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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.06.19
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カテゴリ:JINさんの農園
次に訪ねたのが真鶴半島。
2月2日(水)~3日(木)に「源頼朝と北条氏ゆかりの伊豆の地を訪ねる」で帰路の最後に尋ねる予定
でしたが、この日2月2日(水)に旅友が伊豆の国市長岡で体調が急変し救急車で緊急搬送され
手術入院したので、旅友がこの真鶴半島を訪ねていないので、彼が訪問したことない主要な
場所をこの日に案内したのであった。
最初に訪ねたのが真鶴町にある「​しとどの窟​」👈リンク
治承4年(1180年)に勃発した石橋山の戦いにて、大庭景親らに敗れた源頼朝らは、土肥実平の
案内にて土肥郷椙山に逃げ込み、湯河原の岩屋「しとどの窟」にて休息した。
そして、土肥実平らと箱根を経由して真鶴に降りて、岩海岸(岩海水浴場)にある
「しとどの窟」にて一夜を明かし、船で東京湾を横断して、安房国(房総半島)へ脱出したと
伝わっているのだ。
しかし、出航した地は、ここ真鶴港ではなく、岩漁港と、ここから約1.6km、離れているのだが。
この真鶴町にある「しとどの窟」の真相は??源頼朝のみぞ知る真鶴「しとどの窟」。



そして次に訪ねたのが「​源頼朝船出の浜​」碑 👈リンク。
石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、山中に逃れ、一時箱根権現に潜んでいたが、土肥実平の案内で
土肥郷へ下り、8月28日、この浜から安房へと向かった。
湯河原町の城願寺に残されている頼朝主従七騎の伝説によれば、従っていたのは、安達盛長・
岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱。
頼朝の脱出に協力した漁船は、その後長く税が免除されたと伝えられている。



「​源頼朝開帆處​」👈リンク。
「誓復父讎擧義兵石橋山  上決輸贏佐公雖昔開帆
 處謡曲長傳七騎名     文學博士 鹽谷 温 題」 
と刻まれていた。
読み下しは、
「誓って父の讎(あだ)を復さんと義兵を挙げ石橋山に上(のぼ)りて輸贏(ゆえい)を決す  
佐公(さこう)昔を維(つな)ぐ開帆の処 謡曲長く七騎の名を伝う」
意味は、
「(頼朝が)父(義朝)の名誉を回復しよう(汚名を晴らそう)と兵を挙げて、石橋山にて
(平家に)勝負を挑んだ。この場所は(敗れた)佐公(頼朝)が再起を図り船出した
昔を結びつける場所である。そのことは謡曲の中で、長い間、(頼朝の船出の際に助け従った)
七騎の名を伝えていることからも分かる。」と。



源頼朝が安房へと船出した岩海岸(岩海水浴場)と有料「真鶴道路」の岩大橋を見る。
真鶴町と合併するまでは、岩村と呼ばれていた岩地区。
「祝村」(いわいむら)を呼ばれていたものが「岩村」(いわむら)と呼ばれるようになった
のだとか。
「祝村」と呼ばれた由来は・・・
○平氏の追跡から免れた頼朝が喜んで「祝村」と名付けた。
○船出した頼朝が、戦に敗けたことがなかったことから「祝い村」と呼ばれるようになった。
などの話が残されているのだと。
前方の島の名は「弁天島」と。



次に訪ねたの「兒子神社(ちごじんじゃ)」。
この「兒子神社」は私も前回は訪ねていなかったのであった。
しばし神社入り口にあった民宿「さざ波」のオバちゃんと雑談。
このオバちゃんはこの真鶴半島で生まれ現在までこの地を離れたことはないと。
そして神社の一の鳥居へと向かったのであった。近いうちにこの民宿で新鮮な魚料理を
楽しみたいと考えているのである。
神奈川県足柄下郡真鶴町岩653。



アジサイも美しかった。



石段の横にあった「護國塔碑」と「忠魂碑」。



「護國塔」碑。圓覚管長 宗源書と。朝比奈 宗源(あさひな そうげん)氏であろうか。



「英霊氏名」が刻まれていた。
大東亜戦争における戦没者 英霊四七柱。



「感謝の碑
平成七年八月十五日は終戦五十周年になります。平和日本の礎となりました英霊諸兄の
尊い生命を捧げ、祖国を守り日本再建の基をつくってくれました。この功績が永く輝き
続けるよう関係者一同多数の協力者と感謝の碑を建立し遺族の方々の幸せと郷土の繁栄を
祈ります。 平成八年八月十五日」



