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レース

2018年10月12日
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カテゴリ:レース
今回の80's Meeting 2018では、たくさんの景品も提供いただきました新城市のモトクレットサワダさん。

モトクレットサワダ

そちらの長男で、全日本ロードレース参戦されていた澤田令選手、これからの活躍を期待されていた中での筑波での事故。。。

20年目の命日に、当時のバイクのエンジンを再びかけられるそうです。

天国に届け!!!!

きっと、皆さんの思いは、届くはずです。。。。



天国へ届け、エンジン音 長男バイク事故死の新城の男性 
2018/10/11 朝刊

沢田令さんのバイクの調子を確認する父の保美さん=愛知県新城市で

 一九九八年にオートバイレース中の事故で亡くなった愛知県新城市のレーサー、沢田令(れい)さん=当時(21)=の二五〇ccバイクのエンジンが、二十年ぶりに当時の仲間たちの前で動くことになった。新城市のバイク店相談役を務める父親で、事故車を保存してきた保美(やすみ)さん(70)が「供養のために」と決めた。命日の十月十二日、浜松市内のホテル駐車場でエンジン音が響き渡る。








1998年5月17日
澤田 令
全日本ロードレース選手権 筑波サーキットで開催された全日本ロードレース選手権第3戦。オープニングラップで事故が発生。澤田令は病院に運ばれたが、脳挫傷の為、10月12日死亡した。享年21歳
1995年全日本ロードレース選手権GP125スポット参戦 でデビュー。1998年にはSUGOで3位に入るなど頭角を現し、期待されていた矢先での事故だった。






澤田令選手/TEAM SRS-J(ラ・モト高阪)の97年型・ホンダRS250R
HRCのキット車らしいです。
カウル前端にラムエアの吸入口が見えます。




ガソリンタンクの下には、キャブレターをすっぽり覆う「ラムエア・ボックス」が収納されています。






Last updated  2018年10月12日 08時07分34秒
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2018年10月07日
カテゴリ:レース
いまだに、サーキットに、ノリックがいないなんて、信じられません。。。


ひょっこり、ピットとかにいるんじゃないかと。。。


もう、あれから11年ですか。。。

H/K AGESの10周年記念LIVEを終わって、朝方メールを見ると。。。

本当に、ショックで、鳥取から京都まで、無事帰れたのが不思議なくらい
ふらふらしていました。。。



自分たちが、心動かされた人々が、応援してきた人々が
まだ、志半ばで、もっとやりたいこと、たくさんあったのに
大切な家族がいて、その人を待っている人がいて、

昨日までは、まったく想像もしていなかった別れ。。悲しみ。。。

本当に辛いです。。。

自分たちは、そのぶん、生きていくしかないのですが


誰からも、愛される人
必要とされる人

そんな人たちが、早く旅立って。。。

私のような人間が、また、もがいているのが。。。やっぱりつらいです。。。





2007年10月7日、18時30分頃に神奈川県川崎市川崎区大島1丁目のUターン禁止の片側二車線道路の市道においてオートバイで走行中、Uターンしようとしたトラックと衝突、直ちに川崎市内の病院へ搬送されたが、事故から2時間後に死去したと報道されている。享年33(32歳没)。

1998/03/07-08 モータースポーツキックオフデーでのノリック


1998/04/03-05 Marlboro Grand Prix of JAPANでのノリック




阿部典史-流星伝説-より









秋ヶ瀬時代やダートトラック時代の動画もありました。。。




Mar 8, 2008 Racingオートバイ (4)




1994年日本GP、あわや一位というところでのクラッシュ。。。








そして1996日本GP、涙の初優勝!!

Nov 1, 2007 鈴鹿8耐DVD発売になりました。 (2)

ヨシムラの優勝とノリックの元気な姿に、また涙しました











8耐最高!!
ノリックも叫んでましたよ



ニュース映像見ると、、、涙が止まらない。。。。





ノリックが交通事故死、トラックと衝突

死去した阿部典史さん(オートバイレーサー)  7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。

 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。

 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。

 阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。

 レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之、伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。

 スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。

「伝説のライダー」阿部典史さんが事故死 川崎2007年10月08日00時07分

 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。


 川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイ(500cc)と衝突した。千野さんは「道を間違えたので戻ろうとした」と話しているという。現場はUターン禁止だった。

  ◇

 〈阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、阿部さんは東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。






