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家曜日~うちようび~

全9件 (9件中 1-9件目)

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Q輔とU子と「シンプリスト」

2021.01.05
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​​僕は今日まで仕事が休み。妻は今日から仕事。長女は学校。
只今、次女を守りしながらこの日記を書いている。
それにつけても寝正月。いやあ、我ながら今年はよく寝たなあ。

てか、普段から僕、よく寝る子です。
毎晩午後10時にはとっとと寝る。んでもって毎朝6時には起きる。
実直に律儀に8時間睡眠。最低でも7時間は寝たい。さもなくば翌日眠くて仕事にならない。

正直、睡眠時間を削り夜中まで残業することを「がんばり」と感ずる、
そんなサラリーマンの魔の術中にはまっていた時期が僕にもあった、とほほ、昔の話だ。
今は、現場作業が押すのはさておき、書類関係がいかに建て込んでいても、
午後7時にはさっさと帰宅し、愛する家族と幸せな時間を過ごし、
その代わり翌早朝に1~2時間早出して、全集中で書類を片付けるようにしている。
はっきり言って夜9時を過ぎた事務処理は極めて効率が悪い。
やってる本人が一番分かっている筈だよね。集中力が散漫し、間違いも多く、それにすら気が付かない。
いわゆる「何しとったかよ―分らん残業」ってやつだ。
無駄に長い夜の残業を「がんばり」と勘違いしてしまう。これ、サラリーマンの初歩の過ち。
快眠後のシャッキーンとした脳ミソで処理をすれば、
経験上、夜中のそれの半分の時間で終わる。且つミスもない。

まあ、僕は勤務時間が不規則な建設業界の人間だし、毎日タイムカードは押してはいるものの、
個人的に残業時間や休日出勤にあまり縛られない雇用形態で会社と契約しているので、
皆が僕のように自由に早朝勤務が出来るかというと、難しい問題のほうが多いのかもしれない。
とはいえ昨今の働き方改革や、コロナ禍の自宅勤務の流れに乗っかって、
残業は夜から朝への切り替えが定着すればいいのにと、勝手に期待する。
でもなあ、家事や子育てと並行してとなると、やっぱ条件的に厳しいよなあ。無理だなあ。
でもなあ、朝の集中力や頭の回転の速さったら、馬鹿になんねえのになあホント。




話がそれた。

僕、よく寝る子です。

昼休憩も大いに寝る。昼飯を10分で食べ、残りの50分はがーがー寝る。
午前中の業務で熱を帯びた頭を、寝ることで冷やしている感じ。
家電のコンセントをいったん抜いている感じっつーか。
んで、午後1時のアラームと同時に、クールダウンした頭でシャキッと午後の業務に向かう。

寝る場所も選ばない。
どこでも寝る。
どんな状況でも寝る。
「うおーーい、部長!ど、どこで寝てんすか!」とか、時々びっくりされる。
「段ボールのおっちゃんじゃないんだから!」
「屋根の先端で寝るスヌーピーじゃないんだから!」とか、ちょいちょい言われる。

寝つきも大変よい。
ブーと、競る。
のび太と、とんとん。
おやすぐぴーーー。ってな感じ。
A・B・Cそっちのけでゼットを連呼、ZZZZZZZZZ・・・・

寝起きも、すこぶるよい。
朝からとんこつラーメン、飲み干す。
早朝ヘビメタ、ノリノリでヘッドバンキングする。
田代まさしの気配に気づく。

とはいえ、そんな僕にも、年に数回、眠れない夜がある。
あるんです。
仕事のことで猛烈に悩んでいたり、どうしても怒りが収まらぬことがあったり。
まあ、僕のそういった眠れぬ夜の対処法は、いたってシンプルで。
​眠れない夜は、起きている。​
​ははは。
無理に眠ろうとしない。
眠れないことを、苦にもしない。
いっそのこと、とことん起きてやる。
翌日の仮眠も避ける。
酒や薬に頼らない。
本でも読んで。
二日でも、三日でも起きてやる。

すると、いずれ、

死ぬほど疲れて、よく眠むれる。

したがって、今日まで不眠で悩んだことは、一度も無い。


つくづく、僕、よく寝る子です。

何だろう? よほど睡眠欲という欲求に素直な作りなのかな?

