菩提寺として知られる「浄見寺(じょうけんじ)」、過去にも何回か訪ねている寺であるが。



「大岡越前守菩提所」碑。
江戸時代の奉行大岡越前として知られる大岡忠相を輩出した大岡氏は、初代忠勝の三男である
2代目当主大岡忠政の代に広忠の子徳川家康に仕え、家康の関東入国に従いここ高座郡堤村
(茅ヶ崎市)に知行200石を与えられ本貫地とし、後には同郡の大曲村(寒川町)、高田村
(茅ヶ崎市)を加え600余石となる。
慶長16年(1611年)、大岡家2代目当主大岡忠政が、亡父の初代当主大岡忠勝を慰霊するために
建立したのが、浄見寺の始まり。開山は深誉円察(一説に柴田勝家の子といわれる)。



享保2年(1717年)に南町奉行となった大岡忠相は、翌3年に名主たちの意見も取り入れ、
火消組合の組織化。
享保15年(1730年)には、いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて
統括したと。
大岡越前守墓提所と書かれた石柱の側面には彼が組織した町火消しの大纏の絵が刻まれていた。



裏面には「各區仲好會」と刻まれた火消し関係団体からの奉納者の名前が刻まれていた。



山門前の「掲示板」。



「元祖 法然上人 御忌(ぎょき)」ポスター。
法然上人滅後の大永四年(一五二四)正月十八日、後柏原天皇の詔勅により上人の御命日を
特に「御忌」と尊称することとなったとのこと。
令和四年度は四月二日(土)~七日(木)に増上寺で行われると。



そして「四月大歌舞伎」のポスター
  令和4年4月2日(土) 初日 ~ 27日(水) 千穐楽  《休演》11日【月】 19日【火】
第一部 午前11時開演  通し狂言 天一坊大岡政談
第二部 午後2時40分開演 
    江戸絵両国八景 一、荒川の佐吉  ニ、義経千本桜
第三部 午後6時20分開演
    一、ぢいさんばあさん ニ、お祭り
  


2022年4月2日(土)に歌舞伎座にて初日を迎える歌舞伎座『四月大歌舞伎』。
第一部では、通し狂言として『天一坊大岡政談』が上演される。
この度、尾上松緑氏が茅ヶ崎市・浄見寺大岡越前守の「​墓参り​」👈リンク をしたとのこと。


   【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より

「本堂」に参拝する歌舞伎俳優の尾上松緑氏。


    【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より

寺号標石「浄土宗窓月山源忠院 淨見寺」。



裏には「宗祖法然上人八百年記念」と刻まれていた。



寺号標石の後ろに立つ案内板。
浄見寺の弁才天坐像
    昭和四十一年十月二十五日 神奈川県重要文化財指定
    銅造弁才天坐像  一躯
弁才天は音楽、財福などをつかさどる女神で、水とも深い関係をもつとされています。
頭上に人頭蛇身の宇賀神をいただいた像高約十センチメートルの像です。鎌倉時代末期から室町
時代にかけてのものと考えられますが、来歴は不明です。
頭、体部をとおして一鋳とし、腕はそれぞれ別鋳として本体にほぞでとめてあります。それぞれ
の腕についていたはずの持ち物は宝珠のみを残し、また光背も失われています。弁才天像は二臂、
八臂の像が多く、本像のような六臂像は大変珍しいものです。」



浄見寺の六臂の「弁才天坐像」をネットから。
像高11cmの小さな弁才天だが、銅造で六臂をもつ珍しい優品である。
室町時代の作と考えられ、美術的にも優れたものである。


