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山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

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小野寺秀也

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2014.10.17
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テーマ:街歩き(648)
カテゴリ:街歩き

聞け、吹きつのっている風の音を、
一九四五年秋の一日、
東京麹町区内幸町一丁目、
勧業銀行ビルの四ツ角に、
いま吹きつのっている風の音を
それは、まるで世界の中心から発したもののように、
激し、激して、ついに俺を涙ぐませるのだ。

俺は、絶望の天に向って、ゆるやかに投身す
            中桐雅夫「一九四五年秋II」部分 [1]

 太平洋戦争に敗れ、その戦争を生き延びた若者が「絶望の天に向って、ゆるやかに投身する」ような痛切な思いで生きていた頃、日本の民主主義は産声をあげた。

 中桐雅夫の詩からもう70年近く、いや、まだ70年も経っていなくて、日本の幼い民主主義がまだ一人歩きもできないというのに、いまや日本ではネオ・ファシズム政党、自民党政権によって「幼児虐殺のごとき」民主主義の抹殺が始まっている。このままでは、日本人はついに自らの手で民主主義を育てられないまま歴史を閉じてしまうことになる。幼い命を守り、育てなければならない。抗いが必要だ。

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元鍛冶丁公園の集会。 (2014/10/17 18:17)

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元鍛冶丁公園から出発するデモ。 (2014/10/17 18:31)

 今日の金デモの集まりは45人。少ないと言えば少ないのだが、これはコアのメンバーだ。コアが45人もいれば、いつものように膨らむ余地を十分に残しているということだ。

 たぶん、これまで金デモに参加してきた人は戸惑っているのではないかと思う。少なくとも、私はそうだ。特定秘密保護法の12月施行の閣議決定を初めとするファッショ的な政策攻勢が次々に繰り出され、それぞれに対応しなければと、私(たち)はとても気ぜわしい感じになっている。自民党政府のやることなすこと、一言半句まで腹が立ち、反撃をしなければと考えることが多すぎるのだ。
 それぞれがどこかで行動を起こしているに違いない。金デモの人数が一時的に減るのは情況的にやむを得ない、などといかにも大げさで政治的な自己満足の言説になってしまうが、私としてはそう思いたいのである。幸か不幸か、私にはあまり行動力がないので、金デモに参加し続けるしかないのだが。

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東北一の歓楽街、国分町を横断する。 (2014/10/17 18:32)

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稲荷小路も夜の街。 (2014/10/17 18:33)

 元鍛冶丁公園が集合場所の時は、一番町まで出る道で国分町と稲荷小路を横切る。国分町は東北一の歓楽街と言われている(らしい)が、私がまだ若くて飲み歩いていた頃の国分町には店が少なくて、街全体が薄暗い感じがして、私はあまり近寄らなかった。その頃の盛り場は、国分町の隣の稲荷小路だった。

 そのような飲み屋街をデモが通過していくというのは場違いな感じがして、私には面白い。しかし、お子さん連れのお母さんたちには不評で、元鍛冶丁公園のときは参加しづらいという声があるのはもっともなことだ。面白がっている私でさせ、客引き規制がなかったころはあまり通り抜けたくない道だったのだから。

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一番町広瀬通り角は若者たちの待ち合わせ場所。 (2014/10/17 18:40)

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年寄りには未知の店が並ぶ一番町。 (2014/10/17 18:42)

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明るい中央通り入口前を通過。 (2014/10/17 18:46)

 一番町は昔からの繁華街だが、ずっと続いている店は少なくなった。ほとんどが中央資本だという。私にはなんの店か分からない店舗も増えた。囓りかけの林檎マークくらいは分かるが、店名に逆さ文字の入るその隣は見当もつかない。
 私(たち)のような年寄りだって若者に負けず、ポストモダン社会(バウマン流に言えば、リキッド・モダニティ)の消費文化にどっぷり浸かってきたのだが、資本の側は若者の方ばかりを向いているので、店も商品も年寄りにはチンプンカンプンなのだ。
 若者ばかりではなく、私たち全体が消費文化に染まりきっているということは、私たちの行動様式では商品選択だけが意志決定の手段になっているということだ。品揃えの範囲内での思考と行動なのである。品揃えが少なければ貧しいと感じるのではなく、商品選択に偏りが生じて簡単に◯◯ブームになってしまうのである。みんなで一つの商品に群がるのだ。だから、敵は戦略的に品数を減らしたりするのだ。

