時局2023年8月号に連載「三橋貴明の経世論 第76回 国民の目を曇らせる財政破綻の眼鏡」が掲載されました。
昨日は「アダムの罪」について解説しましたが、人類の貨幣観が狂ったのは、別にアダム・スミスからではないのです。もちろん、スミスの貨幣観の間違いが、その後の「経済学」を前提が間違ったまま発展させてしまったという点で、罪深いのは確かですが、
古代ギリシャの哲学者、アリストテレスは、「政治学」で、貨幣について以下のように書いています。
『例えば鉄とか銀とか或は何か他にそういうようなものがあれば、そのようなものを交換のためにやったり、取ったりしようということを相互の間に取りきめた。こうしたものの価値は初めのうちは単に大きさと重さによってはかられたが、しかしついに秤かる面倒を省くために、また刻印がその上に押されるに至った。何故なら刻印は「どれだけか」の印として押されたから。』
アリストテレスの説明を読んだ人は、全員が全員「貨幣とは物(貴金属)である」と、誤解するでしょう。
貨幣とは貴金属の大きさや重さであった。もっとも、決済の際にいちいち計るのが面倒であるため、金属の円盤を作り、刻印を押した。刻印は「どれだけか?」を意味している。
という話なのですが、この場合は「どれだけか?」の信憑性が問題になります。例えば、10円の価値(重さ)しかない銀に「100円」の刻印が押されていた場合はどうなるのか?
何の問題もないというか、何の問題もなかった、というのが最大の問題なのです。
貨幣を発行するのは、共同体の権力です。例えば、国王です。
国王が、10円分の銀で100円銀貨を発行し、支払いをする。何の問題もない。
この場合、バランスシートを見ると、
◆ 国王 借方- 貸方100円
◆ 支払いを受けた者 借方100円 貸方-
と、国王の純負債、支払いを受けた者の純資産がそれぞれ100円増える。つまりは、「国王は支払いを受けた者(厳密には銀貨を持つ者)に100円の借りがある」という貸借関係が成立しています。
「で?」という話なのです。
銀貨の量ではなく、貸借関係こそが、貨幣です。そして、国王の下に銀貨を持ち込み、「おら! お前は俺に100円の借りがある! 金を返せ!」などとやる人はいません。
そもそも、貨幣とは共同体内における購買力の所有権です(形は貸借関係)。貨幣で購買ができるならば、別に媒体は何でもいいのです。(逆に、だからこそ貨幣は共同体の境(今ならば国境)は越えられない)
ちなみに、この種の「正しい説明」をすると、それまで「貨幣は物だ」と叫んでいた連中が、
「だからと言って、貨幣を発行しすぎればハイパーインフレがー」
とか反発するのですが、その懸念は認めるけど、とりあえずは、
「貨幣が物だと、嘘を言っていました。ごめんなさい」
と、謝罪するべきでは?
財政破綻論(国債の債務不履行論)を叫んでいた連中も同じですが、なぜ彼らは「自分の当初の説が間違っていた」ことを反省することができないんですかね。藤巻健史が、「財政破綻すると言っていません」と言い出した時には吃驚したけど、
「今まで嘘を言い続けてごめんなさい」
とは、言わないんだよね、絶対に。(それでハイパーインフレ論や日銀破綻論にシフトした)
人間として、欠陥があると思うよ。
ところで、アリストテレスの定義に従うと、媒体は貴金属に限られてしまいます。結果、貨幣には「量の限界」があるという誤解が広まり、
「政府はどこかから貨幣を調達しなければ、支出できない」
「国債で貨幣を調達し、支出したとしても、後で税金で返済しなければならない」
という誤解が広まった。
記事タイトル: アリストテレスの罪
▼ブログの続きを見る
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12811994835.html?frm_src=favoritemail
===============================
インターネット・コンピュータランキング
===============================
ネットサービスランキング
===============================