   【https://ch.kanagawa-museum.jp/exhibition/5337】より

「山門」。



扁額「窓月山」。



「山門」を潜ると右手には鐘楼があった。



梵鐘。



別の角度から。



左手に手水舎。



「法然像」。
浄土宗では法然を元祖と崇めている。



「旅立ちの法然さま」碑。



浄土宗を開かれた法然上人は幼名を勢至丸といい、美作国(現在の岡山県)にお生まれに
なった。九歳の時父親の漆間時国公は夜討ちにあい、「仇を恨んではならない」と
遺言した。
勢至丸は父の菩提を弔うため母とも別れ、叔父の智鏡房観学が院主を勤める菩提寺に入り仏教を
勉強した。「一を聞いて十をさとる」勢至丸の非凡な才能を早くから見抜いた智鏡房は、求道の
志が篤いのを知り、さらに勉強を勧めるため、当時学問の(仏教)中心地であった比叡山へ
旅立たせのだと。
時は久安三年(1147)勢至丸十五歳の春のこと。
この「旅立ちの法然さま」は、母と別れ一人比叡山をめざし旅立つ勢至丸の平和を求めるお姿を
表すものである と。



お顔をさらにズームして。



大きな石碑。



「贈従四位大岡忠相御廟宇塋域修築記念碑



ひたすら漢字が続いていた。



「十三重石塔」が手水舎の先に。
十二という数は、十二因縁、十二支を意味。因縁を超えた十三という数、宇宙の摂理である
十二支、十二か月を超えた十三という不思議な数に因んだと。
また十三は十三仏の最後、虚空蔵菩薩をあらわしているとされ、十三重の塔は虚空蔵菩薩を
あらわすと。




大岡家と浄見寺
大岡家の始祖の地は三河国(現・愛知県)で、家系図には左大臣藤原教実の子孫とあります。
鎌足を祖とする藤原氏の一族です。教実は京の九條に屋敷を構えたことから姓を九條と改め、後に
その子孫が三河国の大岡に居を移して大岡を名乗りました。



現在に続く大岡家の初代忠勝は、徳川家康の祖父にあたる松平清康ならびに父広忠に仕えて武勲を
上げ、広忠より「忠」の一字を賜り、それまでの名を改めて忠右衛門忠勝としました。
二代忠政は、天正19年(1591)5月3日に家康より相模国高座郡堤村を賜りました。その後、
慶長16年(1611)に、三代忠世が父兄の冥福を祈るために窓月山浄見寺を建立しました。
寺山号は初代忠勝の法名である「大綱院殿忠誉窓月浄見居士」に由来しています。以来、今日まで
大岡家代々の菩提寺となっています。
「大岡裁き」で有名な五代忠相は、享保2年(1717)2月3日に町奉行に就任し、官職名を越前守に
改めました。町火消しの結成、小石川養生所の設置、物価政策などに尽力する一方で、多くの人材を
登用しました。後に、寺社奉行に就任し奏者番を兼ね、加増によって一万石の大名となり、
三河国西大平に陣屋を構えました。
大岡家との縁により、西大平藩のあった愛知県岡崎市と浄見寺のある茅ヶ崎市は、昭和58年に
「ゆかりのまち提携」を結び、現在においても様々な交流を続けています。
歴代当主の系統図。



「手水舎」、「十三重塔」、「旅立ちの法然さま」を見る。



同じ場所から「本堂」を見る。



「本堂」前の「慈母・水子水子観世音菩薩像」。

DSC08232_R.JPG

「慈母・水子観世音菩薩」。



観音菩薩像の左右に水子地蔵(右側)。



観音菩薩像の左右に水子地蔵(左側)。



「延命地蔵尊」。



近づいて。



「絵馬奉納場所」。
こちらの正面には「大岡七宝紋」が。
七宝は連続文様の『輪違い紋』から生まれた文様。輪が四方に広がるという意味から「四方」➡
「七宝」になった。また、仏教では宝塔を飾る七つの宝玉が功徳を指すことから「七宝」も
吉祥の紋とされる。



大岡忠相の法名は「松運院殿前越前刺史興誉仁山崇義大居士」であることを
この位牌から以前に知ったのであったが・・・。



今年の干支の寅の絵馬。



達磨の絵馬。



墓所入り口の階段の前に立つ「六地蔵



赤い帽子の地蔵様に干支の石像が奉納されていた。



そして「本堂」の前に。



巾着袋の形をした賽銭箱。
この形は宝袋型といい、江島神社の辺津宮にも同様なものがあったのでは。
ここにも「大岡七宝紋」が。



見事な龍の彫刻。



「本堂」の扁額「浄見寺」。




                              ・・・​もどる​・・・


                   ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.05.22 12:10:07
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