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2023.03.06
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カテゴリ:旅行 東京
横須賀にある戦艦三笠
日露戦争の日本海海戦で大勝利を飾った
東郷平八郎大将が乗船した旗艦船

日露戦争開戦1904年明治37年
当時世界最強といわれたロシアとの戦争が始まる
ロシアの南下政策を阻止する為の戦いでもあった
(現在のウクライナと同様)ロシアは当時から
現在に至るまで姿勢がまったく変わっていない。

またこの戦争は白色人種と有色人種の初めての
戦いであり日本が勝利した事でその後の世界激変
に繋がる、この勝利がなければ今もイギリスや
アメリカの植民地支配が世界中で続いていた。

日露戦争を勝利に導いたのは、陸軍、海軍が戦場
で戦う以外にロシア国内における諜報活動を行う
(今でいうスパイ活動)や開戦と同時にアメリカ
にロシアとの仲介を依頼するなど(戦争終結の為)
明治政府の外交力の高さもあった。

JR横須賀駅は少しイメージと違い寂しい駅
街の中心部からは少し離れている。


自衛隊の基地でもある横須賀
日本における潜水艦基地はこの横須賀と
広島の呉の2か所のみ、潜水艦は全部で
21隻もっており航続性能や静寂性能は
世界で高く評価されている。




護衛艦でしょうか
何隻か停泊中



駅からはバスで三笠公園まで向かいます



在日米軍基地も横須賀にある
第七艦隊に所属する空母ロナルド・レーガン
の母港でもある。

ちなみに日本でコロナがいち早く流行するのは
必ず米軍基地周辺地域、米軍関係者はノーチェック
で世界各地から日本の米軍基地に入りウイルスを
基地関係者や周辺の歓楽街でまき散らします。

日本各地の国際空港でいくらチェックを厳しくしても
アメリカ軍を何とかしなければ税金の無駄使いに終わる。
100年前に発生したスペイン風邪はもともとアメリカに
よって世界中に広まった。(アメリカ風邪に名称替えるべき)

そもそも国内に米軍基地があるのは太平洋戦争に
日本が負けて以降各地で不当に占拠されている。
(占領状態の継続)
一応日米安保と理由をつけていますが

沖縄の現状は悲惨、在日米軍の8割が沖縄に集中
また沖縄本島の面積2割を米軍が占めている。
米軍滑走路の延長線上(数キロ)に民家があり
超低空で戦闘機や戦闘ヘリが飛んでいます。
いつ墜落など事故が起こっても不思議でない
実際に航空機事故や米軍人と日本人との事件
・事故も多発している。

米本土の航空機基地の滑走路の延長線上(数キロ)
には民家は存在しない。日本人の命が軽く見られている。

先日沖縄在住の方から聞きましたが、騒音は戦闘機
だけでなく、米軍の普天間飛行場に配備されている
オスプレイ(垂直離着陸機)のモード切替時には
騒音と振動で家(マンションなど)も揺れるそうです
(ヘリモードから飛行機モードへプロペラの角度変更時)

在日米軍横須賀基地入口



約10分で到着



戦艦三笠
「三笠」はイギリスのヴィッカース造船所に発注
した戦艦、明治35年3月に竣工、横須賀に配備され
明治36年12月連合艦隊に編入され旗艦となった。



東郷平八郎大将




入場料600円



無料ガイドツアーも開催されます



連合艦隊司令長官の東郷平八郎司令官
の乗艦船



船体横側には沢山の砲
当時は艦船はお互い横向きで攻撃を行った



船内の様子
床板の一部は明治当時の物が残っている



通信室
「本日晴朗なれど波高し」
有名な電文もここから発信された
起草したのは秋山真之

視界が良く波が高かったのは日本の勝利
に大きく繋がっている。





砲身への弾詰込み
全て手動で行った



弾薬の補充もバケツリレー方式



一般兵の寝床はハンモック
かなり寒かったのだはないか?



船体の先方から見た三笠
東郷司令官が指揮を執ったデッキも見えます



在日米軍施設も近くにある



バルチック艦隊と戦闘時指揮を執っっていたデッキ




この中央で東郷長官が指揮




三笠乗艦のメンバー






デッキの下にある指令室
通常はこちらで指揮する



三笠の精巧な模型




艦長クラスの洗面所と風呂
(船後方)



幹部の食堂
作戦会議なども行われた部屋
(船後部)




滑り止め加工が施された食器棚



幹部の食堂



イギリスでの進水式
三笠



日本海での三笠




日露戦争時の三笠



デッキで使われていた双眼鏡



日露戦争に勝利した日本が結んだ
講和条約
ロシアの南下政策を止めた日本

バルチック艦隊と戦った日本海戦で勝利した勝因
①徹底した戦闘訓練が実施されていた
 (ロシア側の油断)
②火薬性能が高い、発砲した後に煙が少なかった
 為視界が良好であった。
 (ロシア側は黒煙を発し視界不良であった)
この2点が大きかった



当時の地図と勢力図
これを見るとウクライナの件は遠い国の話ではない



東郷平八郎(1848年~1934年)
海軍軍人、最終階級は元帥海軍大将
鹿児島加治屋町生まれ
西郷隆盛や大久保利通と同じ町内の生まれ
西郷隆盛1828年生まれ、大久保利通1830年生まれ
20歳くらい下の後輩にあたる

1862年薩摩藩士として薩英戦争に従軍
戊辰戦争では春日丸に乗船し函館戦争でも戦う
明治になると海軍士官として明治4年~明治11年まで
イギリスのポーツマスに官費留学する
西郷隆盛の西南戦争時はイギリスに居たため参戦
せず、もし日本にいたら西郷さんについていたと
後日語っている。



鹿児島市多賀山公園にある
東郷平八郎墓所
遺髪が埋葬されている
桜島と鹿児島市内が一望できる高台

(訪問時撮影)


新幹線の鹿児島中央駅前が加治屋町
歴史に残る偉人をたくさん輩出した街(町内会)
訪問時撮影


現在の加治屋町、雲の先には桜島が見える
訪問時撮影


この地域では郷中教育が盛んにおこなわれていた
訪問時撮影


教育の内容
このような独特の風土が西郷隆盛の私学
に繋がっていく
訪問時撮影


西郷隆盛生誕地(加治屋町)
訪問時撮影


大久保利通生い立ち地(加治屋町)
訪問時撮影


東郷平八郎誕生地(加治屋町)
現在は学校となっている一部に
記念碑が建っている
訪問時撮影


山本権兵衛誕生地(加治屋町)
訪問時撮影


大山巌誕生地(加治屋町)
訪問時撮影


明治の初めは薩摩族と長州族が政府の要職
を占めていたため同じ町内会からこれだけの
人物を輩出できた。





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最終更新日  2023.03.24 09:03:59
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