まわりからすれば、極度のストレスと思われる状況下にあっても、

昔から「べ~つに明日取って喰われる訳じゃなし」と半笑いで目をつぶると、

気が付いたら朝になっている。ぶっはははは。


我ながら、呆れるほど能天気な性分だ。

密かに、ちょっとした才能ではないかと思っていぐぴーぐぴー・・・



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能天気な夫と違い、些細なコトでちょいちょい眠れなくなる妻のルーム↓






最終更新日  2021.01.05 16:18:20


2020.11.10


僕の奥さんは、シンプリスト。

てか、ぶっちゃけ、ほぼ感覚だけで生きとる。

あ、これ、いい意味でね。

僕なんか、とりあえずモノゴトは、難しく、ややこしく、回りクドく考え抜いた上で、

炙り出された無駄を削ぎつつ、最終的にシンプルな答えに辿り着こうとする思考癖があんだけど。

U子さんは、何ちゅーんだろ、俗にいう「女の勘」ってやつなのか、

突然男の僕では考えつかない洞察力を発揮したりする。

いわゆる「子宮で考える」ってやつなのか、

突然コトの本質突く情感的発言をして、ちょこざいな僕の論理感を蹴散らしたりする。

そう、僕の奥さんは、シンプリスト。

モノゴトを、頭脳で汚さず、言葉に出来る人。


母性本能をくすぐる。

って言葉があんじゃん。

子どもを守り育てようとする母が持つ本能的性質が、心地よく刺激される状態を表す言葉ね。

これさ、的確な表現ではあるが、いささか回りクドいよね。

僕の奥さん、ん~な回りくでー言い方しねーから。

声高らかに、

おっぱい出る!

つーからね。

んもぉ~、言葉が、脳ミソ経由せず、直だから。ははは。




子のあどけない寝顔を見ては、

は~、おっぱい出る!



子のカワイイしぐさに胸押さえ、

うおー、おっぱい出る!



ペットの犬を、ソファーで撫でつつ、


あ、おっぱい、ちょっと出た・・・。





・・・出たんかい。



ったく、コイツにゃ敵わん。

歴然と。




古い写真。

思えば、この頃から敵わなかった。

歴然と。




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最終更新日  2020.11.11 06:43:45
2020.11.03



公(おおやけ)と、私(わたくし)。

あくまで僕の場合ですが、

これまでの半生を振り返ってみても、

仕事で、家庭で、人間関係で、

あらゆる場面において「私」の自分ってのが、

自身を成長させ、何かしらの成果を掴む原動力となったというケースは、

極めて少ないと記憶しています。

てか、一度もないと言い切ってしまっても、ほぼ差支えないのですが、

すっかり忘れている希少な事柄もあるやもしれぬので、

この場合、念のため「極めて少ない」と記しているわけです。





プライベートな、ありのままの、本来の、正直な、内なる、もって生まれた的な、

みなさんは、そんな「私」が好きですか?

みなさんの「私」は、自分を成長させてくれてくれる存在ですか?

僕の「私」は、頑固で、偏屈で、自堕落で、ずる賢く、向上心のない、ロクデナシなので、

僕は自分の「私」が、あまり好きではありません。

けっこー嫌いです。

正直彼とは、あまり関わりたくありません。


例えば、仕事で、家庭で、人間関係で、

眼前の難局に立ち向かわねばという時に、または、立ち向かっている真っ只中に、

いつだって「私」の野郎がひょっこり顔を出し、僕に囁くのです。

こんなことして何になる?

そこまでする意味がどこにある?

なんの得がある?

いくらになる?

つらい。

キツい。

休みたい。

逃げたい。

そして、とどめの決め台詞。

一度きりの人生、自分らしく生きよう。

やりたいことだけやって、楽しく生きよう。

これ、僕ら世代の成功者が、執拗に宣う悪魔の囁きですね。

もとい、今の時代は、天使の囁きか。





そんな時、必ず「公」の自分が颯爽と現われ、僕を叱咤するのです。

僕の「公」は、

「世の為、人の為に生きよう」的な、「社会人として、この国や地域に貢献しよう」的な、

そんな、もっともらしい説教はしないヤツなんだけれども。

ただ、いつもぶっきらぼうにこう言います。


自分らしく生きる。

やりたいことだけやって生きる。

楽しく生きる。

人は、そんな欲の無い生き方をしてはいけない。

人は、もっと欲深くあるべきだ。

自分らしい生き方も、自分らしくない生き方も、

やりたいことも、やりたくないことも、

楽しいことも、楽しくないことも、

生きているうちに、片っぱしから根こそぎ体験し、

惜しみなく、徹底的に自分を使い切る。

それこそが贅沢な人生だ。

やりたいことだけやって生きる?