Last updated  2018年10月09日 06時20分57秒
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2018年09月12日
カテゴリ:レース
もう23年なんですね。。。。
21番、一緒にYAMAHAを支えていた吉川監督が4連覇
天国の康友さんは、喜んでることでしょうね。




当時では少ない海外のスーパーバイクで活躍する選手でした。

前の選手のオイルに乗ってしまい、そして、転倒後のバイクの下敷きとなるという、ものすごく不幸が重なってしまいました。。。

永井選手の事故のあと、カウル内にオイルを吸収するパッドが義務付けられました。。。

YAMAHAを代表する、日本を代表する、本当にすばらしいライダーでした。。。

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nagai01.jpg96.jpgimg_2 (1).jpgnagai00.jpgnagai02.jpgnagaiyasu1993.jpg
Yasutomo_Nagai_1993_Suzuka_8H.jpg

永井 康友(ながい やすとも、1965年10月29日 - 1995年9月12日)は、埼玉県出身のオートバイ・ロードレースライダー。日本人で初めてボルドール24時間耐久ロードレース優勝。
略歴
1989年、全日本ロードレース国際A級デビュー。以後、ヤマハのワークスライダーとして活躍。
1995年、スーパーバイク世界選手権に日本人として初めてのフル参戦開始。第10戦オランダ(アッセン)第2ヒートで、エンジンブローを起こしたファブリツィオ・ピロバーノのドゥカティ916のオイルが撒き散らされていた。ピロバーノは自らのオイルに乗って転倒。立ち上がると即座にコースマーシャルに対して、オイルフラッグを出せとアピールしたという。
しかし、永井はそのオイルに乗ってしまい転倒。投げ出され滑走する永井の前を滑走するマシンが宙に舞い上がり、その間に、滑走し続ける永井の体がマシンに追いつき、そこへマシンが降り落ちてきた。マシンに押しつぶされた永井は、意識不明のままアッセン市内の病院へ運ばれた。
事故の報を受けて日本から駆けつけた家族と婚約者が見守る中、9月12日(日本時間9月13日)息を引き取った。29歳。
1996年、永井の遺志を継ぐべく、吉川和多留が(1995年ランキング5位で終えた)永井のナンバー「5」でフル参戦した。






Last updated  2018年09月12日 07時36分11秒
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2018年09月05日
カテゴリ:レース
もう8年。。。

大ちゃんの死から、暗く、光が見えていなかった日本レース界に、再び輝いた光

大ちゃんが果たせなかったWGPチャンピオンまで、きっと届いてくれると、日本中が期待していた星

ほんとうに、ショックでした。。。

いまでも、あの多重クラッシュのシーンは見れません。。。




富沢祥也、レース中に事故死 (Moto2) 【 F1-Gate.com 】
ロードレース世界選手権Moto2クラスに参戦する富沢祥也選手が、第12戦サンマリノGPでの決勝レースで事故に遭い、救急車で病院に搬送されたが死亡した。

富沢祥也は、4位を走行中に転倒、後続のアレックス・デ・アンジェリスとスコット・レディングと接触。リッツィオーネの病院に搬送されたが、14時20分(現地時間)に死亡が確認された。享年19歳。

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富沢 祥也 (とみざわ しょうや、1990年12月10日 - 2010年9月5日)は、千葉県旭市出身のオートバイレーサー。2008年の全日本ロードレース選手権250ccクラスシリーズ2位。2009年から2010年までロードレース世界選手権に参戦した。






Last updated  2018年09月05日 08時02分45秒
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2018年09月04日
カテゴリ:レース
今日は沼田 憲保さんの命日ですね。もう、11年ですか。。。

Suzuki乗りの私にとって、ガンマでの優勝は、本当に嬉しかった。
ずっと、心の中のヒーローです。

私が沼田さんの訃報を聞いたのは、二日後でした。そのときのブログ記事です。

このさらに二日後、SUZUKI MEETINGで、GK71B CLUBのクラブ紹介のときに、沼田さんの訃報を紹介し、沼田さんがどれだけ偉大なSUZUKI乗りだったかを、紹介させていただき、皆で御冥福を祈りました。



Sep 6, 2007 追悼沼田憲保さん

愛知のひろゆきさんと電話でお話していて教えていただきました
元全日本250チャンピオン、SUZUKI Γでの全日本連覇を勲章に250cc参戦していなかったSUZUKIでのWGP参戦
最近はYAMAHAでのエントリーが多かったですが、鈴鹿8耐や、全日本600での健闘を目にしたばかりでした
この前の日曜日もケーブルの全日本で元気な姿を見て、岡田さん、イトシンだけでなく
バイクブーム時代のチャンピオンが、まだまだがんばってるなと、応援しておりました。

