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レース

Oct 23, 2020
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カテゴリ:レース
10月23日はシモンチェリの命日です。

もう9年ですね

まだ、24歳、これからでした。。。ついてないとしかいいようがない事故でした。。。


今年も、事故もなく、シモンチェリの分まで、すばらしいレースを見せてくれることを祈ります。




【MotoGPマレーシアGP】シモンチェリが事故死

23日、マレーシアのセパンで開催されたロードレース世界選手権マレーシアGP、MotoGPクラス決勝レースで、マルコ・シモンチェリ(ホンダ)が事故死した。24歳。


2列目5番手スタートのシモンチェリは4番手走行中の2ラップ目、11コーナーで転倒、後続車と接触、頭、首、胸を強打した。医療班が事故現場に到着した時はすでに意識不明で、ただちにサーキット医療センターへ搬送された。移動の救急車中から心肺蘇生がほどこされたが、手当のかいなく、約45分後の16時56分に死亡が宣告された。

レースは事故直後に赤旗中断、キャンセルされた。

MotoGP、マルコ・シモンチェリの事故死の状況を説明

2011年10月24日MotoGPのレースディレクションは23日、セパン・インターナショナル・サーキットのプレスカンファレンスルームで、第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死したマルコ・シモンチェリの状況に関して共同会見を行った。

レースディレクションの代表であるポール・バトラーは、「この記者会見の目的は、マルコ・シモンチェリの悲劇的な死亡の状況を検証することです」と説明を始めた。

「皆様がご存知のように、我々レースディレクションのメンバー全員がここに出席します。FIM国際モーターサイクリズム連盟の代表であるクロード・ダニス、ドルナスポーツの代表であるハビエル・アロンソ、ライダーの代表であるフランコ・ウンチーニ、そして私はIRTA国際レーシングチーム連盟の代表兼レースディレクションの代表です。ミケーレ・マッキアゴデーナは我々のメディカルディレクターであり、彼が死亡に関して状況を説明します。」

マッキアゴデーナは、「友人であるマルコ・シモンチェリの死亡に関して報告するために、ここにいることは大変悲しいです。他のライダーたちに激突したレース中の転倒でした。彼は頭部と首、胸部に深刻な外傷を負いました。」

「我々のメディカルスタッフが彼のところに駆けつけたとき、彼は意識不明でした。心停止だったことから、救急車で、CPR(心肺蘇生)を始めました。」

「緊急に、メディカルセンターでクリニカモービルのスタッフと地元医師の助けを借り、挿管を施行し、胸部から少量の血液を吸引することが可能でした。」

「我々は彼を助けるために治療を尽くし、可能だと考えて、CPRを45分間継続しました。不運にも彼を助けることができず、現地時間の16時56分に死亡を宣言しなければいけませんでした」と、状況を説明した。

バトラーは、ヘルメットが外れたことに関する質問に対して、「他の機会に答えることができると思います。事故の状況や結果を徹底的に調査します」と、事故検証を実施することを説明。

コーリン・エドワーズの負傷状態に関して、マッキアゴデーナは「肩を脱臼しました。麻酔を受け、正しい位置に戻りました。彼は大丈夫です」と説明。

「我々は彼の家族に同情します。可能な限り、あらゆる点を示したい」と、バトラーは付け加え、会見を締め括った。


マルコ・シモンチェリ 経歴1996年から2000年にかけて地元イタリアのミニバイク選手権で活躍し、2年連続のチャンピオンに輝く。01年にイタリア選手権125ccクラスのホンダ・トロフィーに参戦。翌02年には、欧州選手権の125ccタイトルを獲得するとともに、ロードレース世界選手権(WGP)にも出場。03年からWGPにフル参戦を開始し、05年には125ccで総合5位と躍進すると、翌年から250ccにステップアップを果たした。08年には250ccのタイトルを獲得し、09年は、最終戦までライバル青山博一選手とタイトル争いを繰り広げ、総合3位となった。2010年に最高峰のMotoGPにステップアップ。参戦2年目の2011年、第17戦マレーシアGP決勝レースにおけるアクシデントで負傷し、サーキットのメディカルセンターで救命処置が行われたが同日逝去。享年24歳。




故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに

故マルコ・シモンチェリが21人目のレジェンドライダーに
2011年10月にレースアクシデントにより事故死した故シモンチェリが、アゴスチーニ、ニエト、ドゥーハン、ヘイルウッド、リード、マング、ローソン、レイニー、ロバーツ、スペンサー、シーン、加藤、ストーナーらに続き、21人目のレジェンドライダーとして殿堂入りすることが決まった。
ドルナスポーツは3日、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故マルコ・シモンチェリをレジェンドライダーとして殿堂入りすることを発表した。

2008年10月19日に同地で開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで3番グリッドから3位に入り、250ccクラスのチャンピオンに輝き、2010年から最高峰クラスへの挑戦を開始。事故の1週間前には自己最高位となる2位を獲得していた。