 政治においても同じだ。想田和弘さんが書いていたが、並べられた商品としての政治選択をするだけなのだ [4] 。商品が並べられていなければアウトである。ネットショッピングで「民主主義」を購入しようとしたのに売っていないと嘆くのである。しょうがないので、次善の商品として「決められる政治」などというコマーシャルを流している小泉自民党や橋下維新の会という政治商品に雪崩を打ったのは記憶に新しい。
 コマーシャルというのはムード、気分が大事なのだ。だから「美しい日本」だとか「日本を取りもどす」などという実体の伴わない美辞麗句が飛び交うのである。これは阿倍晋三が悪いと言うより、日本人の消費者マインドを掴んだ自民党マーケティングの当然の帰結と言えば言えるのだ(情けないが)。

 結論として言えば、日本人の政治意識は三、四歳児が地べたに寝っ転がって「あれ買ってぇ~」と駄駄を捏ねているレベルにしか見えない。目の前に並んでいる物しか見えないし、それを選ぶしか能がないのである。消費欲、物欲が勝って不買運動など思いもよらない。

 しかし、これは深刻なことだ。政治選択の商品を店先に並べるという点において政治権力を握った者は格段に有利である。選択肢を狭める(商品数を減らす)ことが恣意的にできるからである。労働者から消費者へとその存在を変質させてきた大衆は、消費者マインドが嵩じるのに応じて、ますます権力が用意した商品を選ぶだけなのだ。だから、世界中で右傾化が進んでいるのだと私は考えている。決して偶発的にいろんな国で右傾化が進んでいるわけではないのだ。

 とはいえ、消費者マインドを拒否しているマイノリティはどの国でもどの社会でも確実に存在している。今はマイノリティであっても、その核(コア)が中心となる運動に期待をかけるしかない。コアが大事なのだ。たった45人の金デモだが、そのコアの45人に意味があるのだ。

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青葉通りを行く。 (2014/10/17 18:55)

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大通り(国道4号)を渡っていくデモ。 (2014/10/17 18:57)

 今日のデモは冷え込みがきつかった。挨拶はことごとく「今日は寒いですね」だった。たくさん着込んできた人もいたが、私はいつも通りの服装で出てきてしまった。カメラアングルにいい場所を探す振りをして、寒さしのぎに駆け足をしてみたりした。暖まるか、疲れ切るか、年甲斐もないことを今日もしているのだ。

 政治的なニュースは不愉快なことが多いが、その中で安倍晋三が女性活用だと称して選んだ女性閣僚が不祥事でもう辞めそうだとか、辞めざるをえないだろうというニュースに喜んでいる自分に気づいてうんざりしてしまう。
 松島みどりや小渕優子が大臣を辞職するのは大歓迎だが、自分の国の大臣が違法行為で辞任するのを喜ぶなんて、なんて不幸な国で生きているのだろうと思うのだ。

秋風に吾を誑かすもののあれや    三橋鷹女 [2]

ただまっすぐに
街のとおりがつっぱしっているのもかなしいが
ふとしたまがりかどへきたとき
そこになにかしら
ひとだまのように
ぬらりとさびしいものがふらついているのをかんずることがある
           
八木重吉「無題」全文 [3]

 風の中に潜んで私を「誑かすもの」、曲がり角の向こうで私を待っている「ぬらりとしたもの」は、私の人生を豊かにするような気がするが、テレビニュースの中、新聞記事の中から現われる「誑かすもの」、「ぬらりとしたもの」はきちんと確実に拒絶して生きたい。そう願っている。

 

[1] 『現代詩文庫38 中桐雅夫詩集』(思潮社、 1971年)p.72。
[2] 『現代日本文學大系95 現代句集』(筑摩書房 昭和48年)p. 216。
[3] 『定本 八木重吉詩集』(彌生書房 昭和33年)p.127。
[3] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)






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Last updated  2014.10.18 19:47:40
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