SUZUKI大好きな私のなかでは、Γで世界に出て行く日本人という、レース史の中でも
非常に印象に残る方で、尊敬しておりましたし、ヒーローでした

明日お通夜、スズキミーティングのある9/8に告別式とのことです

ご冥福をお祈りいたします


練習中 二輪プロレーサーが事故死

 4日午前10時50分ごろ、岡山県美作市滝宮の岡山国際サーキットで、練習走行中のプロレーサー沼田憲保(本名高橋憲保)さん(41)=千葉県流山市松ケ丘4丁目=のオートバイ(600CC)がタイヤバリアーに衝突。沼田さんは胸を強く打ち間もなく死亡した。

 美作署の調べでは、沼田さんは午前9時すぎから走行。ヘアピンカーブを曲がりきれず、壁のように積み上げられたタイヤに衝突した。

 サーキットは1周約3・7キロで、事故当時は沼田さんを含め10台ほどが練習中だった。

 沼田さんは29日から同サーキットで開かれる全日本ロードレース選手権シリーズ第6戦に参戦予定だった

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沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日 - 2007年9月4日)は、茨城県日立市出身のモーターサイクル・ロードレースライダー。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」の異名をとった。

デビュー~全日本時代

1988年にSP250クラスでデビュー。ノービス時代は、ミラージュ関東に席をおき、1990年のSUGO選手権では3クラスでチャンピオンを獲得した。翌年に特別昇格で国際A級ライセンスを得ると、スズキワークスのRGV‐Γ250開発兼任で全日本ロードレース選手権250ccクラスにフル参戦を開始した。原田哲也・岡田忠之・青木宣篤ら強豪がひしめく中、まだポテンシャルの低かったマシンで苦戦を強いられ、初表彰台(3位)に立ったのは1992年第3戦だった。

原田らがロードレース世界選手権に進出した1993年には第9戦で初優勝するも、マシンの性能差や宇川徹の台頭などがありランキング5位で終わる。1994年にはランキング2位、1995年には翌年ロードレース世界選手権参戦が決定していた宇川を退けクラス・チャンピオンの栄光を掴んだ。1996年には、加藤大治郎や芳賀健輔との争いを制し連覇を成し遂げた。

世界グランプリ時代

スズキは1997年からロードレース世界選手権GP250での参戦を決定し、アリー・モレナー・レーシングのエースライダーとして沼田もフルエントリーされた。サーキットのデータ不足やマシンの性能差は彼を苦しめ、2年で沼田は撤退。

再び全日本へ

1999年、活躍の場を4ストマシンに切り替えた。同年から5年連続で鈴鹿8時間耐久ロードレースにエントリー。2004年から全日本ロードレース選手権ST600クラスにフル参戦し、第3戦では雨の筑波を制して8年ぶりに優勝。

後進の育成にも積極的で、ライディングスクールの講師役なども務めていた。

2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打ち胸部破裂で急逝した。41歳没。






Last updated  2018年09月04日 02時17分26秒
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2018年07月08日
カテゴリ:レース
2008年5月15日にノースウェスト200に参戦中に亡くなったロバート・ダンロップを父にもち、2000年、エストニア共和国タリンで行われた公道レースで亡くなったジョイ・ダンロップを叔父にもつウィリアム・ダンロップが、Skerries 100の練習走行中の事故で亡くなられたそうです。。。

マン島TTなどの公道レースといえば、ダンロップ家は、本当に強いのですが、やはりリスクが大きい。。。
それが映画にもなったのですが、やはり、バイクで亡くなってはいけない。。。。

残念です。。。

御冥福を、お祈りいたします。


生年月日: 1985年7月23日
生まれ: イギリス 北アイルランド
死亡: 2018年7月7日, アイルランド スケリーズ
両親: ロバート・ダンロップ、 ルイーズ・ダンロップ
兄弟姉妹: マイケル・ダンロップ、 ダニエル・ダンロップ
いとこ: ゲイリー・ダンロップ、 ジョアン・ダンロップ、 ジュリー・ダンロップ、 ドナ・ダンロップ、 リチャード・ダンロップ



★ウィリアム・ダンロップがSkerries 100の練習走行中に逝去 2018年7月8日



アイルランドで開催されているSkerries 100の練習走行中に、サムズトンネル付近で転倒したウィリアム・ダンロップが、転倒による怪我が原因で32歳という若さでこの世を去りました。ウィリアム・ダンロップのご家族、友人に心からお悔やみを申し上げます。