レジェンドライダー就任のセレモニーは、ムジェロ・サーキットで開催される第6戦イタリアGPで実施される。

レジェンドライダーリスト

ジャコモ・アゴスチーニ
アンヘル・ニエト
マイク・ヘイルウッド
ミック・ドゥーハン
フィル・リード
ジム・レッドマン
アントン・マング
カルロ・ウビアリ
ジョン・サーティース
ジェフ・デューク
エディ・ローソン
フレディ・スペンサー
ケビン・シュワンツ
ウェイン・レイニー
ケニー・ロバーツ
バーリー・シーン
ワイン・ガードナー
ヤーノ・サーリネン
加藤大治郎
ケーシー・ストーナー
Tags:
MotoGP, 2014



故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー


故・シモンチェリ、ムジェロで21人目のレジェンドライダーセレモニー
Marco Simoncelli - MotoGP Legend
Marco Simoncelli MotoGP Legend
元250ccクラス王者で、2011年10月の第17戦マレーシアGPで事故死した故シモンチェリがレジェンドライダーに就任した殿堂入りのセレモニーが、第6戦イタリアGP開催中のムジェロで行われ、ドルナスポーツの代表から父親パオロに記念のメダルが贈呈された。
ドルナスポーツは30日、第6戦イタリアGPの開催地、ムジェロ・サーキットのプレスカンファレンスルームで、故マルコ・シモンチェリがレジェンドライダーとして殿堂入りするセレモニーを実施した。

2月3日、2008年に250ccクラスのチャンピオンに輝き、2011年10月23日にセパン・インターナショナル・サーキットで開催された第17戦マレーシアGPの決勝レースで事故死した故シモンチェリの殿堂入りを発表。当社CEO最高経営責任者のカルメロ・エスペレータが父親パオロにレジェンドライダーのメダルを贈呈した。

レジェンドライダーリスト

ジャコモ・アゴスチーニ
アンヘル・ニエト
マイク・ヘイルウッド
ミック・ドゥーハン
フィル・リード
ジム・レッドマン
アントン・マング
カルロ・ウビアリ
ジョン・サーティース
ジェフ・デューク
エディ・ローソン
フレディ・スペンサー
ケビン・シュワンツ
ウェイン・レイニー
ケニー・ロバーツ
バーリー・シーン
ワイン・ガードナー
ヤーノ・サーリネン
加藤大治郎
ケーシー・ストーナー








Last updated  Oct 25, 2020 10:29:48 AM
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Oct 7, 2020
カテゴリ:レース
いまだに、サーキットに、ノリックがいないなんて、信じられません。。。


ひょっこり、ピットとかにいるんじゃないかと。。。


もう、あれから13年ですか。。。

H/K AGESの10周年記念LIVEを終わって、朝方メールを見ると。。。

本当に、ショックで、鳥取から京都まで、無事帰れたのが不思議なくらい
ふらふらしていました。。。



自分たちが、心動かされた人々が、応援してきた人々が
まだ、志半ばで、もっとやりたいこと、たくさんあったのに
大切な家族がいて、その人を待っている人がいて、

昨日までは、まったく想像もしていなかった別れ。。悲しみ。。。

本当に辛いです。。。

自分たちは、そのぶん、生きていくしかないのですが


誰からも、愛される人
必要とされる人

そんな人たちが、早く旅立って。。。

私のような人間が、また、もがいているのが。。。やっぱりつらいです。。。





2007年10月7日、18時30分頃に神奈川県川崎市川崎区大島1丁目のUターン禁止の片側二車線道路の市道においてオートバイで走行中、Uターンしようとしたトラックと衝突、直ちに川崎市内の病院へ搬送されたが、事故から2時間後に死去したと報道されている。享年33(32歳没)。

1998/03/07-08 モータースポーツキックオフデーでのノリック


1998/04/03-05 Marlboro Grand Prix of JAPANでのノリック




阿部典史-流星伝説-より









秋ヶ瀬時代やダートトラック時代の動画もありました。。。




Mar 8, 2008 Racingオートバイ (4)




1994年日本GP、あわや一位というところでのクラッシュ。。。








そして1996日本GP、涙の初優勝!!

Nov 1, 2007 鈴鹿8耐DVD発売になりました。 (2)

ヨシムラの優勝とノリックの元気な姿に、また涙しました











8耐最高!!
ノリックも叫んでましたよ



ニュース映像見ると、、、涙が止まらない。。。。





ノリックが交通事故死、トラックと衝突

死去した阿部典史さん(オートバイレーサー)  7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。

 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。

 現場はUターン禁止だった。トラックを運転していた51歳の男性は、道を間違えて引き返そうとしていたといい、同署が自動車運転過失致死の疑いで事情を聴いている。

 阿部さんはオートレース選手の父光雄さんの影響で、5歳でバイクレースを始めた。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝するなど、若くして才能を開花させた。95年から当時、WGPの最高峰クラスだった500CCにフル参戦。翌96年の日本GPで初優勝し、日本人としては14年ぶりの優勝を遂げた。後輪を滑らせながら必死に逃げる姿は、伝説のレースとして多くの2輪ファンに語り継がれている。

