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テーマ:街歩き(648)
カテゴリ:街歩き
太平洋戦争に敗れ、その戦争を生き延びた若者が「絶望の天に向って、ゆるやかに投身する」ような痛切な思いで生きていた頃、日本の民主主義は産声をあげた。 中桐雅夫の詩からもう70年近く、いや、まだ70年も経っていなくて、日本の幼い民主主義がまだ一人歩きもできないというのに、いまや日本ではネオ・ファシズム政党、自民党政権によって「幼児虐殺のごとき」民主主義の抹殺が始まっている。このままでは、日本人はついに自らの手で民主主義を育てられないまま歴史を閉じてしまうことになる。幼い命を守り、育てなければならない。抗いが必要だ。
今日の金デモの集まりは45人。少ないと言えば少ないのだが、これはコアのメンバーだ。コアが45人もいれば、いつものように膨らむ余地を十分に残しているということだ。 たぶん、これまで金デモに参加してきた人は戸惑っているのではないかと思う。少なくとも、私はそうだ。特定秘密保護法の12月施行の閣議決定を初めとするファッショ的な政策攻勢が次々に繰り出され、それぞれに対応しなければと、私(たち)はとても気ぜわしい感じになっている。自民党政府のやることなすこと、一言半句まで腹が立ち、反撃をしなければと考えることが多すぎるのだ。
元鍛冶丁公園が集合場所の時は、一番町まで出る道で国分町と稲荷小路を横切る。国分町は東北一の歓楽街と言われている(らしい)が、私がまだ若くて飲み歩いていた頃の国分町には店が少なくて、街全体が薄暗い感じがして、私はあまり近寄らなかった。その頃の盛り場は、国分町の隣の稲荷小路だった。 そのような飲み屋街をデモが通過していくというのは場違いな感じがして、私には面白い。しかし、お子さん連れのお母さんたちには不評で、元鍛冶丁公園のときは参加しづらいという声があるのはもっともなことだ。面白がっている私でさせ、客引き規制がなかったころはあまり通り抜けたくない道だったのだから。
一番町は昔からの繁華街だが、ずっと続いている店は少なくなった。ほとんどが中央資本だという。私にはなんの店か分からない店舗も増えた。囓りかけの林檎マークくらいは分かるが、店名に逆さ文字の入るその隣は見当もつかない。 政治においても同じだ。想田和弘さんが書いていたが、並べられた商品としての政治選択をするだけなのだ [4] 。商品が並べられていなければアウトである。ネットショッピングで「民主主義」を購入しようとしたのに売っていないと嘆くのである。しょうがないので、次善の商品として「決められる政治」などというコマーシャルを流している小泉自民党や橋下維新の会という政治商品に雪崩を打ったのは記憶に新しい。 結論として言えば、日本人の政治意識は三、四歳児が地べたに寝っ転がって「あれ買ってぇ~」と駄駄を捏ねているレベルにしか見えない。目の前に並んでいる物しか見えないし、それを選ぶしか能がないのである。消費欲、物欲が勝って不買運動など思いもよらない。 しかし、これは深刻なことだ。政治選択の商品を店先に並べるという点において政治権力を握った者は格段に有利である。選択肢を狭める(商品数を減らす)ことが恣意的にできるからである。労働者から消費者へとその存在を変質させてきた大衆は、消費者マインドが嵩じるのに応じて、ますます権力が用意した商品を選ぶだけなのだ。だから、世界中で右傾化が進んでいるのだと私は考えている。決して偶発的にいろんな国で右傾化が進んでいるわけではないのだ。 とはいえ、消費者マインドを拒否しているマイノリティはどの国でもどの社会でも確実に存在している。今はマイノリティであっても、その核(コア)が中心となる運動に期待をかけるしかない。コアが大事なのだ。たった45人の金デモだが、そのコアの45人に意味があるのだ。
今日のデモは冷え込みがきつかった。挨拶はことごとく「今日は寒いですね」だった。たくさん着込んできた人もいたが、私はいつも通りの服装で出てきてしまった。カメラアングルにいい場所を探す振りをして、寒さしのぎに駆け足をしてみたりした。暖まるか、疲れ切るか、年甲斐もないことを今日もしているのだ。 政治的なニュースは不愉快なことが多いが、その中で安倍晋三が女性活用だと称して選んだ女性閣僚が不祥事でもう辞めそうだとか、辞めざるをえないだろうというニュースに喜んでいる自分に気づいてうんざりしてしまう。
風の中に潜んで私を「誑かすもの」、曲がり角の向こうで私を待っている「ぬらりとしたもの」は、私の人生を豊かにするような気がするが、テレビニュースの中、新聞記事の中から現われる「誑かすもの」、「ぬらりとしたもの」はきちんと確実に拒絶して生きたい。そう願っている。
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