ウィリアム・ダンロップはマイケル・ダンロップの兄でロバート・ダンロップの息子、そしてジョーイ・ダンロップの甥でした。ウィリアム・ダンロップはマン島TTで6度表彰台を獲得、ノースウェスト200、アルスターグランプリで優勝経験がありました。

Loughshinny Motorcycle Supporters Club
Skerries 100のオーガナイザーであるLoughshinny Motorcycle Supporters Clubは、ウィリアム・ダンロップが2018年7月7日に行われた練習走行の中で起きた悲劇的な事故の結果、命を落としたことを深い悲しみと共にご報告します。Loughshinny Motorcycle Supporters Clubはウィリアム・ダンロップのご家族とご友人に深い哀悼の意を表します。


<Loughshinny Motorcycle Supporters Club プレスリリース>



なぜこれほどバイクに乗ることに魅了されるのかを教えてくれる映画「ROAD」

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2015-02-24
二上善則 @ ロレンス編集部
コラムエンターテイメントカルチャーロードレース


映画「ROAD」。マン島TTレースで最多優勝を記録した伝説のレーサー、ジョイ・ダンロップとその弟のロバート・ダンロップ。そしてロバートの息子であるウィリアムとマイケルの兄弟。そのダンロップ家が2世代に渡り挑み続ける危険な公道レースの悲劇と栄光の物語だ。



イギリスのほぼ中央に浮かぶ美しい島で開催される、マン島TTレースは1907年から続くバイクレースの原点といえるレースである。そのレースは昔も今も一般道を封鎖して行われる公道レースで、安全対策が行き届いたサーキットを周回するロードレースに較べて、極めて危険で常に死と隣り合わせの緊張感がレースを支配しているかのようだ。




その公道レースを舞台にしたドキュメント映画「ROAD」は、1970年代の貴重な映像でジョイ・ダンロップがレジェンド・レーサーに登り詰めていく様子から2000年にレース中の事故でその生涯を終えるまで、また兄に憧れて同じくレーサーとなって活躍するも1994年のレースで再起不能の事故に会い、そこから奇跡の復活を遂げるロバート・ダンロップの姿を、美しいマン島の風景とともにオンボードカメラによる走行シーンをふんだんに使った迫力のある映像で描かれている。そして、クライマックスは父・ロバートの意志を継いでレーサーとなった二人の息子たちが直面する父のレース事故死と歓喜の勝利。危険な公道レースの栄光は悲劇と紙一重で成り立っているということを思い知らされる。

なぜこれほどまでバイクで走ることに魅了されるのか
この映画はすべてのバイク乗りに観てもらいたい映画だ。マン島TTレースのように公道を時速320kmで走ることはできないし、そもそもバイクに乗るということは決して危険な行為ではない。ただ、公道レースという極限のロードレースにすべてを捧げた兄弟と、その栄光を受け継いだ息子たちのドラマティックな人生に、私たちがなぜこれほどまでバイクで走るということに魅了されるのか教えられたような気がしてならない。リターンライダーはもちろんのこと、若いライダーには1970年代のレーシングスーツをはじめファッションにも注目してほしい。

私は残念ながらマン島TTレースを現地で観戦したことはないが、30歳代の頃にこのロードレースの聖地・マン島をバイクで走ってみたいと思い立ちツーリングの計画を練った時期がある。残念ながら諸事情でこの計画は実現しなかったけど、ダンロップが闘ったこの「ROAD」をいつか自分でも走ってみたい。





映画「ROAD」は4月11日(土)よりシネマート新宿、シネマート心斎橋にてロードショーされます。

『ロード』
ⓒ2014 DoubleBand Films All Rights Reserved
配給:レイドバック・コーポレーション

●「ロード ディスティニー・オブ・TTライダー」公式サイト
http://road.euro-p.info






Last updated  2018年07月09日 02時10分16秒
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2018年07月04日
カテゴリ:レース
レース界のレジェンド、松本憲明さんが亡くなられたそうです。

自宅で、脳梗塞で倒れられたとのことです。。。。

数多い豪快伝説は有名ですね。。。

残念です。。。。


御冥福を、お祈りいたします。。。





コンプライアンスって食べられるの?Mr.Bikeギャラリー
かつてミスター・バイクの誌上を彩った数々のグラビアたち。



あるときは驚きを、またあるときは笑いを、そしてまたあるときは怒りさえも呼び込んだ、それらの舞台裏ではなにがあったのか?