 レース中になびかせる長髪がトレードマークで、気さくな性格から「ノリック」の愛称で親しまれた。WGPでは通算3勝、表彰台17回の実績を残し、岡田忠之、伊藤真一らとともに日本に2輪ブームの再来をもたらした。マイケル・ドゥーハンら世界を代表するライダーと対等に渡り合いながら突然、転倒することもあり、「速くて危険なライダー」とも言われた。

 スーパーバイク世界選手権などを転戦後、今季から全日本に復帰。5月のレースでは3位に入り、復活をアピールした矢先の事故だった。

「伝説のライダー」阿部典史さんが事故死 川崎2007年10月08日00時07分

 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。


 川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイ(500cc)と衝突した。千野さんは「道を間違えたので戻ろうとした」と話しているという。現場はUターン禁止だった。

  ◇

 〈阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、阿部さんは東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。






Last updated  Oct 7, 2020 11:49:15 AM
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Sep 5, 2020
カテゴリ:レース
もう10年。。。

大ちゃんの死から、暗く、光が見えていなかった日本レース界に、再び輝いた光

大ちゃんが果たせなかったWGPチャンピオンまで、きっと届いてくれると、日本中が期待していた星

ほんとうに、ショックでした。。。

いまでも、あの多重クラッシュのシーンは見れません。。。




富沢祥也、レース中に事故死 (Moto2) 【 F1-Gate.com 】
ロードレース世界選手権Moto2クラスに参戦する富沢祥也選手が、第12戦サンマリノGPでの決勝レースで事故に遭い、救急車で病院に搬送されたが死亡した。

富沢祥也は、4位を走行中に転倒、後続のアレックス・デ・アンジェリスとスコット・レディングと接触。リッツィオーネの病院に搬送されたが、14時20分(現地時間)に死亡が確認された。享年19歳。




富沢 祥也 (とみざわ しょうや、1990年12月10日 - 2010年9月5日)は、千葉県旭市出身のオートバイレーサー。2008年の全日本ロードレース選手権250ccクラスシリーズ2位。2009年から2010年までロードレース世界選手権に参戦した。






Last updated  Sep 5, 2020 07:51:45 PM
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Sep 4, 2020
カテゴリ:レース
今日は沼田 憲保さんの命日ですね。もう、13年ですか。。。

Suzuki乗りの私にとって、ガンマでの優勝は、本当に嬉しかった。
ずっと、心の中のヒーローです。

私が沼田さんの訃報を聞いたのは、二日後でした。そのときのブログ記事です。

このさらに二日後、SUZUKI MEETINGで、GK71B CLUBのクラブ紹介のときに、沼田さんの訃報を紹介し、沼田さんがどれだけ偉大なSUZUKI乗りだったかを、紹介させていただき、皆で御冥福を祈りました。



Sep 6, 2007 追悼沼田憲保さん

愛知のひろゆきさんと電話でお話していて教えていただきました
元全日本250チャンピオン、SUZUKI Γでの全日本連覇を勲章に250cc参戦していなかったSUZUKIでのWGP参戦
最近はYAMAHAでのエントリーが多かったですが、鈴鹿8耐や、全日本600での健闘を目にしたばかりでした
この前の日曜日もケーブルの全日本で元気な姿を見て、岡田さん、イトシンだけでなく
バイクブーム時代のチャンピオンが、まだまだがんばってるなと、応援しておりました。

SUZUKI大好きな私のなかでは、Γで世界に出て行く日本人という、レース史の中でも
非常に印象に残る方で、尊敬しておりましたし、ヒーローでした

明日お通夜、スズキミーティングのある9/8に告別式とのことです

ご冥福をお祈りいたします


練習中 二輪プロレーサーが事故死

 4日午前10時50分ごろ、岡山県美作市滝宮の岡山国際サーキットで、練習走行中のプロレーサー沼田憲保(本名高橋憲保)さん(41)=千葉県流山市松ケ丘4丁目=のオートバイ(600CC)がタイヤバリアーに衝突。沼田さんは胸を強く打ち間もなく死亡した。

 美作署の調べでは、沼田さんは午前9時すぎから走行。ヘアピンカーブを曲がりきれず、壁のように積み上げられたタイヤに衝突した。

 サーキットは1周約3・7キロで、事故当時は沼田さんを含め10台ほどが練習中だった。

 沼田さんは29日から同サーキットで開かれる全日本ロードレース選手権シリーズ第6戦に参戦予定だった













沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日 - 2007年9月4日)は、茨城県日立市出身のモーターサイクル・ロードレースライダー。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」の異名をとった。