そんな謙虚な生き方をしている暇はない。





そんなこんなで、長らく「公」の自分ばかりを奮い立たせて生活していると、

かつては、先ず「私」の自分ありきで、

社会に出向く時にだけ、家の玄関扉の前で「公」を身にまとっていたのが、

いつしか、「公」の割合が、自分の大半を占めるようになり、

気が付くと、家路辿り着いた玄関扉の前で「私」を身にまとっている自分がいたりする。

べつに、この感覚は嫌いじゃない。むしろ着心地は良い。

そして、この感覚は決して特別なものではなく、ある一定の社会人は普通に持ち合わせていると思う。

時代がこういった発言をはばかるから、あえて言わないだけであってね。



兎にも角にも、

プライベートな、ありのままの、本来の、正直な、内なる、もって生まれた的な、

そんな自分だけが、本当の自分じゃないってコトよ。

「公」のミーも、「私」のミーも、どっちも本当のミーざんす。





以上、色づき始めた京都は嵐山「天龍寺庭園」の風景と共に、はんなりとお送りしました。



仕事の方は、相も変わらずバタバタですが、

歩む姿は、しゃなりしゃなりと行きたいものどす。





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最終更新日  2020.11.08 21:48:21
2020.08.30
先日あるブロガーさんが、自我に囚われず生きる為に自分を捨て、
ミニマリストに囚われず生きる為にミニマリストを捨て、
ブログに囚われず生きる為にブログを捨てるという経緯をもって、ブログを閉じたっす。
その捨てっぷりは圧倒的で鬼気迫るものがあり、
一人の主婦の「生きざま」ならぬ「捨てざま」に強く魅せられました。
そして、囚われず生きるとはどういうことか? 
僕は、あらためて考え込んじまったのさベイビーよろしく。



人は心の解放を求め始めた途端に、漏れなく悩み、苦しみ、迷う作業を始めるものだ。
逆に、何者かに全てを支配され、そのことにすら気が付かない「奴隷の心」のままでいれば、
悩まなくてよいのである。苦しまなくてすむのである。迷う必要じぇんじぇんないのである。
そして心の解放を求める多くの人は、いつ何時もモノゴトに囚われず生きねば、と焦るあまり、
さもすると、全ての「執着」をゼロにして、心の「解放」の目盛りを100%に振り切ろうとする。
正直、ここが僕が個人的に解せないところである。
僕の人生にとって「執着心」は絶対に欠かせないものだ。決してゼロにしてはならない。
もちろん「解き放たれた心」も大切。無くしてはならない。
どちらも大切。そして、どちらも重石だ。
しょせん「執着」も「解放」も、同じ「心の重石」に変わりはしない。
「執着」と「解放」二つの重石を天秤棒で担ぎ、転ばないようにバランスを取りながら真っ直ぐ歩く。
それがオイラの人生観ってやつなのさ。
執着に偏った心も、解放に偏った心も、心の天秤のバランスが取れていないから、
僕には、その歩行が、どこか危なっかしく、痛々しく、滑稽で、不自然に見えてしまう。
何事も、バランスよ、バランス。



僕は、多くのミニマリストやシンプリスト、ライフスタイルブロガーさん達が、
試行錯誤のすえ、モノゴトに囚われぬ心で手に入れたナニゴトにも囚われぬ暮しの、
その先にきっと立ちはだかるであろう最後の大きな壁は、
「囚われぬことに、囚われ過ぎている自分」だと思うのです。
モノゴトに囚われぬ生き方に、がんじがらめになっている自分っつーか。
「捨てる」ことすら捨てる時、人は何を捨てるのか?っつーか。
まあ、ここまでくると言葉遊び感が否めないので、ここいらで止めまするが。ははは。

やっぱ、あれかな、

「捨てる」ことすら捨てる時になれば、

人は「作り始める」んかな。



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最終更新日  2020.08.30 20:41:56
2020.06.28
​​​​斉藤さんで行こう!

これまで妻に、ママ友付き合いについての相談されるたびに、

僕は、シンプルに、そう答えてきました。

ここでいう「さいとうさん」とは、

チェケラッチョ!ハゲラッチョ!サイトーさんだぜ?!

の斎藤さんのことではありません。

2008年に観月ありさが主演した水曜ドラマ「斉藤さん」のことである。

憶えてる人いるかなあ?

このドラマの主人公「斉藤さん」は、曲がった事が大嫌いなNOと言える専業主婦。
正義感が強く不正を許さない性格のため、幼稚園の保護者に友達がおらず孤立しているが、
「相手に合わせて正しいことが見えなくなるなら友達はいらない」と自分の正義を貫く性格。
「子育ては運命の仕事」キャリアよりもオシャレよりも「母親で妻で十分」と言い切り、
子育てという仕事に誇りを持っている。