1980年代中盤から1990年代に、メインカメラとして奮闘した謎の写真技師こと、エトさんこと、衛藤達也氏が明かす、撮影にまつわる、今だから話せる(んじゃないかと思うけど、ホントはまずいのかも)あんな話、こんな話。聞きたくないですか。

第25回「相手をブチ抜くための

高等テク? よくわかる?? その理論と実践??? Complianceって食べられるの? そんな時代のお話です。ああ、めまいが。」

 「松本憲明ってライダー知ってる?」
 I事務所でカメラマンをしているときの話です。チューニングバイクの取材兼撮影で訪ねたカスタム屋さんで初めて憲明さんの話を聞きました。入社して1ヶ月もたってない4月頃のことで、まだレース業界に首を突っ込んでいませんでした。ですから憲明さんはもちろん、事務所にベンツでやってきた全日本の大御所ライダーを本物のヤ○ザと勘違いしたり、菅生でいきなり後ろから抱きついてきた世界的に大変著名である小柄な外人ライダーをモーホだと信じたり……(第24回参照)。
「プライベートで500ccのレーサーを走らせている凄い奴だよ」と聞かされても、500ccマシンがどんなものか頭に浮かばないし、それをプライベートで走らせることがどんなに大変なことか、そもそもプライベートって何? というレベルでしたから全く想像ができません。私はただのバイク好き、ただのバイク乗りで、バイク雑誌はミスター・バイクしか読みませんでした。ネットなんてない時代ですから、バイクの知識=ミスター・バイクで読んだものでした(ほとんど何も知らないと同義語)。こんな人間が、この業界に入ってしまったのですから、不思議です。
 今回のお話は、そんな状態から少しずつ知識が増え始めた頃、憲明さんがミスター・バイクのキャラクターとして誌面に出始めた1980年代中頃のお話です。
 いつものように、I井さんからお電話がありました。
「エトー、今度さー、うちで松本憲明を応援することになってページを作ろーってワケ。編集部来て」
 その頃になると、私もレース業界にドップリ浸かっていましたから、ペーペーの頃のようなこともなく、もちろん憲明さんのことも知っていました。しかし、話をしたことはありません。といいますか……はなはだ失礼に当たるかと思いますが……その頃、私の憲明さんに対するイメージは……型遅れのマシンで一生懸命戦っていたのですが、非力なマシンでバリバリのワークスマシンや有力チームに無茶な走りで挑んでいつも転倒する人。松本憲明=転倒というイメージしか浮かばなかったのです。今更ですが、ごめんなさい。
 そんな憲明さんとどんな仕事でしょう。I井さんのことですから、普通のインタビューとか、お部屋拝見とか、そんな簡単なワケがありません。バイク雑誌で「アナタのパンツ見せてください」を企画し、自身街頭で何日も粘り、何百人の女性に声をかけ、そのうちの何人かのネジの抜けた女性、もとい、勇気ある女性のパンツを誌面に掲載してしまった編集者の鑑です。少なくとも、普通の人は考えないといいますか、やりたがらない、危険な企画の匂いがぷんぷんしてきます。不安を抱きつつ編集部に向かいました。
 編集部のいつもの食堂に、すでにI井さんと憲明さんが待っていました。恐縮しつつ話に加わると企画はもう決まっていました。
「で、エトーさ、トビラに使うイメージカットはスリップストリームイメージなワケ。憲明さんの後ろに乗って、かっこいい、スリップストリームのイメージ、バシっと。凄いの、たのむワケ」
「はぁ。それはいいのですが、あのー、カメラを構えて、ピント合わせて、シャッター押すとなるとどうしても両手を使うことになるのですが、その間どーやって落ちないようにすればいいんでしょう?」
「そんなのワケないだろ。憲明さんとお前をロープで縛っときゃ大丈夫なワケ」
「……あのー、たいへん申し上げにくいことなのですが、ロープでしばるということは、もしコケたりしたらどうなっちゃうんでしょう」
「エトーさ、憲明さんはレーサーなワケ。しかも全日本の500の現役ライダーなワケ。そこら辺のあんちゃんライダーとは違うワケ。だから安心なワケ。大丈夫だってばー。本当にエトーは心配性なんだからー」