デビュー~全日本時代

1988年にSP250クラスでデビュー。ノービス時代は、ミラージュ関東に席をおき、1990年のSUGO選手権では3クラスでチャンピオンを獲得した。翌年に特別昇格で国際A級ライセンスを得ると、スズキワークスのRGV‐Γ250開発兼任で全日本ロードレース選手権250ccクラスにフル参戦を開始した。原田哲也・岡田忠之・青木宣篤ら強豪がひしめく中、まだポテンシャルの低かったマシンで苦戦を強いられ、初表彰台(3位)に立ったのは1992年第3戦だった。

原田らがロードレース世界選手権に進出した1993年には第9戦で初優勝するも、マシンの性能差や宇川徹の台頭などがありランキング5位で終わる。1994年にはランキング2位、1995年には翌年ロードレース世界選手権参戦が決定していた宇川を退けクラス・チャンピオンの栄光を掴んだ。1996年には、加藤大治郎や芳賀健輔との争いを制し連覇を成し遂げた。

世界グランプリ時代

スズキは1997年からロードレース世界選手権GP250での参戦を決定し、アリー・モレナー・レーシングのエースライダーとして沼田もフルエントリーされた。サーキットのデータ不足やマシンの性能差は彼を苦しめ、2年で沼田は撤退。

再び全日本へ

1999年、活躍の場を4ストマシンに切り替えた。同年から5年連続で鈴鹿8時間耐久ロードレースにエントリー。2004年から全日本ロードレース選手権ST600クラスにフル参戦し、第3戦では雨の筑波を制して8年ぶりに優勝。

後進の育成にも積極的で、ライディングスクールの講師役なども務めていた。

2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打ち胸部破裂で急逝した。41歳没。







孤高の戦士 沼田憲保(ぬまたのりやす)は2年連続全日本チャンピオンのガンマ使い!


スズキの至宝!沼田憲保はΓ使いの本格派

沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日生まれ)
茨城県日立市出身のオートバイレーサー。

沼田選手は、1995年、1996年と2年連続の全日本ロードレース国際A級 GP250ccクラス全日本チャンピオンです。

スズキのマシンRGV-Γ250を駆り、全日本を暴れまわりました。






沼田憲保選手について
ミラージュ関東出身。
雨天でのレースに強く、「雨の沼田」と呼ばれました。

1988年 ロードレースデビュー 
22歳なのでまわりとくらべると遅いスタートでした。
参戦クラスはSP250。

1990年 SUGO選手権で3クラスを制する3冠チャンピオンとなる。

1991年 国際A級に特別昇格 全日本GP250ccクラスへフル参戦
この年からスズキワークス入りの大抜擢
RGV-Γ250の開発兼ライダーとなる

その後、1992年 初表彰台、1993年 初優勝、1994年 ランキング2位と着実にステップアップしていき、1995年にはついに全日本チャンピオン、1996年も2連覇を成し遂げます。

1996年からは世界グランプリに舞台を移しますが……。



沼田選手の主な戦績
戦績
1990年 SUGO選手権でSP250、NB-F3、NB250の3クラスでチャンピオン
1991年 全日本選手権 GP250 ランキング14位
1992年 全日本選手権 GP250 ランキング9位(初表彰台)
1993年 全日本選手権 GP250 ランキング5位(初優勝)
1994年 全日本選手権 GP250 ランキング2位
1995年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン
1996年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン(2連覇)
1997年 世界選手権 WGP250 ランキング12位
1998年 世界選手権 WGP250 ランキング16位
1999年 世界選手権 WGP500 ランキング29位 Muz Weber
 8時間耐久に参戦
2000年 スーパースポーツ世界選手権 ヤマハ
 8時間耐久に参戦
2003年 スーパーバイク世界選手権 ドゥカティ
 8時間耐久に参戦
2004年 全日本選手権 ST600 ランキング4位
 8時間耐久に参戦
2005年 全日本選手権 ST600 ランキング6位
 8時間耐久に参戦
2006年 全日本選手権 ST600 ランキング23位
2007年 全日本選手権 ST600 ランキング11位(第5戦終了時)


RGV-Γ250で闘う沼田憲保選手(動画)

▼▼▼1994年SUZUKI全日本ロードレース情報(RGV-Γ250)


▼▼▼1994年の全日本GP250ccクラス第10戦 菅生サーキット


▼▼▼1996年の世界選手権日本GP鈴鹿ROUND


沼田選手はゼッケン#52のラッキーストライクスズキ号です。

削除されていたらごめんなさい。



孤軍奮闘
スズキのマシンRGV-Γ250での参戦は、開発とレースの同時進行。
沼田選手はその両方を一手に任されて、孤軍奮闘の様子でした。

しかも当時のライバルたちの顔ぶれときたら……
マシンで言うなら、NSR250、YZR250。
ライダーで言うなら、宇川徹や加藤大治郎、芳賀健輔といった強者達を退けてのチャンピオンには相当な価値があるように思います。



世界選手権参戦の苦労
アリー・モレナー・レーシングチームのエースライダーとして、世界選手権のワールドグランプリに行ってからも、ますます苦労されていたように思います。

マシンの開発や熟成度の差だけではなく、ホンダNSR250やヤマハYZR250には長年積み上げてきたデータなどもあり、セッティング出しなどについてのアドバンテージも相当大きかっただろうと思います。