君も、かくあれ、と。

そして妻は、僕の助言通り、あらゆる保護者間の問題において、常に「斉藤さんスタイル」を貫いた。

ゆえに、僕の妻に、ママ友と呼べる人は、一人もいない。たはは。

今じゃあ、すっかり肝が据わっちまって、
次女の保育園では、周囲に友人ゼロみたいな状況でありながら、
しゃーしゃーと保護者会の会長を務めるにまで成長したが、
思い返せば、長女が園児だった時、妻はそれなりに悩んでいた。
何事も初めての経験ばかりだったので、ま、しゃーねーっす。

悩みはズバリ「ママ友付き合い、するべきか?否か?」

うちの妻、基本的に苦手みたいっす、女同士のそーゆーの。
愚痴、自慢話、おごりおごられ、派閥、陰口、いじめ、副業の勧誘、ダメみたいっす。
これは彼女の美徳ではなく、どちらかというと人として欠落した部分、欠点として、ダメみたいっす。
今でも「ママ友より、あんたといる方が100倍楽しい」と腐れ夫に告ってきます。哀れ。

もちろん、夫婦の方針として、保護者としてやるべきことは全力でやりますよ。
保護者会への出席、行事への参加、役員の仕事、ボランティア、妻は皆勤賞、手抜きなしです。

だもんで、

やることやったら、さっさと帰ってこればいーだよ。

やることやったら、やらんでいーことは、堂々とやらんでいーだよ。

斉藤さんで行こう。

ぼーん、とぅーびー、さいとー。




今でも忘れられないエピソードがある。

長女の卒園が近づいた頃、ある園児のママが、
「卒園式の後、会場を借りて先生方を招き謝恩会を開催したい」と言い出した。
実際のところ、毎年誰が言い出すともなく謝恩会は執り行われるようなのだが、
あくまで園が要望する会ではなく保護者の有志。やらない年はやらない。
ところが、その年の謝恩会は、主催者ママがノリにノッており、
保護者による寸劇や歌、その他多くの出し物が企画され、
歴史に残る大々的な謝恩会になるとのだった。

どうしよう、出たほうがいいかな?
劇とか、歌とか、準備とか、
正直ちょっとよく分かんないんだけど。


と妻が相談してきた。

オーケーベイビー、斉藤さんで行こう。

と僕は答えた。

やる人を否定はせぬ。ぞよ。

ただ、自由参加なら、うちはやらぬ。ぞよ。

シンプルに、その日は、何の日?
長女が保育園を卒園する日。
式が終わったら、家族でささやかに長女の卒園を祝いたい。

公務員の保育士が勤務時間内に職務を離れ、
市民の接待を受けるというのは、どうなのだろう?
という疑問も正直あった。

そもそも、先生たちは、謝恩会を心から望んどるんかいな?

てか、その謝恩会は、本当に先生たちの為の会なんかいな?

実際のところ、誰の為の会なんかいな?

違和感。

こういう素朴な違和感には、経験上、感じたまま準ずるほうがよい。

それから卒園式までの数か月にわたり、保護者たちは、
夜な夜な集まって、打ち合わせや準備、劇や歌の練習などをしたというが、
うちは一切参加しなかった。ごめんなさい。

少し前、このブログで、
「地域に貢献するため町内会に参加するべきだ」という日記を長々と書いた私ですが、

うち、何でもかんでも参加するわけではござぁ~せん。

町内会は町内会。謝恩会は謝恩会。

会による。

すまん。



卒園式当日のこと。

僕の違和感は最高潮に達した。

先生のオルガンの演奏に合わせて入場する園児たちのなかに、
長女の姿を見たとき、僕は思わず号泣してしまった。

こいつめ、大きくなりやがって。

感慨無量だった。

んが、まわりの保護者達の様子は、どうも違った。
感動はそこそこに、妙に落ち着きがないのである。
そわそわしているのである。
気もそぞろなのである。

恐らく、式終わりに会場を移動して開催する謝恩会のことが、気がかりなのだ。

二部構成の卒園式の第一部が終わり、
皆で懐かしの写真をスライドで見る第二部が始まると、
もう、ふわっふわしているのである。
気持ちここにあらずなのである。

挙句、少々時間が押して二部が合わった途端、参加者一同ダッシュで会場に走って行きよった。

会の準備や、催しの最終打ち合わせの為であろう。

いや、分かる、け、ど、も~。

おーい、今日は何の日だー?