1985年12月号表紙
今回は1985年12月号。巻頭は第26回東京モーターショー速報。ファラコラスティコ、GSX400X、VFR400Rなど出てます。第二特集は礼子さんがバニーしてたり、しげの秀一さんと荻野目洋子たんがNS400Rでタンデムしてたり、三原じゅん子さんとジャガー横田さんが抱き合っていたり、玉川良一さんがFZ400Rにまたがっていたり、小道迷子さんが根津甚八さんに抱きついてたり、よくわかりませんがどえらいメンツです。
 そう言われても、憲明さんはレーサーで、しかも全日本の500の現役ライダーで、それもいつもサーキットで転んでいる姿を見ているからこそとても不安なのです。が、さすがに初対面の本人の前でそれを口にする勇気を私は持っていませんでした。
 無論「憲明さんはコケそうだから後ろに乗るのは嫌だ」という理由でお仕事をお断わりすることなんて出来るわけがありません。それよりももっと大きな問題はスリップストリームという目に見えないものをどうやって絵に表現するかということです。
 I井さんと知恵を絞って、絞って、結局は風洞実験でよく使われていたような、ミミズみたいなひもをたくさん付けて、空気の流れを写すことにしたのですが、それだけではただの実験写真でなんかおもしろくありません。いわゆるミスターらしくないのです。
 
 そんな時は、困った時のヨドバシカメラ(広告担当者様、バナー広告、スペース空けてお待ちしております)。新宿西口駅前の大きなカメラの店に出向き、色々な階を物色していると面白いものを見つけました。サイクロンというフィルターで、レンズの前につけると渦を巻いたように映るということです。いったい何の目的で作られたのか未だ理解できないフイルターですが、今回の撮影には使えそうです。とはいえ、結局はこの時に使っただけで、以後は、これまたヨドバシカメラで購入した防水ケース(第22話参照)などと共に、衛藤写真用品蔵で永い眠りに入っているはずです。が、探したのに発見できませんでした。現在でも売っているのでしょうか?
 こんなわけのわからないフィルターで簡単に撮影を済ましてよいのだろうか……と心の葛藤もあったような、なかったような。気がつけばもうレジに並んでいました。心の弱いカメラマンなんです。
 撮影当日I井さんは予告したとおり、憲明さんと私をロープで一心同体にして、GSX-Rの後ろに載せられました。まずは憲明さんの肩越しにカメラを構え、前のバイクのスリップに入り込むという設定での撮影から始めました。
「大丈夫だから。安心して撮影しなよ」と憲明さん。いやいや、私は貴方様が転がるシーンをいつも見ているのですよ。安心しろと言われても……この期に及んではドイツ軍親衛隊のタイガー戦車に包囲されたレジスタンス状態。ビビりながら「無茶しないでくださいね」と答えるのが精一杯の抵抗でした。
 憲明さんにピッタリくっつくと、当然股間もぴったりあたって気持ちがいい、わけありません。信哉さんならば「エトー、男が男にキンタマくっつけんじゃねーよ」と激しく抗議したことでしょう。憲明さんは特に何も言いませんでした。それもなんだか別の意味で不安な要素になったりして。そう、とにかく心配が私の十八番なのです。




1985年12月号




1985年12月号
「相手をブチ抜くための高等テク よくわかるその理論と実践 これがスリップストリームだ!」というド・ストレートなモノクログラビア3ページのプチ特集。本文の最後に「どんなマシンでも最高速が伸び、燃費が大幅に向上する」なんて恐ろしく無責任な一文が……当時は誰も疑問に思わなかったんです。と、いいますかこれで当たり前だったのです。マジで。ところで、サイクロンフィルターの効果、わかりますか?
 心配といえば、まったく関係のない話ですが、大きめの地震の後ニュース速報などで「津波の心配はありません」とよく聞きますが、あの「心配」ってどういう意味なのでしょうか。「津波はありません」の方がストレートで解りやすいと思います。もしかして、日本中みんな私と同じように心配症で、フォローしてくれているのでしょうか?
 
 ところでこの写真どこで撮影したんでしょう? 改めて写真を見るとスピードメーターは80キロくらいを指しています。例えば高速道路だとしたら速度は問題ありま……ん? 当時高速道路で二人乗りしたらそれだけでアウト(汗)。さらに明らかに車間距離不保持(中汗)。撮影したのは筑波の自動車テストコースでしょうか(大汗)。その辺のことは、全くもって完璧に微塵も完膚なきまで思い出せません(華厳の滝汗)。
 ちょっと胃が痛んできました……えーっと、なんの話でしたっけ。
 そうそう撮影の話ですね。無事にトビラ用のイメージカット撮影が終わると、今度はワゴン車の後ろについて、実際のスリップストリームでどのように風が流れるのか、メインカットの撮影です。現場スタッフといっても4人(憲明さん、I井さん、私、もう一人の、キルロイか安生さんだったか編集部員がいたと思いますが、誰だったか忘れました)で、チマチマちまちまチマチマちまちまと、毛糸の切れ端を結構時間をかけてバイクとワゴン車と憲明さんに貼付けて、なんとか準備を完了しました。