若井伸之選手が生きていたら随分違ったのかもしれません。そう思うと、もっと活躍して良かった選手なのだろうと思います。

全日本復帰後の沼田選手
2004年からロードレース全日本選手権に復帰。
しかし、2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打って急逝した。享年41歳。惜しい人を亡くしました。






Last updated  Sep 4, 2020 07:06:35 AM
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Aug 10, 2020
カテゴリ:レース
OGURA CLUTCH with RIDE INからST1000にエントリーされていた岩崎 哲朗選手が、本日のSUGOの全日本選手権決勝のシケインの事故で、お亡くなりになられたそうです。。。

また、悲しい事故が。。。

ご自身のチームのFBでも、昨日の大転倒から、復活したと配信されたりしてたのに。。。


Facebookのエムスポさんの配信されてた赤旗の時なのでしょうか。。。



御冥福を、お祈りいたします。。。





2019 ライダープロフィール


J-GP2
J-GP2 #70 岩崎 哲朗





ライダー 岩崎 哲朗
フリガナ イワザキ テツロウ
Date of birth 1977年4月24日
身長 /体重 170 cm / 59 kg
靴サイズ 26 cm
血液型 A 型
クラス J-GP2
ゼッケン 70
マシン Kawasaki ZX-6R
タイヤ PIRELLI
ヘルメット Arai
スーツ KUSHITANI
グローブ KUSHITANI
ブーツ alpinestars
所属チーム OGURA clutch with RIDE IN
出身地 栃木県
住まい 栃木県日光市
出身校 栃木県立足尾高等学校
趣味 野球/マラソン/スノーボード
好きなスポーツ モータースポーツ
好きな食べ物 スイーツ
Messeage J-GP2ラストイヤー、チャンピオンを目指します!




2020 ライダープロフィール
ST1000
ST1000 #70 岩崎 哲朗
ライダー 岩崎 哲朗
フリガナ イワザキ テツロウ
Date of birth 1977年4月24日
身長 /体重 170 cm / 57 kg
靴サイズ 26 cm
血液型 A 型
クラス ST1000
ゼッケン 70
マシン YAMAHA YZF-R1
タイヤ DUNLOP
ヘルメット Arai
スーツ KUSHITANI
グローブ KUSHITANI
ブーツ alpinestars
所属チーム OGURA CLUTCH with RIDE IN
出身地 栃木県
住まい 栃木県日光市
出身校 栃木県立足尾高等学校
趣味 野球/マラソン/スノーボード
好きなスポーツ モータースポーツ
好きな食べ物 スイーツ
戦 歴
2019 全日本選手権J-GP2ランキング4位
2018 全日本選手権J-GP2ランキング5位
2017 全日本選手権J-GP2ランキング9位
2016 全日本選手権J-GP2ランキング15位
2015 全日本選手権J-GP2ランキング7位
2014 全日本選手権ST600ランキング4位
2013 全日本選手権ST600ランキング7位
2012 全日本選手権ST600ランキング14位
2011 全日本選手権ST600ランキング9位
2010 全日本選手権ST600ランキング21位
2009 筑波選手権ST600チャンピオン
もてぎ選手権ST600チャンピオン
2008 筑波選手権ST600ランキング13位




バイクレース中に転倒1人死亡
08月10日 18時41分



村田町にあるサーキット場で行われていたオートバイのレース中にバイクが転倒し、乗っていた43歳の男性選手が死亡しました。

10日午後0時半ごろ、村田町にあるサーキット場を中心とした複合レジャー施設「スポーツランドSUGO」で開かれていたオートバイのレース中にバイク1台が転倒し、後続のバイクと接触しました。
この事故で、転倒したバイクに乗っていた栃木県日光市の岩崎哲朗選手(43)が全身を強く打ち病院に運ばれましたが、数時間後に死亡が確認されました。
警察などによりますと、会場では9日から『全日本ロードレース選手権』が開かれ、クラスごとにレースが行われていて、岩崎選手が出場したのは、1周およそ4キロのコースを17周で争うレースだったということです。
岩崎選手はコース終盤の『シケイン』と呼ばれる区間を通過しようとした際に転倒したということで、警察は、レースの関係者から話を聞くなどして事故の詳しい原因を調べています。






Last updated  Aug 10, 2020 08:13:13 PM
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May 1, 2020
カテゴリ:レース
5月1日は若井伸之さんの命日です

本当に、ものすごい人物で、人柄で。。。若井さんがいたから、ほかのみんなが活躍できた。。。


もう27年ですか。。。


坂田さん、上田さんとともに、125ccで世界で大活躍して、250で頑張っていた矢先でしたね。

当時は、γだったんだなぁ

ヘレスで、ピットロードに入ってきた観客をよけて、、、、


本当に信じられませんでした。。。


陽気で人気者で、フラミンゴという愛称で海外のレーサー、ファンにも慕われていました。


あの頃の日本人は、本当に強かった

その先駆者として、本当にがんばっておられました。

若井さんの速さと強さ、優しさは、ずっと忘れません。








若井 伸之(わかい のぶゆき、1967年7月25日 - 1993年5月1日)は、千葉県八千代市出身の日本のオートバイレーサー。かつてロードレース世界選手権(WGP)の125ccクラス・250ccクラスに参戦していた。細身で長身な体格と、その長い手足を折り畳むライディングスタイルから「フラミンゴ」の愛称で親しまれた。