​卒園式は、謝恩会の前座じゃないと思うぞー。

なんつって、心中でこっそりとツッコミを入れながら、
僕は卒園式の感動冷めやらぬまま、一人で自宅へ直帰した。
妻は、長女の付き添いで、謝恩会の見学へ行った。
何となくの流れで、会場へは園児も全員移動するみたいだったからだ。
妻と同じ見学のみの不参加者は、数名いたとのこと。

その後、保護者達の渾身の謝恩会は、滞りなく終わり。
閉会の挨拶で、主催者のママが、会の成功に感極まって泣いてしまったらしい。

おーい、すっかり目的変わっとるぞー。

会終了後、参加者一同「打ち上げ」称し、子連れで夜の街へ繰り出して行ったらしい。

​​​おーい、もー好きにやっとくれー。

僕たち「斉藤一家」はその夜、家族だけで、静かに長女の卒園を祝った。
妻がつくった美味しいご馳走を食べながら、
あんなことがあった、こんなことがあった、家族で保育園の思い出を、いつまでも語り合った。

​​
分からない。

僕と妻は、あの時、大切な時間や貴重な体験を、惜しくも逃したのかもしれない。

同じ歳の子を持つ保護者さんとの親睦を、無碍に断った非情な夫婦だったのかもしれない。

ねえ、斉藤さん、どう思いやぁ~す?


もう四年前の話だ。



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最終更新日  2020.06.29 14:48:15
2020.05.01

「楽観的」=モノゴトが上手くいくだろうと、明るい見通しを持つさま。

「短絡的」=モノゴトの本質や筋道を深く考えず、原因と結果を性急に結びつけてしまうさま。

「直感的」=思考をはたらかせなくても、感覚だけでそれと判断できるさま。




なんかねえ、僕ねえ、

妻から、どうやらすんげー楽観的で短絡的で直感的な野郎だと思われてるみたいなんすよねえ。

それは、誤解だ!

と、ここはひとつ、声を大にして言いたいっす。

では、何故僕が妻にそんな誤解を招くのかというと、
それは恐らく、これまでの夫婦生活における僕の立ち振る舞いが、
往々にして楽観的で短絡的で直感的であったから、
まあ、この一点に尽き、それ以上でも以下でもないのであるが、
でも、だからといって、僕が本当に楽観的で短絡的で直感的な人間かというと、

まあ、たしかにその通りなんだけれども。

でも、ちょっぴり誤解もある。

それは、誤解だ!

