テーマ:スポーツあれこれ(11395)
カテゴリ:スポーツ全般
去る3月24日、バルセロナ五輪柔道男子71Kg級で金メダルを獲得し、
『平成の三四郎』の異名を持つ古賀稔彦さんが、 がんのために53歳の若さでお亡くなりになりました。 古賀さんは佐賀県北茂安町(現・みやき町)出身で、 小柄ながらも体格の大きい選手を相手に一本を取りに行くスタイルから、 『姿三四郎』を彷彿させるとして『平成の三四郎』の異名がつけられました。 オリンピックには1988年のソウル大会が初出場でしたが3回戦で敗退、 その後行われた体重無差別の大会では決勝で最重量級の小川直也に敗れるも、 自分よりも大きな選手を次々と破っての決勝進出は注目を集めました。 そして1992年のバルセロナ五輪では日本選手団主将を任されましたが、 その直前に吉田秀彦と練習を行っていた際に左ひざを負傷してしまいます。 ですが古賀さんは痛み止めを打ちながら試合に出場し、見事に金メダルを獲得しました! 次のアトランタ大会では銀メダルを獲得しますが2000年に現役引退し 全日本女子のコーチを務めて谷本歩実らを育てる傍ら、 川崎市内に道場を開いて多くの子供たちに柔道を教えていました。 その中には古賀さんの次男・古賀玄暉(げんき)選手の姿もありました。 父と兄・颯人(はやと)選手に続いて日体大に進学し、 今年4月からは名門・旭化成柔道部に入り、2024年のパリ五輪へ向けた最初の大会である 全日本選抜体重別選手権(福岡国際センター)への出場を控えていましたが、 開催11日前に父の訃報を聞きました。 しかも玄暉選手は直前の練習で父親と同じく左ひざを痛め、 父親の葬儀もあってあわただしい中で選抜体重別選手権に出場しました。 順調に決勝に勝ち進みますが、先に技ありを取って優勢に試合を進めるも 相手に技ありを取られ、延長戦にもつれ込みました。 その延長戦で肩車という技を決めて技ありを奪い、 合わせ技一本で初優勝を決めました! 亡き父の棺に、結果を出して恩返しすることを誓っていた玄暉選手は、 左ひざのけがを抱えながらも見事に結果を出しました。 これで今年6月にハンガリーで開催される世界選手権の代表にも選ばれました。 パリ五輪で玄暉選手が金メダルを取って、父の墓前に良い報告ができることを願っています。 それでは、今日はここまで。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月04日 21時03分16秒
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