1990年に全日本ロードレース選手権でランキング2位となった若井は、翌1991年から坂田和人・上田昇(当初はスポット参戦)とともにWGP・125ccクラスにフル参戦を開始。他の2人とともに、プライベート日本人ライダーの先駆者となった。当初はなかなか結果を残せずにいたが、最終戦マレーシアGPでは、トップ争いの末3位表彰台を獲得。

翌1992年開幕戦日本GPでも、雨の中地元で3位に入るなど、結果を残すようになる。またドイツGPでは、怪我により欠場したウィルコ・ズィーレンベルグの代役として、スズキから250ccクラスにスポット参戦、7位入賞を果たしている。

1993年、若井はスズキから型落ちのワークスマシンRGV250-γの貸与を受け、250ccクラスにステップアップ。しかし250ccクラスのマシンに馴染めず、同年から参戦した親友で弟分の原田哲也らが活躍を続ける一方で、結果を出せずにいた。



第4戦スペインGPの予選中、タイムアタックを行うべく、フル加速でピットロードから飛び出そうとしていた若井の前に、突然観客が飛び出してきた。この観客はロリス・レジアーニの招待客であり、本来パスがなければ入れない場所に無断でいたところを、オフィシャルに見つかり逃げ出したところだった。若井が回避を試みたため、接触こそしたものの観客は軽傷で済んだが、若井本人はバランスを崩してピットロードのコンクリートウォールに激突。頭部を強打した若井は懸命の治療の甲斐無く死去、25歳没。1986年に完成したヘレス・サーキットで初めての死亡事故となった。

若井の死を受けて、他の日本人ライダーは当初出走の辞退も考えたが、原田が出走を決意したのを皮切りに、最終的には「若井のために頑張ろう」と出場を決めた。250ccクラスの決勝では、原田がコースレコードをも更新する走りで、他に大差を付けて優勝。125ccクラスでも、坂田がラルフ・ウォルドマンを振り切り、WGP初優勝を遂げた。

レース終了後、原田はバイクにまたがったまま号泣し続け、坂田も表彰台で悲壮な表情と涙をみせた。また、このレースで5位に入賞した上田はレース後、若井の事故現場まで自身のマシンで近づき、コンクリートウォールを軽く叩いて若井に別れを告げた。原田はこのときの優勝トロフィーを、若井の遺族に送ったという。



2012年に、サンスポに若井さんを惜しむ記事がありました

若井伸之を偲んで建てられたフラミンゴ像

 4月27~29日にMotoGP第2戦が開催されるスペイン・ヘレスサーキットの片隅に、ひっそりとフラミンゴの像がたたずんでいる。レースに造詣の深い人には、この像の由来を今さら説明する必要はないだろう。ただし、近年になってレースに興味を持ち始めたファンには、あまり馴染みがないかもしれない。これは、1993年にこのサーキットで命を落とした日本人選手、若井伸之を偲んで建てられた像なのである。

若井は、1990年に全日本選手権125CCクラスでランキング2位を獲得し、翌年から世界グランプリのフル参戦を開始した。この年には、坂田和人と上田昇も125CCクラスのフル参戦を果たしている。1991年のこの時、若井23歳、坂田24歳、上田23歳。開幕戦日本GPの舞台鈴鹿サーキットで上田は劇的なポールトゥウィンを達成。シーズン最終戦のマレーシアGPでは坂田が2位、若井は3位で表彰台を獲得した。身長の高い若井が、長い手足を折りたたむように小さな125CCマシンを操る様子はフラミンゴの姿にもたとえられた。

 1992年、上田はランキング9位、若井10位、坂田11位。93年に上田と坂田は125CCで継続参戦する一方、若井は250CCに転向する。この年、彼らのもうひとりの親友、原田哲也が250CCクラスに登場した。原田は開幕戦オーストラリアで衝撃のデビューウィン、第2戦マレーシアは2位、第3戦日本GPで優勝、と快進撃を続けていた。そして第4戦のスペインGPを迎える。

 土曜の予選で、若井がコースへ出ようとしたときに悲劇が発生した。ピットレーンに観客が飛び出し、この観客との接触を回避しようとした若井はピットロードの壁に衝突、頭部を強打した。懸命の治療の甲斐なく、25歳で逝去。翌日の決勝レースでは、125CCクラスで坂田が初優勝を達成。堪えていた涙が表彰台で一気に爆発した。5位でフィニッシュした上田は、自らのピットガレージへ戻る際、マシンに跨がりながら若井の激突したウォールに触れ、別れを告げた。250CCクラスでは原田が優勝。レースを終えてヘルメットを脱いだ後も、原田の涙は止まらなかった。若井の死を悼む意味から、このクラスの表彰式は行われなかった。