1985年11月号
偶然に発掘された未公開カット。タイヤの先端に目がついているような車間距離です。これがレーサーなんです。これ、ホントに走っていたんでしょうか?
 いよいよ本番です。今度は憲明さんの後ろではなく併走車からの撮影なのでやや気が楽です。併走車を運転するI井さんは「エトー、ワシ運転してるから横見れないワケ。一発でわかるようにしっかり撮れ!」と叫んでいます。信哉さんとの撮影ならば何度もやっていたので、あうんの呼吸でしたが、憲明さんとは初仕事です。そう簡単にはいきません。憲明さんには声では伝わらないのでジェスチャーで、I井さんには大声で伝え、並走車との位置を調整してなんとか撮影を終えました。
 

 終わったときどっと疲れが出たことはハッキリと思い出せます。信哉さんだったら「エトーは俺様に向かってまるでタコがもがいて手が絡まって苦しみ踊っているような動きをしていた」と書きそうなほど、端から見ればおかしなジェスチャーをしていたようです。
 現像が上がってきたネガを見て、改めてギリギリ近づいてくれた憲明さんのおかげで風の動きがはっきり撮影できたことに感謝しました。やはり、レーサーという人達は凄い、凄すぎる。そしてそれをやらせたI井さんもぶっ飛んでいました。
 当時はほんとに結構やばい撮影をしていたものです。今ではとても許されないでしょう。
 危ない企画といえば、カメラマン伊勢ひかるが被写体になって「バイクと車がぶつかったら人間がどうなるか」というような身体を張った撮影をしたことを思い出しました。ちなみに伊勢はカメラマンであってスタントマンではありません。タイトルは「一番、ヒカル飛びます」というような軽いものだったかと思います。これもいつか裏話を書きましょうか。
 今回のお話は遠い昔の話です。今とは時代が違いすぎます。みなさん、危ないことをして、ツイッターとかに投稿してはいけません。



松本憲明伝説w

子連れさんよりの依頼


>ミスター・バイク コレクターのパキチ君、
生キズ男の、栄光の伝説を書いてくれたまへ


で、ちょっと昔の雑誌(前世紀だがw)を引っ張り出してみた


探さねばならぬネタはもう決まっていた

アタシが松本憲明というレーサーに持っているイメージを決定付けた記事がこれだ













1986年 5/11 全日本ロードレース第5戦・筑波



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プライベーターながら見事入賞 賞金20万円ゲット!w



で、











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これだけならヤラセかもしれないと思ったアナタ










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さすが、ミスター・バイク(^^)


紅(くれない)さんもいい度胸してんなぁ・・・・


松本憲明、カラダを売ってレースをする男
二輪のレーサーのイメージを地に落とした異端児



この手のなめきった企画が無くなったのが、ミスター・バイク廃刊の原因だとアタシは見ている




なんか思い出したらまたアップしますw






Last updated  2018年07月05日 08時23分48秒
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2018年05月01日
カテゴリ:レース
本当に、ものすごい人物で、人柄で。。。若井さんがいたから、ほかのみんなが活躍できた。。。


もう25年ですか。。。


坂田、上田とともに、125ccで世界で大活躍して、250で頑張っていた矢先でしたね。

当時は、γだったんだなぁ

ヘレスで、ピットロードに入ってきた観客をよけて、、、、


本当に信じられませんでした。。。


陽気で人気者で、フラミンゴという愛称で海外のレーサー、ファンにも慕われていました。


あの頃の日本人は、本当に強かった

その先駆者として、本当にがんばっておられました。

若井さんの速さと強さ、優しさは、ずっと忘れません。


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Last updated  2018年05月01日 22時43分34秒
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2018年04月24日
カテゴリ:レース
あの悲しい事故から7年ですか。。。

震災の年だったんですよね。。。
チャリティとかでもがんばっておられたのに。。。


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高橋江紀が交通事故で死去

まだ23歳…。これからと言うときのアクシデント


News 2011/04/25 12:17:36

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高橋江紀が4月24日(日)に交通事故に遭い死去した。享年23。

