約4年くらい前に、
アーサー・ホーランドさん、という牧師さんとご縁がありました。 当時、行っていた教会に説教をしに来てくれました。 遠くからハーレーを駆っ飛ばしてきてくれました。 革ジャンにイエス様系アクセサリをジャラジャラくっ付けて。 一見すると牧師さんには見えません。 (ごめんね。アーサー先生。^^;) 説教を聞き終えると心の中心が温かくなっておりました。 『初めてイエス様の体温が感じられた・・・』と思いました。 それまでは聖書の中のイエス様しか知りませんでしたから。 その出会いがあって、、、 その出会いがあったからこそ私は今でもイエス様の大ファンなのです。 無神論者の道を選んだ後もイエス様の大ファンなのです。 その時、聞いた説教の内容が、これです。 愛は気づく事。 人間は、知識だけでは高ぶってしまいます。 大切なのは『知恵』、『知恵』とは、知る事、「恵みを知る事」です。 それを最も知る事が出来る所が礼拝です。 私達を創り愛してくれている神に気づく事。 神が創った自然を愛する事。 それを知ると自分を愛する事が出来ます。 自分を許す事も出来ます。 自分を愛する事が出来ると、人も愛する事が出来ます。 人間の愛はとても小さく、ゴム紐の物差で人を測ってしまいます。 けれど、神の愛は深い絶望も希望に変える十字架の愛。イエス様の愛。 全ての人間、どんなに深い罪でも許してくれる大きく深い愛です。 それを知ることのできる所が礼拝です。 世界の始めに「ことば」がありました。 神は、“ことば”によって天と地を創造し、その『ことば』が受肉して、人となって地上に来てくれた者が『イエス・キリスト』なのです。 “ことば”を語った人がイエス様です。 『ことば』を生き方の中で実践し、体を張って表現し続けてくれた方がイエス様なのです。 律法主義で縛られていた人々の心を開放し、当時の宗教者が変えることの出来なかった人々を、イエス様が、共に飲んだり、食べたりして交わりの中で変えられていったのでした。 形だけの儀式だけを重んじるのではなく、生き方が移り変わっていく時代なのでした。 イエス様を妬み、自分の立場が悪くなった人々はグルになって、イエス様を鞭打ちの刑に定めました。『鞭打ちの刑』と言っても、現在のようなものとは全く違うものです。 縄に金属片などを括りつけた凶器です。 鞭を入れられるごとに金属片などが肉に食い込み、引き抜くと肉も一緒にもぎ取られるという残酷なものでした。 あげく、十字架を担がされ、ゴルゴタの丘で十字架に5寸釘で手足を打ち付けられ、茨の冠まで被らされ、磔にされたのでした。 映画などに出てくるイエス様は褌を付けているのですが、実際は振りチンで十字架に付けられました。 死ぬ寸前、体も麻痺して糞も小便も垂れ流しの状態だったのです。 そのような中でイエス様は、『父よ。彼らを許してあげてください。自分が何をしているのか分からないでいるのです』と言われたのでした。 私は、この話を聞いた時、 はじめて、人間として産まれ、生き、そして、人間の罪を贖うために、私達の変わりに十字架についてくださった神、イエス・キリストの体温を感じました。 愛を語り、体張って愛を実践し続けた方がイエス・キリストなのです。 十字架の愛・・・それは、救いを受ける者には神の力なのです。 思い出すと、やはり心が温かくなります。 アーサー先生、毎日、ブログを見てますよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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