 そして1994年2月、ヘレスサーキットにフラミンゴの像が建立された。その碑文には、以下のようなことばが記されている。

「魂と肉体の翼いまだ衰えぬまま この地に止まりて挑むは 汝ら志ひとしき同胞 飽かず疾駆する勇姿なり」

 コース脇のフェンス内側に立つフラミンゴの像が選手たちの姿を今も見つめ続けるなか、ヘレスサーキットは若井の事故から20回目のグランプリを迎える。(モータージャーナリスト・西村章)






Last updated  May 1, 2020 12:31:28 PM
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Apr 24, 2020
カテゴリ:レース
あの悲しい事故から9年ですか。。。

震災の年だったんですよね。。。
チャリティとかでもがんばっておられたのに。。。





高橋江紀が交通事故で死去

まだ23歳…。これからと言うときのアクシデント


News 2011/04/25 12:17:36

20110425_01.jpg
高橋江紀が4月24日(日)に交通事故に遭い死去した。享年23。

高橋は、2005年に全日本GP250クラスにフル参戦を開始。その緒戦で青山周平を破り劇的な初優勝を達成、ランキング3位となる。2007年よりST600クラスにスイッチ。昨年は、新設されたJ-GP2クラスに出場。MotoGPロードレース世界選手権日本グランプリにもスポット参戦した。

今シーズンよりRS-ITOに移籍。心機一転、カワサキZX-6Rを駆り、ST600クラスに参戦する予定だった。シーズンオフから筑波サーキットで走り込み調子も上々だったが、東日本大震災の影響で開幕戦筑波が中止となってしまい、その成果は発揮できずにいた。4月上旬には、オートポリスに遠征、コンディションに恵まれず満足に走れなかったが、自己ベストを更新したと好調ぶりを語っていた。違う環境に飛び込み、まさにこれからというときに起きたアクシデントだった。

高橋は、東日本大震災の被災者の支援も積極的に行っており、20日(水)には、所属チームの一員として川越駅前で募金活動を行い、23日(土)には、自身がインストラクターも務める桶川スポーツランドで「RT311」と題したチャリティーイベントを開催していた。

心からご冥福をお祈りいたします。






Last updated  Apr 24, 2020 06:04:37 PM
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Mar 16, 2020
カテゴリ:レース
中山翔太さんの訃報。。。
もう5年なんですね。。。
高校を卒業して、これからという時の事故。。。
それも自転車でのもらい事故。。。

ほんとうに、たくさん泣きました。。。

愛理さん、お兄さんの分まで、ずっと頑張っておられましたが、昨シーズンで一線を退くと。。。。
お兄さんがいけなかった大学を卒業。。。就職ということで、全日本の前線からは引退されました。。

そして弟の中山耀介さんと妹の中山恵莉菜さんに、夢は引き継がれたのだと思います。。。


中山翔太が交通事故で死去

新しいシーズンの開幕を前にして痛ましい事故が起きてしまった。2015年は、ゼッケン13をつけて全日本フル参戦3年目のシーズンを迎えようとしていた中山翔太が3月16日(月)夕方に交通事故に遭い還らぬ人となってしまった。教習所に向かっているときにクルマにはねられてしまったそうだ。まだ18歳の若さだった…。

1996年5月30日・兵庫県姫路市出身の中山は、岡山国際サーキットを中心に活躍し、2013年より全日本J-GP3クラスにフル参戦を開始。昨年は、ランキング13位となっていた。今年は、J-GP3クラスチャンピオンチームのTEAM PLUSONEに移籍し、まさにこれからという時だった。

これから開花するであろう若い才能が、また一つ失われてしまった。心からご冥福をお祈り申し上げます。



兄妹の高校生ライダー、全日本選手権で活躍誓う 姫路

「高校生ライダー」として全国で活動する兵庫県姫路市白鳥台の中山翔太さん(18)=琴丘高3年=と愛理さん(16)=姫路東高2年=の兄妹が1、2日、鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)で開かれるバイクレース「全日本ロードレース選手権」に出場する。バイク歴10年を超え、大人に混じって実力を蓄えてきた2人。あこがれの舞台で活躍を誓う。






Last updated  Mar 16, 2020 12:01:59 PM
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Mar 13, 2020
カテゴリ:レース
まあ、しょうがないですね。。。
チーム内に出てしまったら。。。


F1開幕戦豪州GPが中止 マクラーレンで感染者発生
 自動車のF1シリーズ開幕戦オーストラリアGP(メルボルン、アルバートパーク・サーキット=1周5・303キロ)が、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で中止されることが13日、発表された。この日からフリー走行が始まり、14日に予選、15日に決勝が行われる予定だった。昨季、製造者部門4位のマクラーレンはチームスタッフに感染者が発生したことを受け、12日にレースを欠場すると発表していた。