「忠魂碑
大正8年12月2日建立
昭和12年5月  移設
  帝國在郷軍人會岩村分會 建立
元帥公爵 山縣 有朋 書」



移転の経緯碑(副碑)
大正八年十二月二日瀧の元の地を相し碑を建て護国の忠魂を祀れり地や素村内一望の高台に在り
数畝の沃田を脚下に眺むる風光なりしが、大正十二年九月一日の大震災に依り、倒壊せる小学校
校々合の此の附近に移転改築せられてより、碑前の風致頓に狭院の感を呈し、新に改修成られる
村社兒子神社境内に改修の議起こりたる時、図らずも二月十五日小学校不幸の襲ふ所となり、
校舎鳥有の死に遇ふ。即ち、校舎復興の計画樹立せられ、校地拡張の議決するに及び全村民各位の
一致協力を仰ぎ、此の神域に移転改修の工を竣へたり



石段を上って行った。突き当りを右に。



さらに石段が続きその先に二の鳥居が現れた。



二の鳥居の先に拝殿が。



「御大典記念事業完成碑
自然に恵まれた岩の氏神として、御鎮座以来人々の篤い心と、力の結集をいただき、期に望み御
造営、改修等を実施してまいりましたが、昭和八年、御社殿の改築時に完成した石段も永き歳月
により「ゆがみ」を生じ、修復を願う人達の要望により、御大典記念事業として着手したところ
特志ある六百余名の御協力により、無事完成をみるに至り、関係者一同にとり喜びにたえません。
また、この記念事業に合せ、心ある篤志家より、大前に本小松石による、春日燈籠壱対の奉納も
あり、深く感謝いたす次第です。
この計画の完成により、神域の威容を高めたことは勿論でありますが、今回の計画に奉賛された
人達の家業の安全隆昌と、家族の健康を偏えに祈念するものです。」。



手水舎。



二枚貝の如き石碑。



「さざれ石」。



「さざれ石 北海道沙流川産
さざれ石とは本来小石のことですが、「古今和歌集」に
我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむす迄 とあるように次第に大きくなって
巌になると信じられてまいりました。
氏子皆様がたが千代に八千代に共に栄えこの「さざれ石」のように大きく発展されることを
祈って奉納されたものです」



「兒子神社」碑。



「御祭神 文徳天皇の皇子 惟喬親王(これたかしんのう)とその御子神
 例祭  七月十四日 十五日に近い土曜 日曜
 由緒  延喜年間(17世紀)の創立と伝えられるが、天保年間大災のため社殿を焼失し、
     古記録等はこの時に失った。
     御子神は親王の後を慕ってきた従者二人を従え二才になられた若宮を擁して当所に
     来られたが若宮 病を得て夭逝されたので御父と供に奉斎したと伝えられ、以後
               子供の流行病の厄除けの参拝が多く見られた。
     古来、岩地区の人たちの生産と生活の守り神として信仰されている。」



「神輿舎建設記念」碑。
「御輿舎建設基金寄附者御芳名」が刻まれていた。



そして正面に「拝殿」。



狛犬(右)。
「昭和8年生まれの陶器製狛犬。
写真で阿の顔が大きく写っていますが、これは写し方が悪いのではありません。
実際に阿吽の上半身の大きさがかなり違うのです。
吽は均整のとれた体つきをしていますが、
阿は上半身が太く逞しく腰が異様なほど小さい子で、
大きな顔でガハハッと笑いながら参拝者を出迎えています。
眉毛・鬣・尾など毛の流れが躍動的ですね。」とネットから。



狛犬(左)。



「拝殿」。
1180年(治承4年)8月28日、土肥実平の手引きによって岩海岸にたどり着いた
源頼朝一行が安房へ向けて船出しようとしたときのこと。
実平の子遠平が「子の万寿に会ってから・・・」と言い出した。
万寿の母は、頼朝に敵対した伊東祐親の次女・万劫。
内通を疑った実平は、遠平を下船させたのだという。
その後、遠平は和田義盛の用意した船で頼朝一行を追うが、子の万寿には会う事はできなかった。
遠平の船が出た後に駆けつけた万寿は、父方は源氏に、母方は平氏に別れてしまったことを嘆き、
海に身を投げたのだという。
それを憐れんだ村人は万寿を児子神社に祀ったのだと伝えられている。
以前に訪ねた「​瀧門寺​」👈リンク の「五層塔」は、万寿を葬った塔なのだ。