と、ここはひとつ、声を限りなく中に近い小のボリュームで言いたいっす。


そもそも僕は、モノゴトを深く考えがちな方なのです。いや、ほんと、まじまじ。

特に若い時は、とことん悩んだ自信がある。

僕は学生時代、勉強する間を惜しんで、たわいもないことで悩んでばかりいたが、

今思えば、あれは知識の穴を深く広く掘削する作業をしていたのではなかったかと思う。

あの頃、おのれの浅く狭い穴に、無理やり知識を詰め込み、「悩み無き秀才」にならなくてよかった。

若い時は悩んだ方がいい。知識の穴を掘ることに専念したほうがいい。

若い時、悩まないヤツは、愚かだ。

勉強なんてなあ、大人になってからするものだ。

掘った穴に知識を詰め込むというつまらぬ作業は、大人になってから嫌というほどすればよい。

と、

とてもじゃないけど我が子には言い出しにくい本音を、僕は密かに抱えて生きている。ははは。




でさ。

日々、考えて、考えて、考え抜いていると、

マジ、頭痛くなるじゃん。

マジ、死にたくなるじゃん。

まあ、性分だから、それでも考え続けるんだけれども。

んで、そんなこんなで、いつの頃だろう、けっこー大人になってからだと思うけど、

あ、これ以上は考えない方がいーな。

あ、これ以上考えても、いーことはひとつも無いな。

という、絶妙なボーダーラインを、おのずと判断出来るようになった。

これ以上考えることが良い結果に結びつかないと判断される状況においては、

いつしか、機械的に一旦「思考を止める」ことを覚えた。

いつの頃からか、思考の選択肢のひとつに「これ以上考えない」という選択肢が増えた。

「考えない」は「考える」の対局ではなく、思考の選択肢のひとつであるということに気が付いた。

考えないも思考のうち。

という、シンプルな答えに辿り着いた。

んが。

ここまでのサクセスを省いて、この「思考を止めている」状態だけを妻にピックアップされるとね、

一見して短絡的で、いわば「てか、おま、なんも考えてねーな」と誤解されちゃうのではないかと。

いや、ほんと、まじまじ。




とは言うものの、年がら年中思考を止めている訳ではなくてね、

モノゴトを徹底して考え抜いて、答えに辿り着ついた経験も多くあって、

でも、そういった答えって、さっきの考えないも思考のうち」じゃないけど、何故かいつも、

身も蓋も無く、元も子もなく、小馬鹿にされてんじゃないかってぐらい「シンプル」なのよね。


真理は、いつもシンプル。

ちゅ~こった。

んが。

そこまでのサクセスを省いて、この「シンプルな答え」だけを妻にピックアップされるとね、

一聴して直感的で、いわば「てか、おま、世の中ナメてんな」って誤解されちゃうのではないかと。

いや、ほんとだってば、まじまじ。




すべてのモノゴトは、本来「複雑」にたたずんでいるものだと、僕は思います。

そもそもモノゴトとは、ありのままの状態が「複雑」なのです。

人は、楽をしたい時、モノゴトを複雑に考えます。

人は、ズルをしたい時、モノゴトを複雑に考えます。

人は、疲れている時、モノゴトを複雑に考えます。

ついついモノゴトを複雑に考えてしまう人の正体とは、

そもそも複雑なモノゴトを、ありのまま複雑に捉えている、ただそれだけの人です。

モノゴトをシンプルに考えるとは、複雑にからみあった糸をほどいていくようなものです。

決して、楽観的で、短絡的で、直感的な作業ではない。

「シンプル思考」の同義語は、

「とことん考え抜く」です。


以上、自分への戒めとして、アンド妻への言い訳として、

ここはひとつ、声を限りなく中に近い小のボリュームで。



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最終更新日  2020.05.03 06:12:15
2020.03.21

生活必需品は、多けりゃいいってもんじゃない。
備蓄さえあれば快適に生活出来るというものではないのである。
だからつって、逆に少なければいいってもんでもない。
ミニマルライフも度を過ぎれば、ただの奇人変人大会ではなかろうか。

と、この限りなく奇人変人に近い凡人は思うのである。

とにかくさ、モノには、理に適った数量があるっつーの。

神羅万象、所持万端、それを見極めることが大切だっちゅーの。

ちゅーわけで。

ただ今より、この場をお借りして、おのれのシンプル力の筋トレとしゃれ込みやす。

今回のお題は「うちにお箸は何膳必要か?」です。



【うちにお箸は何膳必要か?】

うちは、家族四人ですので、先ず、最低限四膳は必要です。

「お箸なんぞ一膳あればよい、一膳を家族で順番に洗って使うべし」

かく言うあなたは重度のミニマリストさんですね。

シンプリストの思考は、さにあらず。

たった一膳を四人で順番に使えば、その都度箸を洗う手間や水道代がかかるし。
その都度食事を準備する時間をロスるし、ガス代も電気代もひたすら無駄だし。
どう考えても、家族四人分の食事を一度に作り、一度に食したほうが、絶対的に効率的である。
で、あるからして、お箸は最低限四膳は必要であるよなあ。
と、当たり前すぎて馬鹿々々しくなる理論を、あえて構築していくわけである。

あ、ちなみにこれ、「お箸」はあくまでひとつの例えであって、
僕は今、暮しの全てに通ずるモノゴトの考え方の話をしていますからね。念のため。



てか、僕はべつに最小限主義がいけないと申しているわけではないのです。
その証拠に、うちの洗面台にあるコップはひとつだけです。
このコップを順番に使って、家族四人が歯を磨いた後、口をすすぎます。
うちは家族四人が同時に口をすすぐことがなく、
総合的に判断して、ひとつが理に適っていると考えるからです。
他人が使ったコップが汚いか? 汚くありません。家族です。洗えばきれいです。
まあ、僕は基本、両手を器にして口をすすぐので、コップは使いませんしね。



ついでと言っちゃあ何ですが、風呂のボディタオルも一枚です。
うちは家族四人が風呂場で同時に体を洗うことが、物理的にも時間的にも困難であるので、
家族がそれぞれ順番に体を洗います。したがって、ボディタオルは一枚あればよいのです。
他人が使ったタオルが汚いか? 汚くありません。家族です。洗えばきれいです。
このように、最小限が理に適っているモノは、最小限でよいのです。
しかし、最小限にこだわり過ぎて、暮しが複雑になり、心が圧迫しては本末転倒。
「必要数あるべきものは、必要数揃える」
これが、自然の摂理に反しない生き方というものです。
他人が使った箸が汚いか? 汚くありません。家族です。洗えばきれいです。
それでも、うちにお箸は最低限四膳必要なのです。
これは摂理だっちゅーの。
この柔軟な見極めが、シンプルライフの醍醐味だっちゅーの。



ちなみに、このように調理用の菜箸がたくさんある理由は、
一膳の菜箸をその都度洗いながら使っていては、とても非効率的だと考えるからですね。
まあ、言わずもがなのことですが。

んじゃあ、ひるがえってお箸だって、予備が多くあればよいかってえと、そうではない。
やはり上限にも、理に適った数というものがあるはずである。

うちは大人用と、子供用のお箸のサイズが違うから、
お箸がそれぞれ壊れた場合の予備品は、それぞれあって然るべきだなあ。
待てよ、最低限で生活して、壊れたお箸のみ、その都度新品を購入する方がスマートだろうか?
うんにゃ、すぐお店に買いに走ることはまず不可能であるから、
さしあたって、割り箸でしのぐ羽目になるな。その割り箸がすげー無駄だな。
で、あるからして、予備は各自一膳ずつあるのが理に適っているな。
なおかつ、弁当用のお箸や、お客さま用のお箸は、別と考えるのがよいな。

ちゅーわけで、「うちには、お箸が八膳必要である」という結論に至る。

これぞシンプリストの思考法であーる。

え? ただの偏屈じゃねーかって?