 第2戦バーレーンGP(22日決勝)は無観客開催が決まっており、4月19日に決勝が予定されていた第4戦中国GPは延期を発表済み。初開催となる第3戦ベトナムGP(4月5日決勝)も流動的となっている。


F1オーストラリアGP、開催当日に急きょ中止を決定。チームスタッフの新型コロナウイルス感染で苦渋の決断
autosport web



F1 | F1オーストラリアGP、開催当日に急きょ中止を決定。チームスタッフの新型コロナウイルス感染で苦渋の決断

 FIAとF1は、3月13日(金)の現地時間早朝10時に、今週末に行われる予定だった開幕戦オーストラリアGPの開催を中止することを発表した。主催者の支持のもと、F1のすべての活動をキャンセルするという決断がなされた。

 2020年シーズンの開幕戦としてメルボルンのアルバート・パーク・サーキットで開催予定だったオーストラリアGPだが、11日には9名の関係者に発熱の症状などが発生し、現地メルボルンで検査を受けていた。そのなかでマクラーレンのスタッフ1名が新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に罹患し、マクラーレンが今週末の出場中止を決定。この状況を受けて、F1、FIA、チーム代表らがグランプリ自体の開催を進めるべきかどうかを昨日の深夜に協議していた。

 当初はSky Sportsが決行説、BBSが中止説を報じ、混乱。関係者やファンが長時間待ち続けるなか、F1、FIAからの発表は現地朝にまでずれ込んだ。

 協議の結果として発表されたのは、グランプリの中止。マクラーレンの欠場発表が現地木曜22時半、F1およびFIAの発表は、プラクティススタートが迫る金曜10時であり、関係者たちからは、F1およびFIAの対応の遅れとまずさに不満が集まっている。





2020年F1第1戦オーストラリアGP水曜 コース下見をするレッドブル・レーシングのメンバー
 3月11日(水)の時点で明らかになっていたのは、マクラーレンのスタッフ1名とハースのスタッフ4名に初期症状のひとつである発熱が見られ、アルバートパークの検疫所で検査を受け、スタッフらはホテルの部屋で自己隔離を行っていた。

 検査の結果、12日(木)にマクラーレンのスタッフは陽性であることが判明し、その後マクラーレンはオーストラリアGPへの出場を取りやめることを発表した。なお、ハースの4名の検査結果は陰性だった。

 木曜夜の主催者発表では、12日時点で9人が検査を受け、ひとりが陽性、7人が陰性、ひとりが結果待ちという状況であることが明らかになっている。






Last updated  Mar 13, 2020 12:06:44 PM
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Mar 12, 2020
カテゴリ:レース
回復を祈ります。。。


マクラーレン・チームが開幕戦欠場 メンバーにコロナ陽性者/F1
 F1世界選手権シリーズに参戦するマクラーレン・チームは12日、チームメンバーの1人が新型コロナウイルスの検査で陽性となったため、13日に開幕する今季初戦・オーストラリアGPに出場しないと発表した。

 F1参戦チームは15日決勝の同GPに向けて今週、現地入りして準備を進めていた。発熱などの症状があり、検査を受けるとともに自主的に隔離状態にあったメンバーはが陽性の結果を受けた。

 カルロス・サインツ(スペイン)とランド・ノリス(英国)の両ドライバーは開幕戦を棄権する。

 チームは声明文で「この状況が起こりうると予測し、チームは準備を進めており、今後、検疫のため隔離に入るチームメンバーへの支援も進んでいる。チームは現地保健当局の調査と分析に協力する」としている。

 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、F1では4月の第4戦・中国GPの延期、第2戦・バーレーンGPの無観客での開催が決まっている。



マクラーレンスタッフの新型コロナ感染にF1が声明「最優先はファンとチーム、レースにかかわる全員の安全」
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F1 | マクラーレンスタッフの新型コロナ感染にF1が声明「最優先はファンとチーム、レースにかかわる全員の安全」

 マクラーレンF1のオーストラリアGP欠場の決定を受けて、F1は「我々が最優先しているのはファンとチーム、レースにかかわる全員の安全だ」との声明を発表した。

 マクラーレンF1では、3月11日(水)に現地で体調を崩したスタッフの新型コロナウイルス(COVID-19)感染が疑われ、12日(木)に陽性反応を確認。この検査結果を受けて、チームはオーストラリアGPに参戦しないと発表した。

 この決定を受けて、F1側も声明を発表。「マクラーレンF1のチームメンバーに陽性反応が出たことを受け、F1とFIAはマクラーレンと密に連携して今回の決定に関わった」とした。

「また我々は関係する地元当局とも連絡を取り、次のステップについて調整を進めてきた。我々が最優先しているのはファンとチーム、レースにかかわる全員の安全だ」

 なお、オーストラリア・メルボルンでは現地23時を回ったあとも、全チームが集まっての会合が行われている模様だ。






Last updated  Mar 12, 2020 11:02:35 PM
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