某牧師さんのブログに遊びに行って、
「イザヤ書43:18~21」 『見よ。わたしは新しいことをする』 の、お題をパッと見て、瞬間的に思ったことを表現してみます。 記事は読んでいないので某牧師さんが言わんとしている事と違うことだったらゴメンネ。 『見よ。わたしは新しいことをする』という言葉を見て書きたくなっただけなので。^^; 私は昨年の12月初旬まで、 『現在、置かれている事情が変っても、もう、キリスト教会で集うことはできない。』そう思っておりました。 しかし、です。 12月初旬に、その心境が一変してしまったのですよ。 それも、一瞬にして。 今は、 『現在、置かれている状況が変れば、またキリスト教会で集える。』と思っています。 クリスチャン的には《 聖霊のはたらき 》があった。と言いませんか? でも、《 聖霊のはたらき 》があったのはクリスチャンを通してではないのです。 《 聖霊のはたらき 》があったのは、デモクリトス的立場のガチンガチンの無神論者なのです。 どの様な働きかけがあったかというと、 私の心が何の葛藤もなく、すんなりとイエス様を受け入れることが出来る『物事を分類する』という方法を教えられたのですよ。 キリスト教の基本である【 三位一体の神 】を再び受け入れるための《 物事を分類する 》という方法をガチンガチンの無神論者が教えてくれたのです。 キリスト教文学的な表現をすると、 昨年の12月初旬に私が自分で新しくなったのではないのだよ。 か、と言って、ガチンガチンの無神論者が私を新しくしたのでもない。 私を新しくしたもの、それはクリスチャンから『主である神』と呼ばれているもの。 信じる者。信じない者。に関係なく、神は全ての人の上に平等である。と、私は思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.01.02 23:42:33
コメント(0) | コメントを書く
[[宗教文学]私が現実世界に戻るための減圧室] カテゴリの最新記事
|
|