いやいや、「シンプル」と「偏屈」を紙一重に感ずるのは、

我々の暮らしにおいて「当たり前の答えを、当たり前に導き出す」ということが、

それぐらい難儀だっちゅーことで。ははは、く、苦しいか。




「うちには、お箸が八膳必要である」

さて、上記を踏まえて、実際うちにお箸が何膳あるのか確認してみた。

大人用=予備含め四膳。

と、謎の一本。

子供用=予備含め四膳。

と言いたいところが、一本足らず。

結果、

七膳と、謎の一本と、一本足らず。


でした。


・・・・うーーむ。



・・・・さすがは、僕の妻。



僕の理想のくつがえし方が、僕の想像を超えている。



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最終更新日  2020.03.25 12:28:11
2020.03.20



少々、お久しぶりぶり座衛門。


さて。


以前、妻に、


シンプルに口が臭い。


と言われて、たいそう落ち込んだことがあります。


この「シンプルに~」という言い回し、

端的に、率直に、自分の気持ちを伝えることが出来るので、

ついつい無思慮に使いがちなのであるが、

言葉のニュアンスに、まるで相手をおもんぱかる余地がないので、

よくよく注意して使わないと、知らずに相手を傷つけているかもよん。

言われたほうも、一聴して素直な意見に欧米チックなハグで近寄ると、

気が付くと脇差で腹を刺されていた、みたいな傷つき方をする羽目になるかもよん。




例えばさ、自分が作った手料理を食べた家族の感想が、


シンプルに美味しい。


の一言であったら、

僕なんか、うれしい反面、はんなりとディスられた感も否めないのよね。


そうそう、若い頃、僕が告白した女の子にフラれる時の、フラれ文句で一番キツかったのは、


シンプルに嫌だ!


だった。

いやいや、断るしてもさ、あるじゃんね、フィーリングが何たらとか、音楽性の違いがどうたらとか。


あと、高校の頃、いろいろあって、生徒指導室で僕と先生とが激しい口論になったことがあってさ。

まあ、口論とは言うものの、クソガキが精一杯の理論をもって、

教師への不満、学校の問題点、校則廃止論などを、一方的に30分ぐらい延々熱弁しただけなのだけれど。

でさ、僕の熱弁を黙々と聞いていた先生、聞き終わった後僕に何て言ったと思う?


シンプルに馬鹿。


ははははは。こ、これはねえ、グサッときたねえ。

脇差で腹刺されて、でろんと腸が床にこぼれたもん。

言うに事欠いて「シンプルに馬鹿」ってか。

現代っ子なら、三回は自殺してるっちゅーの。





かくいう私も、「シンプルに~」は、口癖のように四六時中使う言い回しであり、

ひょっとしたら、知らず知らずに人を傷つけているのやも知れぬ。

だって、会社の廊下で部下とすれ違いざまに「部長、私、あの件、許した訳じゃないですから」とか言われちゃって。

あ、あの件って、ど、どの件だろう?つってドキドキしちゃうしさーもー。

取引先の担当に、

「そういえば、ゼネコンのA監督が、あなたにいつか仕返しするって息巻いてましたよ」

なんて密告されちゃって。

だ、誰だろう? ゼネコンのA監督って、いったい誰だろう?つってハラハラしちゃうしさーもー。

ちゅーわけで、「シンプル」も扱い方次第で、危険物になりまする。

取り扱いには、ご注意を。さーもー。



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最終更新日  2020.03.21 07:23:33
2020.03.01
つい最近、楽天ブログやブログ村の、このブログの紹介文を変えたんです。
相も変わらず、くそ無意味な駄文でごめんなさいですが、
その駄文の筆頭の文言を「シンプリスト」としました、はい、ごめんなさいです。
てか、このブログ、開設当時から、思いつくことを思いつくままに書き殴り続けた結果、
ここんとこ日記の取っ散らかりようが半端なく、
自分でも収集がつかなくなっちゃって、何がしたいんだか分らなくなっちゃって。
んでまあブログの芯のところを「シンプリスト」としておくことで、
ちったあ、つかまえやすいブログになってくんねえかなと。
さて、ミニマリスト同様、こういった者になるために、試験や手続きなどはなく、
先ずは自他ともに声高らかに表明するところから、全ては始まるわけである。

ちゅーわけで、僕はシンプリストです。

そして、これは、シンプリストのブログです。

以後、お見知りおきを。




さて、軽快に表明してみたものの、さっそく大きな壁にぶち当たりましたよ。

シンプリストとは、何ぞ?