高橋は、2005年に全日本GP250クラスにフル参戦を開始。その緒戦で青山周平を破り劇的な初優勝を達成、ランキング3位となる。2007年よりST600クラスにスイッチ。昨年は、新設されたJ-GP2クラスに出場。MotoGPロードレース世界選手権日本グランプリにもスポット参戦した。

今シーズンよりRS-ITOに移籍。心機一転、カワサキZX-6Rを駆り、ST600クラスに参戦する予定だった。シーズンオフから筑波サーキットで走り込み調子も上々だったが、東日本大震災の影響で開幕戦筑波が中止となってしまい、その成果は発揮できずにいた。4月上旬には、オートポリスに遠征、コンディションに恵まれず満足に走れなかったが、自己ベストを更新したと好調ぶりを語っていた。違う環境に飛び込み、まさにこれからというときに起きたアクシデントだった。

高橋は、東日本大震災の被災者の支援も積極的に行っており、20日(水)には、所属チームの一員として川越駅前で募金活動を行い、23日(土)には、自身がインストラクターも務める桶川スポーツランドで「RT311」と題したチャリティーイベントを開催していた。

心からご冥福をお祈りいたします。






Last updated  2018年04月24日 07時41分20秒
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2018年04月20日
カテゴリ:レース
2003年4月20日に、四日市の病院で闘っていた加藤大治郎選手が、永遠の眠りにつきました。

もう15年ですか。。。

早いですね。。。15年経っても、いまだに信じられません。。。
大ちゃんがいなくなって、日本のモーターレース会は、止まってしまったようです・・・

鈴鹿での事故で、ヘリで運ばれ。。。
状態がよくなったとの話もでたのですが。。。

全世界のバイクファンが悲しみにつつまれました

2003/06/01 加藤大治郎選手『偉大なるチャンピオン・栄光の軌跡』展 に行ってきました。
これは、写真展に行ってきたときのレポートです

はじめて大ちゃんと会ったのは、1996年の8耐で、前日に宋和さん、坂田さん、武田くんとコンビであったときでしたd90c343288e6a29d895a4fcb63ad9c04

そのときのレポート
TRF HONDAの第3ライダーとして、イベント等参加されてました。
宗和さんと、125の坂田と、750の武田雄一、250の加藤大治郎と一緒に、8耐前夜にサーキット近くのコンビニでばったり出会いました。
その時何故アプリリアの坂田と一緒にいるのとたずねたら、「俺達、HRCの監督に気に入られているから(爆笑)」って感じでした。
コンビニの中で、写真を撮ったり、はしゃぎまくっている私の友人と、4人でちょっと話したのですが(武田君と加藤君はとても大人しい...)
みんな良い人で、次の日もある場所(これは極秘です)で出会ったのですが、そこでも気さくに話してくれました。

コンビニに行ったのは、夜中に買い出しに行った時でした。
夜中でしたが、レジには行列が出来ていました。しかし、だれも気づきません。
前日にHOTELから出たまんまの格好でしたので、見事に溶け込んでおりました。
私が気づくと、友人も超ミーハーになり、話しかけに行きました。
写真を撮ったりしたのですが、それでも、まわりはシーンとしていました。
ライダーって、つなぎやチームの服でないと、だれも気づかないみたいですね。
(チームの服着てても、スタッフと間違われたりしてるようですが...)
特に8耐は、ライダーの名前なんて知らない人も結構多いので、みんな平気に表に出てますね。

1997にはSuper Bike2ヒートも見に行きました
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1998のモータースポーツキックオフデーでもサインもらいました。

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ほんとうに、すごいキャラクターで、みんなに愛されていました。
そして、ロッシに勝って、世界チャンピオンになれるのは、大ちゃんしかいないと
誰もが思っていました。


いまでもロッシの走りを見るたびに、大ちゃんが生きていたら、どうだったんだろうなぁと思い返してしまいます


いまでも大ちゃんがいないことが信じられません。。。





もう2度と、、、悲しい事故が起こらないように、みんなを見守っていてください。。。



悲しい事故が多すぎる。。。。




みんな、いまでも忘れない。

そうそう、大ちゃんの名前をもらった、うちの だいちゃんが、4年前、星になってしまって。。。
大ちゃんといっしょにいるかな。。。

似てる猫ちゃんが、前の家にいたんだけど、その子も、年末からみなくなってしまった。。。


やっぱり、さびしいなぁ。。。





















































Last updated  2018年04月20日 07時44分12秒
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