扁額「兒子神社」。



大きな流造の「本殿」。
真鶴町の児子神社は、延喜年間の創建と伝えられる古社。
1180年(治承4年)、石橋山の戦いで平氏に敗れた源頼朝が船出したという岩海岸を見下ろす
高台に建てられた社。
祭神:惟喬親王之御子神(これたかしんのうのみこがみ)。



社殿の裏側に立つ裏門からの石鳥居。



「本殿」の右奥の裏門手前にあった手水場の「手洗鉢」。



「右三つ巴」紋、「法輪」紋、「卍(まんじ)」紋が。



「重要文化財指定 
名称 岩村中奉納 手洗鉢  数量1
上記のものは、真鶴町文化財保護条例に基づき
重要文化財(有形文化財)に指定する。
平成18年4月1日 真鶴町教育委員会」



「石灯籠」とその奥に公孫樹の大木。



「本堂」前から境内を見る。



境内社「龍宮神(りゅうぐうじん)」に向かう。
鳥居の扁額も「龍宮神」。



新設された「社殿」。
竜宮伝説は、浦島太郎に始まった訳ではなく、それ以前から海の神様としての龍神信仰に基づく
もので海の中に竜宮があり、海の神様である竜神が住んでいるとの伝承は古代から続いて
いるもの。海を生業の場としている漁業者は、竜神様が頼みの綱であり、それをお祭りした
竜宮様、竜神様が全国の漁村にあるのだと。



扁額「龍宮神」。



内陣。



そして再び岩海岸に向かって進むと左にあった石祠。



次に訪ねたのが「津島神社」通称は「お天王さま」。
真鶴町の岩郵便局の裏手、住宅に囲まれたひっそりとしたところに、ひときわ目立つ真っ赤な
鳥居が建てられていた。
神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴709−1。



「津島神社
祭神  素戔之男命(スサノオノミコト)
勧請  寛文四年八月(1664年)
御神徳 疫病・厄災難除け
由緒
 当社は疫病・厄災除けの神として、霓文四年(1664年)に勧請されて以降、「津島神社」は
 岩のお天王さんと呼ばれ永く地域の方々に信仰され崇敬を集めておりますが、長年の風雨などに
 よる損傷が激しくなってまいりました。
 その為、令和ヘの御代替わりの大事業として鳥居の復元を筆頭に堺内地の整備を行い、愛知県
 津島市神明町に鎮座する「津島神社」の御本社より「分御霊」を再び勧請してまいりました。
 今後とも地域の皆様の守り神として広く信仰されます事を祈念いたします。」



歴史を感じさせる石碑群。
長年の風雨にさらされ、損傷が激しくなっていたのであった。



石段を上って行った。



鳥居に見立てた鉄骨が。



その奥には石祠が3基と石灯籠が1基。



中央の石祠2基。



次に訪ねたのが以前に訪ねた「​如来寺跡​」👈リンク。
神奈川県足柄下郡真鶴町岩630。



そしてこの日の真鶴半島の最後として訪ねた「​龍門寺​」👈リンク。
神奈川県足柄下郡真鶴町岩。



                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・






Last updated  2022.07.04 05:29:19
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Re:「熱海・ジャカランダそしてブーゲンビリアを楽しむ」の帰路:                                真鶴半島・しとどの窟~源頼朝船出の浜​碑~源頼朝開帆處​~岩海岸~兒子神社~津島神社~如来寺跡​~​龍門寺(06/19)   オジン0523 さん
こんなに詳細に我が病気を記載してよいのですか。
ブログアップに参考になりますありがとうございます。 (2022.06.20 11:12:30)

Re[1]:「熱海・ジャカランダそしてブーゲンビリアを楽しむ」の帰路:                                真鶴半島・しとどの窟~源頼朝船出の浜​碑~源頼朝開帆處​~岩海岸~兒子神社~津島神社~如来寺跡​~​龍門寺(06/19)   jinsan0716 さん
オジン0523さんへ
命の恩人!!だと思っていますので。 (2022.06.20 15:47:50)


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