眼前に立ちはだかる、めんどくさい壁超えるべき壁。

たしかにミニマリストほどメジャーでなく、定義も曖昧模糊としていて、
シンプルライフというくくりで、アバウトに語られているのが現状のシンプリスト。

シンプリストとは、何者ぞ?

このテーマを、しばらくの間、ちょいちょい掘って行きますので、よろしくどーぞ。
つってもまあ、正直なところ、明確な先駆者、有名な発掘者がいないので、
こっちで好きなように掘っていけるのが、実に気楽でいいわん。
んで、今回は手始めに、シンプリストとミニマリストの違いってのを探ってみる。

「シンプリストとミニマリストの違い」

これまでも、何人かの人がその違いについて書いていますね。
では僕も、僕なりに、あくまで僕なりに、あらかじめ言っときますけど僕の私的見解を書いてみたいと思います。

では、先ずはミニマリストから。


「ミニマリストとは何者ぞ?」

行者 山伏 世捨て人 へそ曲がり

え~っと、ミニマリストについては、多くの人が指摘している見解と僕も同じです。

ミニマリストが見ているのは、自分です。

物事に自分を投影して、内に深く、自分を見つめ続けている。

そして、まわりから見れば、時に滑稽ととられるほどの徹底ぶりで、物事を削いでいく。
それはことさら、かつて自分が翻弄され続けた事柄について顕著に発揮されるようで、
食であったり、ファッションであったり、インテリアであったり、人間関係であったりと、
ミニマリストそれぞれに、執着する事柄は違うのだけれど、
かつて自分を翻弄した事柄の振り子を、同じふり幅で反対側に返すような勢いで削いでいく。

くり返し言いますが、ミニマリストが見ているのは、自分。

僕はミニマリストを想う時、いつも「合わせ鏡」をイメージします。

鏡に鏡を映すと鏡が映る。その鏡にも鏡が映る。その鏡にも鏡が映る(永遠に続く)・・・。

ミニマリストは、合わせ鏡。

今の自分と、過去の自分を、向かい合わせにして生きている。

今の自分に映った過去の自分に映った今の自分に映った過去の自分に映った今の自分(永遠に続く)・・・。

そんな自分を見つめ続けている。

そして今日も、心の隅の隅に指を伸ばし、そっと撫で、

その指先についた微かな汚れを、じっと見つめて考え込んでいる。

うまく説明出来ませんが、僕のミニマリストに待つイメージは、そんな感じ。

何度も重ねていいますが、あくまで、僕の見解っす。ごめんなさいです。





では、今度はシンプリスト。


「シンプリストとは何者ぞ?」

バカ 貧乏 わがまま ドブネズミ

え~っと、シンプリストについても、ちょいちょい他者様がご指摘している通りっす。

シンプリストが見ているのは、「モノゴト」です。

「物事」ではなく「モノゴト」。ここが、ポイントね。

モノゴトに自分を投影することなく、外に広く、生活を見つめ続けている。

「物事」の本質を見抜き、単純化するため、

「物事」をじーーっと見る。

自我や執着を捨て、ただ「物事」だけを観察する。

すると「物事」が、所詮は「モノ」と「コト」に過ぎないことが、だんだん分かってくる。

詰まるところ、「モノ」は「モノ」でしかなく、「コト」は「コト」でしかないのだ。

・・・うーむ、我ながら、言っとることがサッパリ分らん。ははは。

よし、さっき調子よく書けたから、シンプリストも「合わせ鏡」で例えてみっか。

シンプリストを「合わせ鏡」でイメージすると。

自分はイボ痔である。患部が見たい。でも見れない。どうすれば自分のイボ痔が見れるだろう。

そうだ!合わせ鏡だ!

鏡と鏡を合わせれば、イボ痔が見れるぜオーマイ、ガッ!

そして、自分のに患部に指を伸ばし、そっと撫で、

その指先についた微かな汚れを、じっと見つめて考え込んでいる。


・・・おま、シンプルライフ界隈で暴動が起きるぞ。





えー、この度は誠に申し訳ありませんでした。

つっても、この件、まったく懲りずにちょいちょい掘り下げていきますんで~。

え? 墓掘りも、ほどほどにしとけって?

たしかにね、

みずから墓穴を、

あ、掘って、あ、掘って、また掘って~。




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最終更新日  2020.03.21 07:25:48

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