Vol.10 「軍楽隊から音楽隊へ」
四月三日、山本長官は参謀長以下を連れ、ラバウルに将旗を移し前線指揮。十八日、山本長官の乗った一式陸攻は米軍のP38により撃墜され戦死。トラック島の「武蔵」では山本長官が帰艦される予定の日、残留の参謀、艦長以下乗組員は迎えるため上甲板に整列。 軍楽隊も夏服に着替え「将官礼式」で迎える為に舷門に整列して待ちました。しかし、幾ら待っても帰艦されず、参謀はあたふたと艦内に。 やがて乗組員は解散、軍楽隊は別命あるまで待機となりました。山本長官はついに帰艦されず解散。その後艦内では、長官は怪我で入院、いや戦死らしいと噂が流れていました。作戦室に通じる通路には番兵が立ち、通るのは司令部従兵と電話、暗号取次員だけとなりました。電話室の奥に参謀休憩室があり、誰か忘れましたが「オイ、参謀休憩室覗いたら白い布の箱が五、六個あるが遺骨と違うか。 参謀がいない時ちょっと見ろよ」と言うので恐る恐るドアを少し開いてみると、それらしきものが見えました。夜間、シーンとした電話室。 隣の部屋に遺骨があると思うと背筋が寒くなるのを覚えました。やがて、見知らぬ大将(古賀長官)が作戦室や軍艦旗掲揚降下時に姿を見せられる様になり、山本長官は戦死と確信しました。五月十七日、山本長官以下の遺骨を乗せた「武蔵」はトラック沖を出航、内地に。 途中、山本長官の戦死を発表し「古賀大将が連合艦隊司令長官として指揮をとっている」、と艦内放送がありました。航海中、柱島沖で「陸奥」が爆発沈没の電報も入る。五月二十一日、「武蔵」は木更津沖着。遺骨は駆逐艦にて東京へ。 この時、「命を捨てて」の奏楽で遺骨を送っている写真がありますが、私は二列目にいたので写っていません。昭和天皇の武蔵行幸の後、呉に廻港し、再びトラック島へ。・・・九月下旬、私は佐世保海軍軍楽隊に転勤。 空母「準鷹」に便乗し内海に向かいました。・・・連合艦隊司令部付軍楽隊員として旗艦「長門」「大和」「武蔵」に乗組み、山本、古賀両長官の下で作戦室に勤務した事は、若き日の思い出の一項です。--終--その後終戦を迎え、祖父は警察の音楽隊を定年まで勤めました。いつも、自分が大和に乗っていた事を誇りにしていたのを思い出します。もっと色々な話を聞いておけばよかったなと思います。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++今日はちょっと寝坊。朝昼、ごはん、牛肉しぐれ煮、きゃらぶき。新作Vnの仕上げ磨き。夕方から高槻へ。「高槻天神祭り」をやっていて、駅前のロータリーから神社まで屋台がたくさん出てて、ステージもある。おなじみのバイオリンの山口さんが参加してるので、また応援にいった。その後、Vn製作の師匠・岩井さんの工房に顔を出しに行った。で、前から気になってたラーメン屋にて食べて帰った。