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まいかのあーだこーだ

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2024.03.11
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終点は天空の城春の雷 別れ雪古城を抱きてそっと消ゆ 長野駅見送る義母の春ショール 旗源平の賽奔放に春満月 旅ひとり「はくたか」を追ふ百千鳥 校印の長閑なかすれ学割証 車窓行く「北陸ロマン」春の雪
3月7日のプレバト俳句。
お題は「北陸新幹線」。



森迫永依。
旗源平の賽さい奔放に 春満月

(加賀・旗源平)春満月よ 賽の目は奔放に(添削後)

先生の査定は「現状維持」でしたが…

わたしは非常に面白い句だと思いました。
季語にも歴史を感じさせる風情がある。
これがボツになったのは惜しまれる。

地方の風習を取り入れる俳句はべつに珍しくないし、
それを前書きにすべきという先生の主張は納得しがたい。

実際のところ、
7・5・5の破調にした添削句にくらべても、
むしろ原句のほうがいいんじゃないかと思います。

前書きとして排除したら、
サイコロが勢いよく跳ねる様子を、
あたかも源平の武者に見立てるような、
せっかくの効果もかえって失なわれてしまう。



とはいえ、
議論すべき点は他にも3つほどあります。

7・7・6の字余りについて
6音の「旗源平」「春満月」という、
撥音「n」をふくんだ漢字三文字が、
シンメトリックに「ha」で頭韻を踏みながら呼応し、
まるで平家物語のような独特のリズムと効果を生んでおり、
わたしはこの字余りがまったく欠点とは感じません。

切れの位置について
意味は中七で切れてるはずなのに、
形容動詞が連用形「に」で繋がるようにも見えます。
しかし、これは、
跳ねたサイコロが満月に重なるような効果ともいえるので、
あきらかな欠点とまでは言い切れない。

形容動詞「奔放なり」の選択について
この「奔放」という語は、
サイコロの予測不能な動きだけでなく、
義経の型破りな戦法なども想い起こさせるけど、
一方では「不埒」というニュアンスもあるので、
伝統行事にふさわしい言葉なのか判断に迷います。
たとえば「跳躍す」「乱舞す」など、
ほかの動詞に置き換える選択もありえる。

どこにも切れを入れず、
たとえば「ha・ha・ha」と頭韻を踏んで、
旗源平の賽はねあがり春満月
とすることも出来ます。



勝村政信。
終点は天空の城 春の雷


作者は「越前大野城」のことを詠んだらしいけど、
先生はこれを幻想句と解釈したようです。

そもそも「天空の城」と呼ばれる場所は、
マチュピチュをはじめ世界中にたくさんあるし、
前書きに⦅越前の旅⦆とでも書かなければ、
具体的な地名を特定できません。

しかも、
越前大野を「終点」とする電車やバスの路線は、
ネットで調べてみても見当たらないし、
じつはそれ自体がフィクションなのかもしれない。

なので、これは先生が言うように、
宮崎駿や宮沢賢治っぽい幻想句として味わうのが妥当でしょう。



犬山紙子。
長野駅 見送る義母の春ショール
義母の立つホームや 風の春ショ-ル
(添削後)

上五「長野駅」は、
映像というよりも状況説明に見えます。

また、
動詞「見送る」の主語も明確とはいえず、
「私を見送る義母」とも読める一方で、
「私が見送る義母」とも読めてしまう。

とりあえず、
春ショール巻きたる義母の長野駅

のようにすれば駅は映像化できますが、
これでは「出迎え」か「見送り」かも明示できない。

じつは添削句も、
どちらかといえば「出迎え」のように見えるし、
のみならず、二句一章に分けた結果、
ショールを巻いてるのが義母なのか私なのか、
それすらも判然としなくなっている。

こうした情報の正確性を優先させて、
かりに「長野」という駅名だけを諦めるなら、
見送りの義母のショールや 春の駅

のような解決策もありえます。



的場浩司。
別れ雪古城を抱きてそっと消ゆ
古城抱く雪 あえかなる別れ雪
(添削後)

