テーマ:ぶらり見て歩き(684)
カテゴリ:旅の重さ
手賀沼公園の中をさらに歩いていくと、大きな石碑がありました。
血脇先生謝恩之碑という石碑です。 この石碑、元は我孫子駅前にあったものが市街地の整備によりこの地に移設されたことが、東京歯科大学の名前で記されていました。 血脇先生謝恩之碑は、かなり大きな石碑です。 血脇先生とは血脇守之助(→→→こちら)のことで、我孫子出身の守之助は、弱冠12歳で上京しいくつかの学校に通った後、新聞記者、英語教師を経て、高山歯科医学院に入り歯科医となります。そして、高山歯科医学院の 経営を受け継ぐと、東京歯科医学専門学校への昇格を果たし、現在のように高等教育機関で歯科医が養成される仕組みの先駆となりました。このことが、戦後の東京歯科大学創立につながります。このように歯科医の地位向上に尽くした立派な先生です。 また、野口英世の恩人としても知られています。会津で出会った野口英世が守之助を頼って上京ししてくると、高山歯科医学院の寄宿舎に住まわせて仕事を与え、アメリカ留学に当たっては渡航費用を工面したそうです。 それ故に、このような大きな石碑が建立されたのでしょうね。 この説明板に碑文が書かれてました。 血脇先生謝恩之碑 (碑面) こちらの石碑は、イギリス人の陶芸家であり、画家、デザイナーとしても知られるバーナード・リーチ氏'→→→こちら)のものです。 この石碑には、リーチ自作の詩と陶芸の図柄に好んで描いた、さすらいの修道僧が刻まれていました。 I have seen a vision of the marriage of East and West. For off down the halls of time I heard a childlike voice How long? How long? バーナード・リーチ氏は明治20年(1887)に香港で生まれたイギリス人で、幼児期は日本で過ごしたそうです。 帰英後は、ロンドン美術学校などでエッチングを学び、明治42年(1909)日本への憧れを強くし再来日、上野桜木町に居を構えてエッチングを指導し、入門してきた柳宗悦ら白樺派の人々と親交を結び、さらに千葉県我孫子の柳宗悦の住む三樹荘に窯を築くなど日本国内で作陶を始めた人物です。 大正9年(1920)陶芸家の濱田庄司を伴って帰英、コーンウォール州セント・アイヴスに日本風の登窯を築き、大正11年(1922)にはリーチ工房を設立し生涯の拠点とした。昭和47年(1972)まで制作を続け、昭和54年(1979)に亡くなりました。 昭和38年(1963)に大英帝国勲章(Order of CBE)を受章し、昭和49年(1974)には国際交流基金賞を受賞しています。 こちらの石碑にはリーチ氏の功績が紹介されていました。 しかし、我孫子市には多くの文化人とか芸術家の足跡があるのですね。 (自然と文学を感じる手賀沼散策コースです) 【つづく】 人気ブログランキングへ 常磐線沿線物語 我孫子編(その9) 血脇守之助とバーナード・リーチ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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