もし上五で切れる二句一章なら、
A:最後の雪が降っている。私は古城の残像を抱きしめて去る。

みたいな意味に解釈できるし、
もし切れのない一句一章と見れば、
B:最後の雪が古城を抱くように降り積もって消えた。

と擬人化をふくんだ時間経過の描写になる。

それによって「抱く」「消ゆ」の主語が変わります。

作者は「B」の意図で詠んだらしいけど、
動詞の主語を読み迷わせるのもあるし、
雪が「降り積もってから消えるまで」ってのは、
俳句が描写する時間としては長すぎる。

そして、
動詞の「抱く」もさることながら、
下五「そっと」という副詞も安易な擬人化です。

かたや添削句のほうは、
同じ「雪」を二度描写するリフレイン的な手法。



中田喜子。
旅ひとり 「はくたか」を追ふ百千鳥ももちどり


先生の査定は1ランク昇格でしたが…

たしかに取り合わせが模範的とは思うものの、
内容の面でちょっと疑義がある。

春の季語「百千鳥」は、
さまざまな種類の小鳥が鳴き交わす様子のことで、
いっせいに群れをなして飛ぶ様子ではありません。

そもそも、
さまざまな種類の小鳥たちが、
停まった車両のうえで戯れるならともかく、
走る新幹線を群れをなして追うってのは、
どれほどリアリティのある光景なのか疑わしい。

正直、ちょっと嘘っぽいのです。

なお、
北陸新幹線「はくたか」の名称は、
立山の"白鷹伝説"に由来してるとのことで、
その意味でいうと、この句は、
春の小鳥たちが冬の鷹を追う比喩とも読める。



フルポン村上。
校印の長閑のどかなかすれ 学割証


うーん、
ここまでくると好みの問題ともいえますが…

いったい、どこの誰が、
校印のかすれを見て「春の長閑」を感じるのか?
ハンコのかすれに季節感なんかないでしょ。

つまり、
「ハンコのかすれが長閑である」ってのは、
ごく主観的な作者の印象にすぎないわけで、
およそ客観写生からは程遠いというべきなのです。

こういう主観を押しつけられると、
読み手によっては「しゃらくさい」と感じるし、
わたし自身もそこに引っかかってしまう。


…とはいえ、
こうした主観の独白もふくめて、
「長閑な春の景色のなかに一人の学生がいる」ってのは、
客観的な映像として見えてくるのですよね。

それは紛れもない事実。

作者の主観そのものに違和感を抱けば、
否定的な評価にならざるをえないけれど、
その先に見える客観的な景にまで辿りつけば、
一転して肯定的な評価にもなりうる。

そこらへんが賛否の分かれ目になると思う。

いずれにせよ、村上は、
「ペンの減り」だの「目の潤み」だの、
「窪みの浅さ」だの「ハンコのかすれ」だの、
変な作風で味をしめちゃったなあ…と思います。

半径30cmの世界に目を向けるのはいいとしても、
変なところに詩情や季節感を見出すのは、
ほとんど特殊体質のようになっている。



梅沢富美男。
車窓行く「北陸ロマン」春の雪
車窓には春雪 「北陸ロマン」流る
(添削後)

谷村新司の追悼句なのでしょうか?
「北陸ロマン」という曲が、
新幹線の車内チャイムになってるそうです。

おそらく、
「発車のメロディと春雪の景色が車窓を流れていく」
みたいな一句一章の内容なのでしょうね。

しかし、
それを構造的に組み立てられず、
二句一章とも三段切れとも見える形になってるし、

その結果、動詞「行く」の主語が、
本来は《北陸ロマン&春の雪》のはずなのに、
字面では《車窓 or 北陸ロマン》のように見えてしまう。

そもそも、この「行く」という動詞を、
景色が「流れ去る」という意図で使ってるのか、
雪の北陸へ「向かう」という意図で使ってるのか、
作者自身のイメージが曖昧なんじゃないかしら?

もともと曲名だけで7音もあるので、
あくまでそれを使うとしたら、
添削のような字余りに収めるしかありません。



清水アナ。
春眠のA席 金沢切符はらり


句またがりの二句一章ですが、
2つの場面を取り合わせてるというより、
「春眠のせいで切符を落とした」との因果関係です。

無理やりな造語の「金沢切符」は、
金沢行きの切符という意味なのでしょうが、
たとえば「金沢で発行された切符」とか、
たとえば「金沢市内を周遊できる切符」とか、
そういう誤読も不可能とは言いきれない。

そもそも17音に収めるには、
「春眠」「金沢行きの列車」「切符を落とす」
ってのは、やや材料として多すぎます。

まあ、無理をするなら、
金沢までの春眠 切符いずこ

と17音に出来なくもないけれど。



▽過去の記事はこちら
https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12




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最終更新日  2024.03.24 15:10:42
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